ふんだり、けったり
久しぶりの我が家は薄暗く、どこか自分の家ではないように感じる。
とはいえ、女子小学生と家出したときにも一度帰って来ているので、そこまで懐かしさや感慨といった感情は覚えなかった。
「……ふっ」
気が付けば溜息が漏れる。
シンと静まり返ったこの空間では、それがひときわ大きく感じられた。
別段寂しさなど覚えるわけではないが、しかし監禁生活を思いのほか楽しんでいた自分に気が付く。
……けれど、もう終わったのだ。
思えば遅すぎたのかもしれない。
親に期待することを諦めたときに、全部切り捨てておくべきだったのだ。
スマホは名倉さんに捨てられてしまったので、俺は昔使っていたものを引っ張り出してきて、平川と芥屋先輩に文芸部を辞める旨のメッセージを送る。
そして二人のアカウントをブロックした。
残っているのは親との事務的なやり取り、それと女子小学生のアカウントだった。
女子小学生のアカウントもブロックしてしまおうとして、一件メッセージが送られて来ていることに気が付く。
内容を確認すると、泣いている猫のスタンプだった。
「…………」
俺がメッセージを閉じようとすると、スタンプが取り消される。
代わりに送られてきたのは、怒っている猫のスタンプ。
『いばしょ、ない』
続けて送られてきた文言には、酷く覚えがあった。
小学生の頃、俺も同じことを考えていたのだ。
誰も理解などしてくれない、理解しようともしてくれない。
みんなはただ、俺を見ずに理解者面をして否定してくる。
そして、ここはそんな世界だと諦めたから、今では居場所が無いだなんて考えることすらなくなった。
いや……違うか。
そんな世界だと諦めきれなくて、俺と似た人の話を聞こうとしたんだ。
まあ、その結果がこの有様なのだが。
酷くやるせない感情を反芻しながら、暗くなっていく部屋で一人ベッドに身を預けた。
こうしていれば、いずれ全てがどうでも良くなることを知っているから。
日が落ちていく。
薄暗かった部屋に夕日の茜が差し込み、外から聞こえてくるのは子供と親の話し声。
そして気が付けばもう夜だ。
脳内ではずっと、名倉さんの完璧な作り笑いと、女子小学生の鋭く細められた目を繰り返し思い出している。
涙は出ない。
何となく空虚な感覚だけが胸の内にある。
「……うるせー」
心の内が静かな分、記憶が酷く邪魔くさかった。
夏休みの記憶と幼少期の記憶が混ざり合って、自分と女子小学生の姿が重なる。
自分で自分を見捨てたような、最悪の気分が湧き上がった。
目を瞑る。
眠ってしまいたかったから。
だが、人とは得てして眠ろうとしているときほど眠れないものだ。
「……はぁ」
俺はノソリと状態を起こし、時間を確認する。
十時……少し思案するが、夜でもコンビニなら開いていると思いなおし、俺はサンダルを履いて外へ出た。
記憶の反芻にも疲れきって、気を紛らわせたかったのだ。
とぼとぼと暗くなった街を歩く。
街灯が照らしているので、夜だというのに足元は明るい。
もしかすると、夜なんてものはとっくの昔に消えてしまったのかもしれない。
何も考えなくて済むように、ボンヤリと歩く事だけに集中する。
単調に、俺の足音だけが夜道に響いていた。
そのままただ歩き続けていると、途中で公園に差し掛かる。
突っ切るとコンビニへの近道になるのだが、しかしここは女子小学生が家出したときに雨宿りした場所だ。
「……はぁ」
少し逡巡した後、突っ切ることに決めた。
いちいちこんなことで遠回りしていたのでは、いつまで経っても今日という日を諦められない。
俺は少し緊張しながら、大きな蛸の遊具の前を横切る。
そのとき、「……ぅ」と絞り出すような声が聞こえた。
咄嗟に、女子小学生の声だと思った。
俺は一瞬だけ立ち止まる。
先程送られてきた『いばしょ、ない』というメッセージ。
だが、俺はもう人と深く関わらないと決めたのだ。
そう自らに言い聞かせ、俺は再び歩みを進める。
諦めろ、諦めろ、諦めろ。
俺が俺に言い聞かせてきた言葉だ。
大人だってただの人間で、だからカスばかりなのだと。
人間とは正しく在ろうとしないのが普通なのだと。
そう自分に言い聞かせて来た。
現実はそういう形をしていないからこそ、己に正しく在ろうとする人間が、物語では正義の味方や悪役になれるのだ。
だから、周囲の大人に、現実に期待するのを諦めろ。諦めろ、諦めろ。
……今、女子小学生もそう思っているのだろうか?
そうやって人生を続けることで、彼女も俺のようになってしまうのだろうか?
