虫になっても、なかなか気が付けない
~~~「バカな大人観察日記」~~~
8月14日 日曜日
最近は、ずっと名倉花香が落ち込んでいます。
なんでそう思ったかというと、名倉花香がいつもは時計とかぬいぐるみを見てるのに、ペットの大人にかりた、よだかの星の本をずっと何回も読んでるからです。
あと、たまに話したそうにペットの大人を見てるけど、最近はあんまり名倉花香とペットの大人が話してないので、そう思いました。
もしかしたら、名倉花香もペットの大人と同じ年なので、思ったより大人じゃないかもしれないです。でも、だったら大人っていつから大人になっちゃうのか分からないなあと思いました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
気持ちの良い昼下がり、クーラーにあたりながら俺はスマホを眺めていた。
いつもは鳴らないメッセージアプリの通知が鳴ったのは、そんな折である。
『アンタのことだから、どうせ課題やってないんでしょ? 分からないとこ教えてあげるから、明日図書館に来れる?』
平川からのメッセージだ。ラジオ体操の日以来連絡は無かったので愛想を尽かされたのかと思っていたが、そういうわけでも無かったらしい。
課題か……結局、気まずくて名倉さんに教えてもらうこともできないまま、今日までダラダラしていた。この誘いは渡りに船である。
しかし、女子小学生が外出を許すだろうか?
「なあ、明日は図書館に行こうと思うのだが、構わんかね?」
「分かった、何時から?」
RPGに集中していた女子小学生は、チラと俺を見て呟くように言った。
「一時半くらいを予定している」
返事を聞くと、女子小学生は黙ってゲーム画面に視線を戻した。
俺はそれを了解と受け取り、平川に『一時半に市立図書館なら行ける』と返信。
きっかり五分後、平川からは猫のスタンプが返って来た。
+++++
「すまない、少々出発に手間取り遅れてしまった」
「せめて連絡くらい入れなさいよね、やっぱりアンタは私がいないと……って、また首輪つけてる」
直前まで、いかにも怒っていますというポーズを取っていた平川は、こちらを見た瞬間に素っ頓狂な顔をした。
当然である。俺の隣には、リードを握った女子小学生が「ふん」と仁王立ちしていたのだから。
昨日の時点で、俺は一人で図書館に行く予定だったのだが、今日の出発時刻になってから女子小学生が当然のようについてきたのだ。いや、俺の飼い主なのだから実際に当然なのかもしれないが。ともかく想定外ではあった。
事情を知らない平川からすれば、疑問と困惑が脳内を渦巻いていることだろう。申し訳ない限りだ。
「アンタその子、連れて来た……連れて来られた? 分かんないけど、ラジオ体操のときも一緒にいたわよね? 仲良いの?」
「ああ、まあ、何と言うか、俺の監視役のような感じだ。すまないが、今日は彼女が同席しても構わないだろうか?」
「それは別に良いけど、今日は課題をする予定だから……その子、暇になっちゃうわね」
平川はそう言うと、何か良い案は無いかと考え始める。
それを見た女子小学生は不愉快そうに口を挟んだ。
「私は本読んでるから、気にしなくて良い」
「あ、そ、そう? 分かったわ。そう。うん……あ、グミあるけど……食べる?」
人見知りを発動し、ぎこちないながらも女子小学生と距離を詰めようとする平川に返されたのは、「フン」と鼻を鳴らす音だけだった。
「……あ、あ、ところで、今日読む本はもう決まってる?」
「まだ」
「じゃあ、私のオススメの本、読んでみない?」
平川が取り出したのは『変身』。
目覚めると脈絡なく毒虫になっていた男の末路を綴った、フランツ・カフカの名作である。
名作ではあるが、小学生に勧める物語の選択としてはいかがなものだろうか?
