首をしめる
首に添えられた名倉さんの手は、ゆっくりと、しかし確実に俺の気道を潰していく。
まだ呼吸はできる、会話はできる。
だから今のうちに考えなければならない。
名倉さんの言ったことは、俺にとって随分衝撃的だった。
俺の経験した決別は、親への勝手な期待と失望が原因だ。しかし、目の前の彼女は虐待を受けていたと言っている。それも価値観というものが形成される前、幼少期の話だ。
そして名倉さんは、虐待で歪んだ心の蓋を俺が開けたと言う。
人と関わることの責任というものは、俺が考えていたよりも随分と大きかった。
十七年間心を固くし心の交流を避けていたツケが、今ここで来ているのだ。
少し、息が苦しくなってくる。
俺は何と言うべきだ?
彼女が忘れていた過去を掘り返したのは俺だ。
彼女はただ、俺の言う通りに本心を晒しただけ。
『本心で話して良いのはさ、きっと普通の人だけなんだよ』
名倉さんがさっき口にした言葉だ。
確かに名倉さんの言う通り、弱いモノをいじめたいという欲望は社会的に正しくない。
それを分かっているから彼女は、俺に怒ってくれと言ったのだ。
弱いモノいじめが駄目じゃないないなら、お前の首を絞めるぞと。
……なるほど。
ではここで俺が怒ったら、名倉さんは今後一生自らの欲求を押さえつけて生きるのか?
その欲求が社会的に正しくないから?
俺は小学生の頃のことを思い出していた。
道徳の時間に実利主義的回答をしたら、教師からその回答を書き直させられたときのことだ。
ここで彼女を怒ったら、俺は一番なりたくなかった大人になってしまう。
「名倉さん、首を……」
絞めたまえ。
そう言おうとした。
だが、言わなかった。怖かったからではない。まだ足りないと思ったからだ。
俺はまた、家出のときや、女子小学生のペットになったときのような間違いを犯すわけにはいかない。
もっとちゃんと聞いて、考えるべきだと、そう思った。
名倉さんは俺の首を絞めたがっている。
だが、俺に怒れといったのも彼女だ。
思えば、彼女は今まで俺に何かを要求したことがあっただろうか?
いや……あった。夏休みの課題を女子小学生と一緒にやるよう言われたではないか。
あのときに名倉さんは、人と一緒に勉強をするという酷く一般的な幸福を追求しようとしていたのではないか?
もしかすると俺は、既に何度も名倉さんを裏切っているのかもしれない。
そんな俺に、名倉さんは自分の欲求、ひいてはこれからの生き方を委ねている。
それは、駄目だろう。
俺は、名倉さんの本心を知りたかったのであって、本心を決めたかったのではない。
「……名倉さん、俺は怒らない」
俺は平坦な口調でそう言った。
名倉さんはまるで絶望したような眼をしていた。
「ただ、君はどうしたいのか教えてくれ」
果たして、名倉さんの口角はニッコリと上がっていた。
「教えたよ、教えた……私は浅野くんをイジメたい。首を絞めて、苦しそうなところを見たい。でもさ、そんなのダメだから……私に怒ってよ」
喉元に、ぐっと親指を押し当てられる。
息が詰まった。
覚悟をしていたから、思っていたほどの衝撃は無い。
数秒で、空気を求めるように喉が蠢いた。
だんだんと顔に血が集まるような感覚。
顔が膨張しているかのような気がした。
名倉さんは、目に涙を溜めながら興奮したように俺を見ている。
脳に血液が詰まっていく。空気を求めて喉が蠢く。
視界の端が黒くなっていくのを感じた。
俺はもうすぐ、死ぬのだと思った。
「……げほっ、ぉぇ、がっ、は、ふっ」
唐突に喉から手が離される。
俺は反射的に酸素を求めて大きく咳き込んだ。
脳から急に血が引いていく。
俺は床に手をついて、喉を摩りながら何度も何度も息を吸った。
目に涙が滲む。
しばらくすると呼吸が落ち着き、俺はようやく顔を上げる。
名倉さんは、酷く心配そうに俺を見ていた。
「ご、ごめんなさい」
「……ぁ、やまる必要は無い。それよりも何故、絞めるのを止めた?」
「っ! だって……ダメだからぁ。なんで、なんで、ダメって言わなかったの」
