やじろべえ
名倉さんが俺の手を持ったまま静かに俯いている。
触れ合っている手が汗ばむのは、きっと夏の暑さだけが理由ではない。
俺は何度も手の震えを止めようとしたけれど、刷り込まれた恐怖はどうしようもなく覆し難かった。
俺がどれだけ表情で平然を装ってみても、名倉さんの悟ったような苦悩の表情は揺るがない。
突きつけてしまったのだ、彼女の異常性を彼女自身に。
俺が口にした「問題ない」は、気休めにすらなっていない。
きっと彼女は、言葉というものに興味が薄い。
だから俺の言葉ではなく行動が彼女を変えた。
そして今、こんな小さな手の震えに、拒絶の意図を感じているのだ。
だったらどうする?
彼女の本心を詳らかにした責任は、今この場でどうやって取る?
俺の思考を妨げるかのように、耳鳴りのような蝉が鳴く。
だが、既に答えは分かっている。
それを思い浮かべるのに思考はいらない。
彼女の心に眠っているのは、母へのコンプレックスと自己否定。
だからこの旅が始まった日と同じように、ただ受け入れると態度で示せば良いだけだ。
きっとそれは、手が震えたままでも良い。
優しく抱きしめてやれば良いのだろう。
彼女の持っていたぬいぐるみに、今俺がなれば良いのだ。
「…………」
名倉さんは、俯いたまま。
そっと俺の手を離した。
「浅野くん」
俺は、
「やっぱり私は、ダメだったね……」
名倉さんを——
「夢みたいで、幸せでした。さようなら……」
涙も零れない上手な笑顔。
そして酷く違和感の無い歩き方で、彼女はそのまま街と人の群れに消えて行った。
「……はは」
抱きしめることができなかった。
正解が分かっていたから、動けなかった。
彼女の異常性を受け入れられなかった。
これからも彼女と俺の違いに向き合い続けなければならないのだと考えたら……無理だった。
彼女に本心を見せろと迫り、いざ見せられたら受け入れられない。
拾った犬を捨てるかのような、無責任極まるカスの所業だ。
俺が俺であるために、彼女を拒絶してはならなかった。
だが、どれだけ思考を重ねようとも、名倉さんを追いかける気には到底なれないのだ。
「……ねえ」
声をかけられて、そこに女子小学生がいたことを思い出す。
こちらの顔を下から覗き込む彼女は、不安そうな表情をしていた。
……初めて出会った頃の女子小学生は、こんな表情を浮かべただろうか?
ふとそう思った瞬間、背筋がゾッとする。
……人は、変わるのだ。
人は変わらない、だから人の集合たる社会も変わらないと、俺はずっと思っていた。
だがどうだろう? ずっと無機質な仮面をつけていた名倉さんは、酷く蠱惑的な笑顔で俺の首を絞めるようになった。
常に周囲を攻撃し、孤高に強く在ろうとしていた女子小学生だって、今や俺の顔を心配そうに覗いている。
変わるのだ、人は。
その事実が俺にはどうにも認め難かった、そして何より怖かった。
募る不快感に呼応するように、夏の暑さはジワジワと俺の脳を茹で上げる。
人は変わってしまうのだ。
受け入れ難いほどに大きく。
だとすれば俺が人と関わる限り、今回の名倉さんのような出来事は往々にして起こりえる。
目の前の女子小学生だって、俺のせいで醜悪な大人に変わってしまうかもしれない。
そして、その変化を受け入れられない俺は、人と深く関わるべきではない。
「……なあ、君。君は誰とここに来た? 俺はもう帰るから、君も連れて来てくれた人と一緒に帰ると良い」
女子小学生は、不快そうに鼻を鳴らす。
「君じゃない、あゆみ。お前も……下の名前、教えろ!」
照れ隠しでもするかのように、彼女は俺の腹をペシペシと叩く。
その行動が、彼女の変化を確かに物語っていた。
「……君はもう、帰りなさい」
俺は彼女の質問を無視して、素っ気なくそう繰り返す。
「は?」
酷く傷つけられたような顔。
俺は努めて無表情を取り繕い、そのまま踵を返した。
醜悪な大衆は、いつだって無責任な発言を繰り返し、他者を自らの価値観で裁く。そんな人間にならないためには、誰とも関わらず孤独に生きるべきなのだ。
俺は人と向き合えるだけの、度量を有していないのだから。
「待ってよ! バカ! なんでよ!」
女子小学生が怒ったような顔で駆けてきて、サッと俺の前に立ち塞がる。
「何でどっか行こうとするの!」
良く見ると、今にも泣きだしそうな顔だった。
けれども涙を堪えるように、彼女は強く俺を睨みつけている。
「……俺が名倉さんを変えたのに、俺は変わった彼女を受け入れられなかった。これは酷く無責任な行為で、そして人と深く関わろうとする限り必ず起こり得る事態だ。だから俺は誰とも深く関わろうとしないことに決めたのだよ」
ただ説明責任を果たすように、俺は淡々とそう告げた。
別に俺は彼女を傷つけたい訳ではないのだ。できることなら理知的な話し合いの末、相互理解のもと決別したい。
しかし、名倉さんに付き合いきれなかった俺は、ぐずぐず女子小学生と関わっていてもまた同じようなことを繰り返すはずだ。
故に俺ができるのは早急な決別。ただそれに尽きるのである。
俺は、女子小学生にもらった防犯ブザーをポケットから取り出した。
「これも、返すよ」
しゃがんで防犯ブザーを手渡す。しかし、女子小学生は顔を上げない。
ポタリと雫が滴り、アスファルトを濡らした。だが、それもすぐに夏の日差しが蒸発させる。
ノロノロと時間が過ぎるなか、蝉が騒々しく鳴いていた。
日の光が皮膚を焦がす。
そしてようやく顔を上げた彼女は、涙など零していないと言いたげな顔で口をへの字に曲げていた。
「……お前は独りで良いの?」
「独りじゃないといけないんだ」
「意味わかんない」
拗ねたように女子小学生は呟く。
「……そんなの、逃げてるだけじゃん」
ずっと世界と戦っている彼女には、人と関わることを諦めた俺の姿が不快に映ることだろう。
だが、これが俺を俺たらしめている思想の根幹なのである。
「一度逃げて諦めたなら、その選択を曲げずに逃げ続けて諦め続けるのが俺のプライドだ」
「……うっさいっ! ざーこ! バカ! ざこ! バカッ!」
彼女は思いっきり俺を蹴ると、防犯ブザーをひったくって駆け出した。
小さくなっていく彼女の背から、俺は最後まで目を逸らすことができなかった。
雑魚、馬鹿、これまで反論してきた罵倒が、今はただ深く突き刺さっている。
もう、残っているのは自分の価値を信じるための、責任感とプライドだけ。
そして、それすらどうでもよくなったら、かつてバカにした大人のようになるのだろうか?
天を仰ぐ。
快晴の空は、ただ俺の孤独を浮き彫りにするようだった。
自分で選んだ孤独のはずが、どうしてか自分を殺したときのように不快なのである。