心の傷は消せませんって、さ
昼休み、購買のパンを買って教室の戸に手を掛けた。そのときいつもより教室が騒々しいことに気付く。
俺はチラリと窓から覗き、中の様子を確認した。
見慣れない生徒も交えた十数人程度が、教室の机を集めて騒いでいる。
どうやら他クラスの奴も何人か混ざっているようだ。
詳しい会話内容までは聞こえないが、時折聞こえてくる奇声から、王様ゲームなり心理テストなり、そういった類の遊びに興じていることが分かる。
「…………」
見ると、連中が腰掛けている机の一つに、俺の席があった。
そこで俺は諦めて、別の場所で食事を摂ることに決める。
どうせなら人気の少ないところが良いが、生憎と図書室は飲食禁止だ。
かと言って中庭や校舎裏は、カップルの溜まり場になっている。
いっそ便所飯か? いや、流石にそれは遠慮願いたい。
熟考の末、俺は屋上という案に思い至る。
あそこへ続く階段は校舎内の外れにあったはずだから、そんなに人も多くない筈だ。
俺はそそくさと騒々しい教室を後にして、渡り廊下を歩く。
そのまま特別教室が集まった第二校舎に入ったが、想定外に人が多い。吹奏楽部や美術部が集まって、駄弁りながら練習していたのだ。
少しばかり萎えた気分を奮い立たせ、ここまで来たのだからと廊下を歩き続ける。
そのまま、薄暗いトイレ、備品倉庫、記念品安置室を越えて、俺は最奥の階段を上った。
「……あ」
階段の一番上の段の端に、名倉さんが座っていた。
一瞬回れ右しようかとも思ったが、俺は屋上に用がある。
そのまま努めて冷静に階段を上り、屋上へ続くドアを引いた。
「あの、鍵、掛かってるよ?」
何度かドアノブを引く。
名倉さんの言う通り、鍵が掛かっていた。
「……そのようだね」
「っ、お昼、食べるの?」
「まあ、うん。チョココロネを」
そのまま帰ろうと思っていたのだが、想定外に会話が続いてしまい帰るに帰れなくなる。
結局俺は諦めて、階段の端に腰掛ける。名倉さんとは逆側の端だ。
一つ目のチョココロネを手に取り、二つ目のチョココロネは膝の上に置いたところで、名倉さんに再び声を掛けられた。
「どっちも、チョココロネなんだね」
「まあ、あぁ」
「好きなの?」
首を傾げて、名倉さんは聞いてくる。
彼女の意図が読めなかった。
今の彼女は教室にいるときと違っていて、だけれど一緒に遠くへ逃げたときとも違っていたから。
ただ、どこか気分が落ち込んでいるように見えた。
「チョココロネは、まあ、好きと言う程でもない」
「そうなんだ~」
それっきり、俺達は静かにそれぞれの昼食を摂り始める。
場には小さな咀嚼音と、箸が時折弁当箱を擦る音だけが響いた。
全てが遠く、屋上に続くドアから差し込む日差しが、妙に明るく思えた。
「……名倉さんが一人で昼食というのも、珍しいね」
一つ目のチョココロネを食べ終わったタイミングで、俺は少しだけ気になったことを尋ねる。
「そうかな? そうかも。うん、なんだか、今日の教室は少し、居づらくて」
「そういう日もある」
「……でも、初めてかも」
彼女は箸を置き俯いた。
「皆と一緒に居たくないって、思ったの」
俺は黙って聞いていた。
何と言って良いか分からなかったから。ただ、以前の彼女であれば絶対に出てこなかった言葉であろうことは確かだった。
「……浅野くんもそう思ったから、ここに来たんでしょ?」
「え?」
虚を突かれた。
確かにその通りだったが、まさかここで問いかけられると思っていなかったから。
気が付かないうちに名倉さんは、随分と変わったらしい。
俺はその事実に一抹の寂しさを覚えつつも、勝手な感情は忘れることにした。
「俺は、俺も、まあ、うん。教室が煩かったから」
「ふふ」
名倉さんは口元に手を添えて小さく笑う。
俺は「はは」と笑って返した。
二つ目のチョココロネを口に含む。
「そういえば、さ」
「……ああ」
「浅野くん、応援練習、来なくなったよね」
「ああ、それか。うん、図書室でサボっている」
「えっ、そうだったんだ。意外、かも」
「そうかね」
「うん、何にでもちゃんと向き合う人なのかなって、思ってたから」
「勘弁してくれ。俺はどちらかというと不真面目な方だよ」
「そっか」
名倉さんは視線を落とし、弁当の隅に残っていた小さな鮭の欠片をつまんだ。
無言がしばらく続く。
吹奏楽部の練習が始まる頃に、名倉さんは再び口を開いた。
「そういえば、一年生が初めて応援練習に加わった日に浅野くんが連れてった子も、あんまり練習来なくなったよね。浅野くん、何か知ってる?」
「ああ、サボっている俺を連れ戻しに毎日来ているよ」
俺がそう答えると、彼女は上手に目を細め、笑顔を作った。
「……うん、前に一緒に帰ってたもんね?」
知っていたのか? というか、見ていたのか?
別に、だからどうという訳でもないが、少しばかり気まずさを覚えた。
彼女の意図するところが分からない。
俺が思案していると、名倉さんは両手をギュッと握りしめる。
そして、心が痛そうな顔で俺を見た。
「私ね、浅野くんに出会ってから、たくさん変わっちゃったんだよ?」
そう言うと彼女はさっと立ち上がり、足早にこの場を後にする。
俺は彼女の言葉の意味を測りかね、追いかければ良いのか声を掛ければ良いのかを決めあぐねているうちに、彼女の足音さえ聞こえなくなってしまった。
一人、薄暗い階段に座り込み、吹奏楽部の練習を聞いている。
昼休みは長い。
名倉さんは変わったと言った。俺と出会ったことが原因で。
であればその責任の所在は俺にあるのだろうか?
そも、彼女はどう変わったのだろうか? 彼女は俺に何かを求めているのだろうか?
全部、少し前までは分かっていた気がした。
今は、何も分からなくなっていることに気が付いた。
「最近は、話をしていなかったからな」
それどころか、俺に対する興味さえ失っているものと思っていた。
「……よだかの星、か」
醜い夜鷹が、悲痛に飛び回りながら最後は星になる話。
そんな俺が渡した本を、彼女は家で繰り返し読んでいるという。
俺は名倉さんの表情を思い出し、次に平川と綾加のことを思い出した。
もしかすると、俺の預かり知らぬところで何かが致命的に拗れていっているのではないかという不安が膨らむ。
時間が解決できない問題というものも、世の中にはあるのかもしれない。
そんな可能性が、今まで逃げて諦め続けてきた俺には少しばかり恐ろしく思えた。