平川はニコリと下手くそに笑って言葉を続ける。
「ちなみに、私はこの本嫌いなの。あと、その、あなたの名前も教えてくれない?」
女子小学生は窺うような視線を平川に向けた。
二人はしばらく見つめ合ったが、最終的に女子小学生は本を受け取ることにしたようだ。
「……私、あゆみ」
女子小学生がボソリと呟く。
どうやら先程の会話は成功だったらしい。
俺は名倉さんと平川の違いは何なのかと考えながら、二人に続いて図書館入った。
つくづく思うが、人間とは分からないものである。
+++++
「よし、だいぶ捗ったわね! 少し休憩にしましょうか」
館内の学習スペースに入ってから三時間後、平川は伸びをしながらそう告げた。
長い長い軟禁からようやく解放されるのかと、俺はテーブルに上半身を預ける。
「こう、手伝っていただけるのはありがたいが……もう少し手心を加えていただきたい」
「そんなこと言って、私が見てあげないとアンタまた去年の夏休み最終日みたいなことになるでしょ? いつでも私が助けてあげられるとは限らないんだから、今日くらい大人しく助けられときなさいよね?」
平川は筆記用具やプリントを片付けながら嗜める。
しかし、俺は元より誰かを頼る前提で生きていないため、平川の言うような事態になっても一人で泣き言を言いながら課題をやるだけだ。そういった覚悟くらいは持っている。
故に、彼女の言葉は少々押しつけがましく思う俺だった。
「…………」
尤も、それを口に出さない程度の良識は備えているつもりだ。
俺達は荷物をまとめると、平川の先導で図書館を出る。
「さ、コンビニでアイスでも買いに行くわよ! あー、それと、あゆみちゃんはアイス何味が好き?」
平川は歩きながら女子小学生に尋ねる。
しかし、女子小学生はつれない態度でそっぽを向いた。
「私、お金持ってきてないからアイスいらない」
「そ、そう……あー、えーと、ところで、『変身』読んでみてどうだった?」
「まだ途中だから、分かんない」
そう言って黙りこくった後、数秒。
「……でも、なんか、主人公のまわりのキャラ、全部イヤ。あと、妹が一番イヤ」
「そう? 私は読んでる途中、妹だけは好きだったわね」
女子小学生の感想が聞けて嬉しかったのか、平川は少し嬉しそうにしている。
平川は内弁慶の人見知りだと思っていたため、女子小学生と積極的に会話をしようとする姿勢は少し意外だった。
そのまましばらく歩いているとコンビニに辿り着く。
俺は一番安いソーダ味の氷菓を買い、平川は二つに割れるタイプのアイスを買っていた。
空は青い。しかし、ラジオ体操に連れ出されるようになった今では、大した感慨も湧かなかった。
そんな事実に一抹の寂しさを覚えながらアイスを一口齧る。
美味しい。
そこで、自分がアイスを大して好きでなかったことを思い出す。
いや、特段アイスが不味いというわけではない。
しかし冷静になってみると、アイスは最初の一口こそ美味しいが、それ以降は「冷たくて甘いな」という認識しか持てなくなるのだ。
思うに、これは味がシンプル過ぎるのが原因だ。食べ終わるまで「美味しい」という認識を持続させたいのであれば、もう少し味を複雑にしていただきたい。
俺が惰性で二口目を齧ろうとすると、女子小学生がパクリと横から齧り取る。
「これは俺のアイスだ。勝手に食べるのは止めたまえ」
「別にいいよ? あんまし、おいしくなかったし。もういらなーい!」
ニヤニヤと笑いながら、女子小学生は子馬鹿にしたようにそう言った。
傍若無人とは、正にこのことである。
俺は憮然とした態度で、あんまし美味しくないアイスをもう一口齧る。
冷たくて甘い……
半ば流れ作業のように三口目を食べようとしたら、再び女子小学生にアイスを横取りされた。
「あんまし美味しくなかったのではないのか?」
「でも、お前からアイスとるのは面白い」
まるで悪びれる様子が無い。
俺は色々と諦めて、アイスを女子小学生に差し出した。
「ほら、食べたまえ。俺はアイスなど好きではない」
女子小学生は疑うような目で俺を見ながらも、ガブガブとアイスを食べ始めた。
その間、俺の指にはべちゃべちゃとアイスの汁が飛び散る。というか、これはわざと散らしている気がする。
しかし、人を呪えば穴二つ。
勢いよくアイスを食べたせいで、女子小学生は痛そうにこめかみを抑え、顔をクシャクシャにしていた。
その様子に呆れながら、俺はふと手元に残ったアイスの棒を見る。
目に映るのは『はずれ』の三文字。
思えば俺は一度たりともアイス棒の『あたり』を見たことが無い。この、人を馬鹿にした運要素も、アイスが好きではない理由の一つであったことを思い出した。
「あー、もう。アンタ指ベタベタになってるわよ? ほんと私がいないとダメなんだから……」
平川はそう言ってハンカチで俺の指を拭う。
今回の件に関して、俺に駄目な点は無かったはずだ。遺憾である。
……というか、俺の指より先に女子小学生の口を拭ってやった方が良いのではないか?
しかし、俺が気にするまでもなく、既に女子小学生は口を拭っていた。俺の服で。
「君、俺の服を汚すんじゃない」
「でも、お前もその人のハンカチ汚してるじゃん」
女子小学生は、したり顔で言い返す。
「そこに異論は無い」
「あ、無いんだ……」
無い。
そんなやり取りに少しばかりの楽しさを覚えていた。
こんな時に、よく俺は我に返る。一歩引いて現実を見て、今この場所が偶然の産物でしかなく、何より自分が嘘臭く見える。
だが、中でも今回は特別だった。
気が付いたのだ、隠れながらこちらを見つめる名倉さんの視線に。
名倉さんは体操着に通学バッグという出で立ち、恐らく部活の練習帰りなのだろう。
いや、俺は別に悪事を働いているわけではない。
ただ、今の俺は名倉さんと距離を取るでもなく、もう一度向き合うでもなく、素知らぬ顔で笑っていた。
俺はいったって自然に、誰にも気づかれないように、名倉さんから視線を逸らした。
女子小学生と平川は、何にも気付かず笑っていた。
空は青かった。
舌に残るアイスの味は、ただ冷たいばかりだ。
俺は思い出した。
人と関われば関わるほどに、嘘臭くて卑小で理想と違う自分が嫌になる感覚を。
どうやらこれは、大人になっても変わらないらしい。