蛸の遊具の前を通り過ぎる。
既に深く関わってしまった。
それを放り出す事は、きっと酷く無責任だ。
だが、しかし、俺は……
小さく息を吸う。
そして、一歩二歩三歩と踵を返した。
迷いながらも蛸の遊具の前に立つ。
巨大な化け蛸に見下ろされているようだと思った。
俺は蛸足の隙間から中に入ろうとして、しかし再び立ち止まる。
そしてその場にしゃがみ込み、ポケットからスマホを取り出した。
『やあ』
メッセージを送った瞬間、蛸の遊具の内からピコッと音が鳴る。
送ってしまった。
どっちつかずで中途半端、どうしようもない自分の弱さが嫌になる。
罪悪感に絆されて、一度決めたことすら揺るがして、これではまさしく大衆と同じ。
けれども彼女の攻撃性と、涙を流すまいと歪んだ顔が、どうしても頭から離れないのだ。
これからどうすべきか、グルグル脳内で組み立てていると、返信の通知が画面上部に現れる。
返って来たのは、『なに』という簡素な文言だった。
俺は少し考えて『遊具の外にいる』とだけ送る。
遊具内から再びピコッと音が鳴り、続いてドタバタと騒がしく動く音が聞こえてくる。
そして、遊具の中から出て来た彼女は、ただ黙って俺を見下ろした。
「……良い夜だな」
街灯に照らされた彼女に告げる。
「最悪」
彼女はそう呟くと、そっと片方の靴を脱ぐ。
そしてそのまま足を掲げ、俺の顔を踏みつけにした。
ぐに、と鼻の頭が潰れるのを感じる。彼女の靴下には、穴が開いていた。
「止めたまえ」
俺の要求は毎度の如く棄却される。
しかし、体制が悪かったのか、足の裏がくすぐったかったのか、女子小学生は「ひゃあ!」と声を上げて後ろに倒れ込んだ。
「わっ、大丈夫か?」
「……っ! うるさい! バカ! バカバカバカバカ!」
俺は咄嗟に足を掴むと、彼女は足をバタつかせて俺の手を振り払った。
そしてそのまま、顔を真っ赤にしながら俺の腹をポカポカッと殴り始める。
「バカ! バカ! ばか! ばかぁ……だれも、見つけてくれないかと思った」
最後に、女子小学生は俺の腹に顔を埋めて小さく呟く。
俺はどうすれば良いのか分からず手を宙にさまよわせた。
「……ぜんぶ、やだ」
女子小学生はしばらく黙った後で、そう口にした。
「いやなことあったら、言ってよ。言わなきゃ伝わんないって言ったの、お前じゃん。私、ちゃんとお前の話、聞いたげるって言ったじゃん……そういうの、できるって思ったから、ペットなんだよ? ペットって、家族なんだよ? ねえ?」
下から覗き込むように、彼女は潤んだ瞳をこちらに向ける。
……いや、無理だろう。
伝えろと言ったのは確かに俺だ。だが、自分が伝えられるかは別問題。
自分の意思を他人に伝えたところで、どうしたって意味があるとは思えなかった。
何度言っても意味などなかったから俺は全てを自己完結させてきたし、よしんば伝えて変化があっても、人が俺の都合を汲んで変わってくれると思えるほど楽観的には今更なれない。
「…………」
黙っている俺を見て、女子小学生は口を尖らせる。
「言ってよ」
「言っても意味があるとは思えない」
「言ってってば! いやなこと言ってくれたら、私しないもん。私、お前の首しめたりしないもん! ずっといっしょにいれるもん!」
彼女はそう言いながら、癇癪を起したように首を振る。
「……だが君は、俺が言っても暴力も、謂れのない罵倒も止めなかっただろう?」
「あ、ぐ、うぅ……」
自分が何度も暴力や罵倒を指摘されていた自覚があったのだろう、彼女の表情が硬くなる。
「別に糾弾するつもりは無い、人には譲れない一線というものがある。君が君であるために俺を監禁したように、名倉さんは首を絞めるという方法で自らを示したんだ。そんな譲れない一線の摩擦はきっと、みんなに混ざれなかった俺や君では無視できないよ」
「え、ぅ……ご、ごめ、ぐ、にゅ……バカ! バカ! バーカ!」
一瞬、謝りかけた女子小学生は「バカ!」を繰り返し、拳を振り上げる。
そして、そのまま拳を震わせ、ゆっくりと下げた。
「お前の観察日記! まだ終わってないから! 大人のお前なんかペットにしてやんない! お前がどう思うとか、知らない! バーカ! バーカ! バーカ!」
彼女は愚にもつかない罵倒をしながら、あっかんべーをして夜の街を駆け抜けて行く。
俺は小さく「はは」と笑った。
なんだか随分と毒気が抜かれてしまったが、しかし未だに女子小学生の居場所は無いままだ。
俺がここで、彼女に声を掛けた意味はあったのだろうか?
きっと俺がここで何もしなくとも、時間と共に彼女は居場所の無さや孤独を克服できるはずで、それは一度俺が歩んできた道だ。
だからこそ、子供にそんな道を歩ませたくはないのだが、しかし俺は俺であるが故に何もできない。
子供の頃に憎かった大人の無力さが、また俺を苛んでいる。
静かにそびえる大蛸の遊具が、俺の観察しているようだった。
無機質に、ただ、今の俺を……