名倉さんは掠れた声で訴える。
俺は真っすぐに、名倉さんの両目を見つめた。
「君の本心が知りたかったからだ」
名倉さんは、ぎゅっと胸の前で拳を握りしめる。
「私の本心は、分かったでしょ? 私は本心なんか表に出しちゃダメだって、分かったでしょ!? だいたい、私のことなんて特別でもなんでもないのに、そんなこと言わないでよ!」
「……どういう意味だ?」
「分かんないよ……なんで、ダメだよ。弱いモノいじめなんて。浅野くんだって、苦しそうだった。なのに、何で怒らないの? 浅野くんは私が特別だから本心を知りたいって言ってくれたんじゃないんでしょ? 怒らないんじゃないんでしょ? 浅野くんは、あゆみちゃんの本心も知りたいし、図書館で会ってた子とも仲良いんでしょ?」
名倉さんは錯乱したように言葉を捲し立て、その場にしゃがみ込むと小さく蹲った。
「分かんない……普通の人って、特別でもなんでもない人に、あんなに優しい言葉を言えるの? それともホントは、浅野くんもウソつきなの? 浅野くんは、誰にでも優しいの?」
こちらを覗く目は、酷く不安げだった。
「俺が……俺は、君を否定したくなかった」
「なんで……」
「君が、昔の俺に似ているから」
「似てるわけ、ないよ」
そう言うと、名倉さんは膝に顔を埋めて泣き出してしまった。
俺はどうすれば良いのか分からないので、ただぬいぐるみを眺めていた。
気が付けば時計は夜を示していて、窓からは街灯の明かりが差し込んでいる。
薄暗い部屋の中心で小さく肩を揺らしている名倉さんは、酷く小さく見えた。
「私、どうすれば良いんだろ……」
名倉さんが、ポツリと呟く。
「それを考えることこそが大事なのだと、俺は思う」
「どういうこと?」
「つまり……考えるのを止めたら、人は情報と感情の奴隷になってしまうということだ」
「よく分かんないや……」
名倉さんは、そう言って困ったように小さく笑った。
「……そうだな。例えば現状、名倉さんの欲望と社会規範が矛盾している。だが、そこを脱するために他者の意見に従っていては奴隷と変わらないだろう? そうならないために必要なのが『考える』という事なのではなかろうか?」
俺は自分の進むべき道を再確認するように、長々と言葉を紡ぐ。
けれども俺の道しるべは、名倉さんの一言によって大きく揺るがされた。
「奴隷じゃ、ダメなのかな……」
名倉さんは小さく呟く。
「だって私、考えても考えても、自分が間違ってるんだってことしか分かんないもん。私は浅野くんみたいに強くないし、頭も良くないから……間違ったままも、間違いを正すのも、できない」
「…………」
俺だって別に、強いわけではないのだが。
「ね……」
名倉さんは、掠れた声を紡ぐ。
「私は奴隷がいいからさ、浅野くんが私のご主人様になってよ」
その眼差し。
薄暗い部屋でこちらを見つめる瞳は、どす黒くネバついているように思えた。
俺は咄嗟に拒否したかった。
だが、罪悪感があった。無機質だった名倉さんを、こんな風にしたのは俺だ。
「……それが君の、本心なのか」
「うん。私ね、浅野くんの奴隷だったら、思ったこと全部言える気がするの」
名倉さんは、疲れたように笑っていた。
「……分かった」
「えへ」
その瞳は昏く、けれども決して無機質ではなかった。
名倉さんはフラフラと歩き、ベッドの上から白い首輪を拾ってくる。
そして、それを見せながら彼女はこう言った。
「つけて?」
俺は黙って首輪を受け取る。
これは正しいのだろうか? そう思いながら、そっと名倉さんの首元に手を回す。
柔らかな髪が指先に触れた。
彼女の放つ昏い色気を努めて無視しながら、俺は首輪の留め具を留める。
細い首輪が、名倉さんの首を締めている。
スルリと伸びた首輪の紐は、俺の手元に収まった。
「お散歩、行きたいな。遠く、遠くに行きたいの。ねえ、浅野くん、連れてって?」
「……ああ」
彼女の大きな荷物を下ろしたような、安心しきった笑顔を前に、俺は頷くことしかできなかった。