いいわけって、なに
車窓から流れ行く街灯の光を眺めていた。
時折通り過ぎる車の青いランプや、ガードレール上を光るオレンジのランプが暇を紛らわす。
俺達は今、夜行バスに揺られていた。
名倉さんが遠くへ行きたいと言ったからだ。
俺は彼女に首輪を締めてしまった。
これはつまり、彼女の奴隷になりたいという欲求を受け入れたということであり、彼女の考えたくないという本心を容認したということでもある。
あれだけ本心を見せろと言ったのだ、俺が彼女の要求を断ることなど有り得なかった。
名倉さんは今、隣の椅子で眠っている。
疲れていたのだろう……これまで、ずっと。
ただ、今は安心しているのか、ベッドで寝ているときでさえ見なかったような安心しきった寝顔をしている。
名倉さんの顔に感情の色が浮かんでいるのは、まだ慣れない。
この散歩は何時まで続くのだろうか?
明日にはあの家に名倉さんの両親が帰ってくる。普通であれば子供の家出なんて、すぐ警察に通報されて連れ戻されるのがオチだろう。
だが、名倉さんがバイトで溜めていたというお金は結構な額で、だから旅の終わりも見えなかった。
かくっと、名倉さんの頭が肩に寄り掛ってくる。
夏の夜、蒸されるような体温に気恥ずかしさを覚えた。
急に無機質でなくなった彼女を、俺の頭はどう捉えれば良いのか決めあぐねている。
全てがそれどころではない現状で、妙に思春期染みた自分が嫌だった。しかして俺は、感情を紛らわすために思考を続ける。
俺は奴隷になりたがる彼女のため、主人でいられるだろうか?
そもそも、主人とはなんだ?
責任者や管理者と考えれば、それは親と似ているように思える。
であれば理想の親を演じるか? しかし、彼女は思考の放棄を望んでいる。
全てを俺が考え、その指示通りに動くことで許容できない自らの性質から逃れようというのだ。
……これでは結局、名倉さんの現状は何も変わっていない。
従うべき規範を、薄っぺらな道徳から、俺に乗り換えただけだ。
俺は決して、人を導きたかったわけではない。
ただ、誰にも話を聞いてもらえない人の話を聞いてあげたかった。
……それはきっと、俺が誰かに話を聞いてほしかったから。
けれども話を聞いてしまったら、聞くだけでは終わらない。
一度も話を聞いてもらえたことが無かった俺には、そんな簡単な論理が分かっていなかった。
俺は何をすべきか?
……きっと、名倉さんの味方であるべきなのだろう。
女子小学生のことが頭を過る。
彼女を置いて外へ飛び出した今の構図は、家出の一件と酷く似ていた。
今回もまた、置いてきた彼女と何も話せていない。
変わらないという俺の決意は、情けないことに「変われない」という形で守れているようだ。
思考が途切れ、再び俺は名倉さんを意識する。
彼女の頬が触れた肩は、じわじわと熱を持ち始めていた。
当たり前だけれども、彼女も生きているのだ。
「…………」
何とも言えない陰鬱とした気分に終止符を打つべく、俺は車窓に体を預け目を閉じる。
もう、責任から逃げるのは諦めた。
既に俺は、名倉さんの首輪を締めたのだ。
+++++
……これから、どうするべきか?
そんな疑問が過ったのは、朝になり夜行バスから降りて一時間ほど歩いた折のことだ。
俺達が降りたのはどことも知れない片田舎で、歩けども歩けども田畑と民家しか見当たらない。
いい加減、進退窮まったというのが正直な感想である。
「名倉さん、やはりスマホを返してはくれないだろうか? 俺が君の家に連絡するかもしれないという不安は分かるが、しかしこのままでは埒が明かない」
「え、えっと……うーん、あっ」
名倉さんは考え込むように唸った後、何かを思いついたように声を上げる。
そして、リュックから自分と俺のスマホを取り出した。名倉さんはおもむろに、それをポイッと放り投げる。
数秒後、田んぼの横に流れる水路からは、ポチャンと子気味良い水音が鳴った。
「えぇ……」
「お、落としちゃった、えへへ?」
名倉さんは何かを期待するように、上目遣いで俺を見つめる。
何を期待されているのかはまるで分からないが、少なくとも先のスマホが描いた放物線は「落としちゃった」などという可愛らしいものではなく、明確に水路へ投げ捨てようという意思に基づいていたことは明らかであった。
俺は半ば義務的に水路からスマホを拾い上げ、電源のボタンを押す。
勿論、画面は何も反応を返さない。
俺のスマホも名倉さんのスマホも、防水機能などという高尚なものは付与されていないのである。
「まあ、歩くか」
「……や、やっぱり浅野くんは怒らないんだ?」
「怒ろうともスマホは治らんからね」
「でも、怒鳴りつけたらスッキリするんじゃない? 私、さっき怒られても仕方ないことしたよ?」
どこか焦ったような早口で、名倉さんは自らの異常性を俺に認識させようとする。
