もう、分かんない!
私はいつもどおり、朝の6時に目を覚ましました。
浅野くんはまだ眠っているので、私は浅野くんを観察します。
呼吸で上下する胸、姿勢の良い寝相、閉じられた瞼。
私も眠っているときは、これと同じような状態になっているのでしょうか?
ちゃんと似せられているのでしょうか?
いつもはそんなことしか考えないのですが、今日は少し違いました。
一時間、二時間と観察を続けるうちに、自分の心が変化していると気が付いたのです。
これは何という感情でしょうか?
これは普通の感情でしょうか?
不安と好意に似ている熱を持ったコレは、持っていても良いものでしょうか?
けれども私は思うのです。
浅野くんと一緒なら、浅野くんを好きになれた私なら、いつか気持ちの悪くない普通の女の子になれると、そんな気がしているのです。
「……えへ」
私はぺたりと、浅野くんの頬に触りました。
次は、浅野くんの手首を握ってみました。
浅野くんのお腹に、手を当ててみました。
「温かい」
私はそう呟いて、ぐにぐにと浅野くんのお腹を揉みます。
柔らかくて、そして、なんだか、泣きたくなった。
「……腹を触るのは止めたまえ」
「あっ、わっ、ごめんね?」
起こしてしまいました、私は慌てて手を離します。
「なんだ、君、そんなに腹を触りたいのかね?」
「え、な、なんで? そう思ったの?」
「そんなに腹を凝視されたら察するとも……まあ、別に少しなら触っても構わんよ」
「え、へへ……じゃあ」
私はそっと彼のお腹に手を伸ばしながら、よく見ているんだなあと感心しました。
それとも、普通の人は見ているものなのでしょうか?
あるいは、私だから見てくれているのでしょうか?
何だか浅野くんのことが好きだと思ってから、浮かれているかもしれません。
でも浅野くんは誰にでも優しいから……でも、こんなところまでついて来てくれているのは、やっぱり……。
お腹を触り続けます。温かいです。
私はなんとなく、浅野くんのお腹に顔を埋めてみました。
私の顔は、火照っているようでした。
「……そろそろ、止めてくれないか?」
「あっ、うん」
浅野くんの言葉で、ハッと我に返ります。
少しボンヤリとしていました。
私は彼の体温を惜しみながらも手を引きつつ、口を開きます。
「その、浅野くん、今日は何しよっか?」
「そうだな、そろそろ昼だし昼食を食べに行くのはどうだろう?」
「う、うん!」
+++++
私たちはコンビニでお昼ご飯を買って、公園で一緒に食べることにしました。
そろそろ八月も終わりに近づいているとはいえ、まだまだ気温は高いです。
だから、私の手に収まっている浅野くんの首は、汗でじっとりと濡れていました。
彼は驚いたように咳込んで、その手からイチゴミルクを取り落とします。
私は親指に力を込めて、その気道を潰しました。
指が肉に埋まる感触。赤くなっていく彼の顔。
ドクドクと、力強い血流を手のひらに感じます。
なんだか首を絞める感触が、昨日までとはまるで違っているように思えました。
「んふぅ……」
私は吐息を漏らしました。
いえ、漏らしたというか、どうしようもなく胸がドキドキして……息を吐き出さずにはいられなかったのです。
ああ、無理やり細められたような浅野くんの目。
私はこれを見るのが好きみたいです。今、好きになったみたいです。
ずっと眺めていたいと、そう思いました。初めて想いました。
少し浅野くんの顔から血の気が引いてきました。
いつもはここまで長く絞め続けることはないのですが、今日は何かが違いました。
どうしても手を離せないのです。
「あ、浅野くん……」
どんどん、赤かった顔は白くなっていきます。
浅野くんは、とても苦しそうで……
「バカ!」
そんな怒声が聞こえたかと思うと、私は地面に倒れていました。
胴に残った衝撃と、目の前で泣きそうな顔をしているあゆみちゃんを見て、私は突き飛ばされたのだと理解します。
「何してんの! お前! バカ!」
浅野くんを私から守るように、あゆみちゃんはこちらを睨んでいました。
どうやら少し、誤解があるみたいです。
「落ち着いて、あゆみちゃん? 私は浅野くんに許してもらって首を絞めていたから大丈夫! ね、浅野くん?」
私がそういうと、背を丸めて必死で呼吸していた浅野くんはスッと姿勢を正します。
「ああ、余裕だ」
「バカッ!」
浅野くんは平気そうにしているのに、何故かあゆみちゃんは怒っています。
「失礼だな。以前も言った気がするが、俺は馬鹿ではない。そもそも馬鹿とは何か? 俺に言わせてもらえば、それはつまり思考を……」
「バカ! ばか、ばかぁ……」
今度は、あゆみちゃんが泣き出してしまいました。
まだ子どもだから、自分の気持ちがよく分からないのかもしれません。
本来、姉である私はあゆみちゃんをあやさなければいけないのでしょう。
けれども私は、浅野くんの首についたクッキリとついた、赤い手形から目を離せません。
あれは、私のつけた手形です。今までにないほど、赤い……。
私の胸はドキドキと激しく動いていました。
私はその痕を、優しく撫でてみたいと思いました。
ぬいぐるみや小動物を撫でてみたいと思う人は、きっとこんな気持ちだったのでしょう。
私はそっと、彼の首筋に手を伸ばします。
「わっ!?」
お腹に衝撃が走りました。
見ると、あゆみちゃんがグイと押しのけて、私が浅野くんに近づけないようにしています。
少し、胸の内が固くなるのを感じました。
初めての感覚です。
「あゆみちゃん、さっき浅野くんが余裕だって言ってたよね? だから、大丈夫だって分かるでしょ?」
「バカ! そんな風にいっつも自分のことばっかじゃん! 自分にしか興味ないのに、人に合わせてるフリしないでよ!」
「えっと……? その、ごめんね?」
あゆみちゃんは、とても怒っているようです。
ただ、何に怒っているのかはよく分かりませんでした。
それよりも、早くしないと首の痕が消えてしまう。
私は今、とにかくソレに触りたかった。
しかし手を伸ばすと、またも押し返されてしまいます。
あゆみちゃんはどうしても、私を浅野くんに近づけたくはないようです。
「ねえ! ソイツの手、震えてるの分かるでしょ! 怖がってるの、分かるでしょ!?」
あゆみちゃんに言われて、ドキリと心臓が跳ねました。
浅野くんの手に視線を向けると、その手は体の後ろに隠されてしまいます。
私は彼の手首を掴みます。少し抵抗されましたが、やはりその細い腕では私の力に勝てないようです。
じっと、その手を観察しました。
すると確かに、それは震えているようでした。
「……ほんと」
これなら、私にも分かります。
お母さんに怒られたとき、気持ち悪いと言われたとき、叩かれたとき、きまって手足が震えるのです。
だから私は視線を下げました。
……思った通り、浅野くんの膝も震えています。
きっと小さい頃の私と同じように、今の浅野くんの喉の奥までカラカラに乾いていることでしょう。
「ごめん、なさい。怖かった?」
「いや、全くもって問題ないとも」
平然として見せるその表情は、私と同じで嘘なのでしょうか?
なんだか、泣きたくなりました。
お母さんはあのときどんな気持ちだったのか、そんなことがふと気になります。
……きっと私は、また間違えたのでしょう。