地球が何回廻った日?
「ただいま」
返ってくるはずの「おかえりなさい」は聞こえてこなかった。
玄関に靴はある。
名倉さんは寝ているのだろうか?
俺が玄関に立ち尽くしているのも気にせず、一緒に帰宅した女子小学生はスタスタと2階へ上がった。
正直に言ってしまえば、俺も彼女の後に続きゲームにでも勤しみたかったわけだが、しかしそうもいかないのだ。
俺はプライドが高いから。殊の外、自分に失望した状態は許容できない。
名倉さんに話すことなど決めてはいない。
しかし口を開けば何かが出ると、俺は名倉さんの部屋の戸を叩いた。
「どうぞ〜」
存外に気の抜けた声が返ってくる。
静かにドアを開けると、ぬいぐるみを抱きしめてニッコリと微笑んでいる名倉さんと目があった。
俺はビクリと肩を震わせる。
彼女の表情が、どうにも今までの白々しいものと違って見えたから。
それはまるで、同族を喰らう蟷螂のような……
「あのね」
俺が会話の火口を切ろうと思っていたのに、名倉さんに先手を打たれた。
「お父さんとお母さんの新婚旅行、なんだか予定が早まったみたいで、明日の夕方に帰ってくるんだって」
そう言葉を紡いだ名倉さんは、やはり笑顔だった。
けれどもその表情は、とても嬉しそうには見えない。
「……であれば、俺のペット生活も明日で終わりというわけか」
「そだね。うん、そう」
名倉さんの呟くような声から、感情は読み取れない。
「あの……あの、さ、浅野くん」
彼女は顔を上げ、窺うような目で俺を見た。
「うん?」
「本心って……ホントに言っても良いのかな?」
「…………」
俺は何も言えなかった。
彼女が酷く生々しい感情の色を浮かべていたから。
それは怯えのような、期待のような、今にも泣き出してしまいそうな目だ。
俺の胸には、ただ空しく遣る瀬無い気持ちが沸き上がる。
「ねぇ……私ね、きっとオカシイんだよね? 何かを間違えちゃったから、浅野くんは私から離れて行ったんでしょ? 浅野くんは本心を聞きたいって言ってくれたけど、きっと私の本心はダメだったんでしょ? だから最近、私とちゃんと話してくれなくなったんだよね。私、もう分かったから……」
ニッコリとした笑顔の裏で渦巻く感情。
それを隠すように、彼女は強くぬいぐるみを抱きしめた。
「……私は、やっぱりダメだったんだよね?」
「いや」
咄嗟に否定の言葉を紡ぐ。
……違う。君に非は無い。
間違えたのは俺だ。
正しくないのは俺だ。
君の笑顔が嘘だと分かって、俺は無視して家を出た。
ずっと、君の本心を聞きたいと言っていたのに。
これは酷い裏切りだ。
だからずっと考えていた。
けれども思考は空転ばかりで、どんな顔して話しかけるのかを決められない。
何故なら俺は、また同じ状況になったとしても、女子小学生を優先するだろうから。
「…………」
結局、俺は何も言えなかった。
俯いた彼女の表情は見えない。
「私ね、嬉しかったの。私なんかに興味持っても嫌な気持ちになるだけだって言ったとき、浅野くんが、どうせ生きてたら嫌なことが起こるから関係ないって、言ってくれたこと……」
名倉さんは一歩、俺に近づく。
「あのとき始めて、自分が嬉しいんだって分かって……でも、そのせいで思い出しちゃった。私が何を嬉しいって感じるのか」
「……どういう意味だ?」
名倉さんはニッコリと微笑んだまま、とつとつと語る。
「私、ちっちゃいころ、お母さんに何回も叩かれたり、つねられたりしてたの。あと、暗い所にとじこめられたりとか……だからお父さん、離婚したんだけど。でも、そのせいかな? 私……虫とか、小さい動物とか……弱いモノいじめが、好きなの。そういうことしてるとき、嬉しいの。これが私の本心で本性」
ずっと抱きしめていたぬいぐるみを、名倉さんはボトリと落とす。
ぬいぐるみの頭は、酷くひしゃげていた。
「ずっと忘れてたけど、浅野くんが本心を知りたいって言うから……思い出しちゃった。ねえ、浅野くん? 本心で話して良いのはさ、きっと普通の人だけなんだよ」
彼女の目は、寂しそうだった。
俺はやはり、彼女の言葉に反論できない。
名倉さんは更に一歩、俺に近づく。
俺は後退りそうになって、けれどもその場から動かなかった。
俺はプライドが高いのだ。
名倉さんが、更に近づく。
もう、俺との距離は一メートルも無い。
「浅野くん、ちっちゃいし、運動もしないからヒョロヒョロだよね……」
そう言いながら、名倉さんはゆっくりと俺の両腕を撫でた。
ここまで近づいて初めて、俺は見上げる程の身長差を意識する。
ふと足元を見てみれば、陸上で鍛えられた腿は随分力強かった。
気が付くと、名倉さんの両手は俺の肩に添えられていた。
「ねえ、浅野くんも……弱いモノだよ?」
馬鹿を言うんじゃない。仮にも俺は男子高校生で、名倉さんは女子高校生だ。
性差とはつまり力の差で、ちょっとやそっとの運動で埋まるものではない。
俺達はもう、子供ではないのだ。
俺は名倉さんの肩に手を当て、グイッと力を込める。
半ば予想通り、押し返せなかった。
「なるほど」
俺は焦っていた。故に余裕ぶって落ち着いた声を出す。
その間にも、名倉さんの手はじわじわと首へ移動していた。
俺はここで死ぬのか?
名倉さんの両手に、俺の細い首はすっぽりと覆われる。
まだ力は込められていない。
「ねえ、浅野くん。私ね、お母さんはなんで私を叩くのかなって、ちっちゃいときに考えたの。でも全然分かんないから、私はチョウチョを叩いてみたの。そしたらチョウチョはふらふら~って落ちて、綺麗な粉を道路に撒いて死んじゃった。それがとっても綺麗でね、嬉しかったんだ。お母さんが私を叩くのも、叩かれてる私が綺麗だからなのかなって。次にアリを潰したときね、楽しかったの。夢中になって叩いて潰して、気が付いたら沢山アリが死んでたの。なんだか誇らしくてお母さんに報告したら、止めなさいって叩かれたの。そんなことするなって叩かれたの。だから、今まで忘れてたの……でも、そのときからかな? 自分の気持ちも忘れちゃって……だけど浅野くんのせいで、自分の気持ちを思い出しちゃった」
俺はただ、名倉さんの瞳を覗いていることしかできなかった。
「私、浅野くんの首を絞めたい。苦しんで、弱っていく、そんな浅野くんが見たいの。私の言うことをちゃんと聞いて、私にダメって言わなくて、私を怒らない……私より弱い人なんて、浅野くんが初めてだったから」
緩く、名倉さんの手に力が込められる。
カチ、カチ、と鳴る秒針の音と、彼女の荒い息遣いが耳についた。
窓から差し込む夕日は、名倉さんの部屋に散らばるぬいぐるみを茜に染めている。
「……ねえ、私にダメって、怒って?」
首に加わる圧力を感じながら、俺の耳元で囁き声が反響した。