しかし、俺の諦念は揺るがない。
「怒らない、俺は自らの感情を露わにすると酷い羞恥心に襲われるのでね。それとも何か? 君は怒られたいのかね?」
「ち、ちがう! ちがうけどね、でも、あの、信じられなくて……」
そのこちらを窺うような眼は、どうにも不安そうだった。
「そうか……まあ、君の好きにしたまえ。俺が信用ならんというのは、こちらも自覚していたところだ」
「ちがうの! 別に、浅野くんが悪いことすると思ってスマホを投げたわけじゃなくて」
「では、何をしたかったんだ?」
「……分からないの」
そう言った名倉さんは、酷く苦しんでいるように見える。
きっと今までも、この表情が無機質な仮面に隠されていたのだろう。
「解ったら、また聞こう」
彼女の本心が見えたとして、俺はどうにも話を聞く以上のことができなかった。
俺は俺で、何も分かっていやしないのだ。
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~~~「バカな大人観察日記」~~~
8月19日 金曜日
昨日ペットの大人と、その知り合いと、図書館に行ったのは楽しかったけど、起きたら誰も家にいなかったので、びっくりしました。
そしたら、夕方くらいに、名倉桃子と名倉信一郎が帰ってきました。びっくりしました。名倉花香にはそれを言ってたみたいですが、私は聞いてませんでした。
ペットの大人と名倉花香がいないってことは、名倉花香も、名倉桃子と、名倉信一郎が帰ってくるのが、いやだったのかなあと思いました。
二人には、名倉花香が部活のやつでちょっとの間いないと言いました。分からないけど、名倉花香が出て行ったって言ったら、ペットの大人のことを言わなきゃいけなくなると思ったからです。
でも、あんまり長い間、名倉花香がいないままだったら、大丈夫じゃないです。
ペットの大人と、また会いたいからです。
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一階から、大きな笑い声がした。
私は、ぎゅっとベッドにうずくまる。
人の笑い声なんか、きらいだったことを思い出した。
ペットの大人はあんまりうるさく笑わないから、わすれてた。
「やっぱり、私より名倉花香の方が良かったのかな……」
ちょっとだけ、イヤな想像が思い浮かんだ。
でも、ちがうって分かってるから大丈夫。あいつは私のペットだから。
私は布団にくるまったまま、ベッドの上から自分の部屋を見た。
外の街灯が明るいせいで、カーテンを閉めてるのに部屋の中が明るい。
電源の切れたテレビの前に、二つのコントローラーが転がっている。
「……ウソつき」
ペットの大人が「ホームシックなんてウソだ」って言ってたけど、たぶん今の私はホームシックな気がした。
このまま、ペットの大人が帰ってこなかったらどうなるんだろう?
名倉桃子と、名倉信一郎の幸せそうな毎日を見せつけられて、ひとりぼっちだって思わされるばっかりになっちゃうのかな?
眠れない夜はイヤな気持ちになるばっかりだって、私は知っている。
だから音量をゼロにして、ゲームをこっそり起動した。
ピカピカ光る画面を見ながら、モンスターをいっぱい殺す。
一匹、二匹、三匹、四匹、気がついたら一時間くらいたってたけど、なんだか全然楽しくなかった。
床に転がってるコントローラーを拾う。
いつもペットの大人が使ってたやつだ。
カチャカチャと、てきとうにボタンを押して遊んでたら、まちがえて音量が最大になった。
耳がおかしくなるくらい、おっきい音が鳴る。あわてて音量をゼロにした。
でも、遅かったみたいだ。
バタバタと階段を駆け上がってくる、うるさい音。
バタンッとドアを開ける、うるさい音。
「ちょっと、お前! うるさいでしょ!」
名倉桃子の怒鳴り声。
「ちょっと間違えただけだもん……」
どうせ意味ないって分かってたけど、ちょっと言い返した。
「そんな言い訳ばっかりして。あのね、私は信一郎さんと話してたの! そもそも、またゲームなんかやって何時だと思ってんの!? そんなんだから花香ちゃんと違ってバカのままなんでしょ?! さっさと寝なさい!」
うるさい、音。
私が黙ってゲームの電源を切ったら、また大きな音を立ててドアが閉じた。
前はもっとグチグチ言ってきたけど、再婚してから私にあんまり何も言わなくなった。
前の名倉桃子もキモいけど、今もキモい。
ベッドにうずくまる。
心がザワザワする。
ペットの大人が、私に賢いって言ったのを思い出した。
ペットの大人は、あんなに怒鳴ったりしない。
ペットの大人は、ちゃんと話を聞いてくれる。
……ペットの大人の下の名前、なんていうんだろ?
「やっぱ、とりかえしに行かないと」
布団の中に閉じこもり、私はスマホを起動した。




