くっさ~
「先輩、またそんな字がちっちゃい本読んでるんすか?」
綾加はべったりとテーブルに倒れ伏したまま、怠そうに横目で俺の本を見る。
「別に普通だよ。漫画の文字だってこれくらいの大きさだろう?」
「マンガ読まないから分かんないっす」
驚いた。まさかそんな人間がこの世に存在するとは。
「マンガも読まないとなると、何を読むんだ? 絵本か? 或いはお菓子の成分表示でも読むのかね?」
「あー、動画のコメントとか見るの好きっすよ」
「……現代っ子だな」
「先輩もでしょ」
「その筈なんだが。応援団の踊りの元ネタを見ても、流行っているらしいのにまるっきり知らなくてね。それ以降どうにも自信が無い」
「あー、そっすか」
俺が応援団という単語を出すと、綾加の表情が少し硬くなった。
どうやら彼女にとって、あの場所から逃げている現状はあまり好ましくないらしい。まあ、当然か。
諦めを伴わない逃避は、常に罪悪感が付き纏うのだ。
そして何より、逃げるということは即ち、先延ばしを選択し続けるということである。
諦めきれない問題を残したまま、もしかしたらという期待と諦めてしまった現状に揺れ続ける。
正しく苦悩と言えるだろう。
故にこそ、自分に対してどこまで諦めるかの線引きが重要なのだ。
綾加を見る。
どこか無気力にテーブルへ体重を預けた彼女は、数日前と比較して随分小さい。
「…………」
思考を止め、本のページを捲った。
以前よりも少しだけ、綾加を近くに感じながら。
俺はきっと、現状が嫌いではなかった。
体育祭の応援練習なんて行きたくなかったし、横目で世界を窺うような綾加の姿に安心する。
どこか自分と似たものを感じているのだと思う。
この、ぬるま湯のような停滞がいつまで続くのかは分からない。
ただ俺は、今しばらく現実逃避を続けていたいと思っていた。
「……そろそろ帰ろうか」
「そっすね」
重いバッグを肩にかけ、椅子を引いて立ち上がる。
綾加は俺に続くようにして後ろからついてきた。
「最近は、少し日暮れが早くなってきたな」
廊下の窓から差し込む少し赤らんできた日差しを見ながら言う。
すると彼女は首を傾げた。
「綾加、あんまりそういうの分かんないっす。ていうか一日長すぎて、早いとか遅いとかなくないっすか?」
「いや、あるだろう。まだ五時四十五分だ」
「そんな、夕方のたびに時計見ないっす」
「俺も別に夕方の度に時計を見ているわけではないが……ううむ、まあ確かに抽象的な話か。存外、この感覚は共有できるものでも無いのやもしれん」
「そっすよ」
「そうだな」
そんなやり取りをしながら正門から出ようとすると、視界の隅で応援団の練習を捉えた。
いつもは五時半くらいに終わっているのだが、本番も近いから気合を入れているのだろうか?
綾加の方を見ると、努めて応援団の方を見ないようにしていた。
表情は硬い。きっと、団員が練習している最中先に帰るのは、彼女の正義に反するのだろう。
後ろからは応援団の太鼓と、バラバラの応援歌が聞こえていた。
「……どうしたんすか? 行くっすよ?」
立ち止まった俺に、綾加はそう言った。
聞こえる歌と太鼓には、気がついていない振りをして。
「……おう」
俯きながら先を歩いている彼女は、きっと不本意なのだろう。
けれども足早に歩くしかないのだから、そうするのだ。
俺は何かを間違えてしまったように思いながら、彼女の横で帰路を行く。
時は既に遅いのか、判断を先延ばしにして。
+++++
「じゃあ、また」
綾加に軽く手を上げて、いつもの分かれ道で右に進む。
「あ……」
服の裾を掴まれた。
綾加は口を少しだけ開けて、しかし何も言わない。
何かを言う時はハッキリと口にする人間だと思っていたから、その煮え切らない行動は少し意外だった。
「どうかしたかね」
「えと、あの、先輩って……好きな人とかいるんすか?」
随分唐突な質問だった。
惚れた腫れたの話題というのは、どうにも胡散臭くて好きでは無い。
けれども綾加の様子がただ恋バナをしてやろうという態度にも見えなかったので、俺は出来る限り真摯に応答するよう努めた。
「考えたことも無かったな。そもそも俺は人好きのする性格でもないし、何より最終的に人間関係は全て破滅すると思っているから」
「な、なんすかそれ……ヤバいっす」
「深く知り合うほど摩擦が大きくなるということだ」
「はぁ、んー、ま、とりあえず好きな人はいないってことなんすね」
「……さてね、俺はもう行くぞ」
「了解っす! また明日!」
「ああ、さよなら」
俺はそう言って、今度こそ分かれ道を右に進んだ。
俺は上の空だった。
好きな人はいるのか? その問いを聞いたとき、まず浮かんだのは名倉さんの顔だったからだ。
尤も、それは無意識的なイメージだ。だから彼女を好きだ嫌いだという話ではない。
ただ、とにかく、彼女の姿が浮かんだのだ。
名倉さんは、言ってみれば俺にとって失敗の象徴である。
そして、自分の無力さを再認識させられたタイムリーな出来事の中心。
俺はきっとどれだけ時間が進もうと、彼女の持つ首締めへの執着を受け入れることはできないだろう。
しかし考えてしまうのだ。
今まで自分というものがとことん希薄だった彼女の、唯一見つけた執着が、やはり誰にも受け入れられなかった等ということがあっても良いのだろうか、と。
俺が知る中で、一番孤独な人間は名倉さんだ。
何故なら彼女の孤独は共有できない。
一見すると周囲を人に囲まれた彼女より、あゆみの方が孤独に見える。けれど、名倉さんには孤独という括りの同類すらいないから。
ああ、自分なら彼女の孤独をどうにかできると思うのは傲慢だが、どうにかしたいと思うのも傲慢だろうか?
夏休みの終わりにはこんなこと考えもしなかったのに、学校でふと目を向けるといつも笑顔を浮かべている彼女に、どうしたってそんな思いが大きくなった。
とはいえ彼女に話しかけもしないのは、圧倒的に自らの無力を自覚したからなのだが。
階段を上り、自宅の玄関を開ける。
考えに耽っていると、いつも時の流れが早い。時折、まるでワープでもしたのではないかと思う事さえあるくらいだ。
「あ、来た」
ドアを開けると、玄関でうつ伏せになりながらゲームをしていたあゆみがチラと視線だけこちらに向ける。
「床、冷たくないか? お腹、冷えるだろ」
「んー、まあ」
「……今度レトルトのおかゆ買っておくから、俺の帰りが遅くて体調悪くなったら食べて良いからな」
「えー、レトルトのおかゆ不味いからヤダ。メッセージ送るから晋作が早く帰って来てよ」
あゆみはゴロリと仰向けになると、にやにや笑いながら俺の足を掴んで来た。
傲岸不遜は以前からだが、最近はそこに甘えが混じっているように感じる。
仮にも一定の信頼を置かれている大人として、このままで良いのかは少し疑問が残るところだが、どうすれば良いのかは判断が難しかった。
あゆみは頭が良いから、わざわざ躾のようなことを言うのは違う気がする。かと言ってこのままでも良いのかというと疑問が残る。
とはいえ家に居場所が無い彼女にとって、ここくらいは好きに過ごせる場所にしたいとも思う。
彼女は子供で俺は大人だ。
だが、正しい子ども扱いというのがどういうものなのかが分からない。
「……なに?」
俺の足から靴下を脱がそうと躍起になっていた彼女は、自分を見つめる視線に気が付き見つめ返してくる。
「や、うん。名倉さんは最近どうしてるかと思ってね」
どうやって子供扱いするのが正解か考えていた。と正直に言ったら怒られる気がして、咄嗟に浮かんだ話題でお茶を濁す。
「は? 学校で会ってるでしょ」
もっともな反論。
「まあ、だが学校では会話が無いのでね」
「ふーん、話さないんだ」
少し気分が良さそうにあゆみは言うと、俺から奪った靴下を嗅いで臭そうにしながら言葉を続けた。
「アイツは家で、いつも通り。でも一人になったときは、ずっと同じ本を繰り返し読んでる。前はボーってしてるだけだったのに」
「なるほど」
存外、以前からの違いが判る程度には名倉さんに興味を持って、様子を見ていたんだな。
「因みに、名倉さんは何の本を読んでいるんだ……あ、いや、なんとなく聞いたが、少し気持ちが悪いかもな。やっぱり言わなくて良い」
「よだかの星」
あゆみはタイトルだけを簡潔に告げる。
「あっ、え、そう、か」
心底動揺した。
よだかの星は、俺が彼女に渡したものだったから。
勿論、ただ彼女がよだかの星を気に入っただけかもしれない。そこに深い意味など無いのかもしれない。
けれど、夏休み明けに目を逸らされたあの日、俺はすっかり拒絶されたものと思っていたから、動揺した。
思っていたよりも、激しく。
「……ほら、靴下を返してくれたまえ」
俺は気がつくと、努めて動揺を悟られないようにしていた。