捨て猫に給食の牛乳をあげる
これは良くない。非常に宜しくない。
俺は女子小学生の表情を見て確信した。
見開いた瞳は涙など流していないと言いたげで、余裕ぶった唇はニヒルに歪んでいる。
それは泣くことを弱さの証明だと考え、人から慰められることを不快に思う者の顔。つまりは昔の俺と同じ顔だった。
この表情をした日の記憶は、いつまでも脳にこびり付いている。
女子小学生はこのあと、自室のベッドに籠もり自己正当化と憎悪に塗れた思考を募らせるのだろう。
そうやって自分を強くすることでしか、俺や彼女のような人間は現実を生きられないから。
……小学生の頃に何度も経験したから、その気持ちはよく分かった。
「家出をしよう」
「は?」
咄嗟に口をついて出た俺の言葉に、女子小学生は馬鹿にしたような声で返した。しかし、それが強がりだと俺は知っている。
世界は全て敵だから、強がるしか方法が無いのだ。
「名倉さん、俺達は少しばかり家出をする。その内に返ってくるから」
「え? え?」
混乱した様子の名倉さんを後目に、俺はひょいと女子小学生を持ち上げ……るには些か腕が貧弱だったので、首輪のリードを女子小学生に握らせ、おもむろに家を飛び出した。
そのまま女子小学生が付いてきてくれるか不安だったが、彼女は俯きつつも俺のリードを持って追従している。であれば、あとは走るだけ。
外は小雨だった。
周囲は夜闇に染まり、小さな街灯だけが道を照らしている。
このまま走り続けて濡れるのは如何なものかと思い、俺は反転して家に帰った。
「お、おかえりなさい」
家を出た直後に帰宅した俺を見て、名倉さんは困惑したようにそう言った。
「ああ、ただいま」
玄関にあったピンク色の傘を手に取り、再び家を出る。
そして振り返る。
「行ってきます」
「え、あ、うん……行ってらっしゃい!」
俺を送り出す名倉さんは、既に上手な笑みを浮かべていた。
それが嘘だということは、分かっていた。
直前の酷く寂しそうな顔を、俺は見てしまっていたから。
名倉さんの寂しそうな表情なんて、俺は今まで一度も見たことは無かった。
……玄関のドアを閉める。
俺は女子小学生の方に向き直り、傘を渡した。
「これを使いたまえ」
「そもそも私のだし……ていうか、お前は?」
「いや、生憎とこの家に俺の傘は無いのでね」
「ふん……」
女子小学生は顔をそむけ、俺のリードを引いて歩き始めた。
濡れて歩く俺と、傘を差した女子小学生。
まあ、ペットの散歩とはこのような形を取ることが多いので問題はない。
そのまま女子小学生に導かれつつ歩くこと五分、辿り着いたのは公園だった。
大きな蛸の遊具で雨宿りをする。
化け蛸の内は薄暗く、街灯に照らされた外界との隔絶を思わせた。
十七の俺には少々手狭な空間だが、致し方あるまい。
さて、勢いで飛び出してきたが何と声をかけよう?
地面を打つ雨を見ながら、グルグルと考えた。
しかし、何も思い浮かばない。
俺が小学生の頃、言葉をかけられて嬉しいと感じたことなど無かったから。
「…………」
しばらくの間、会話の切り口をああでもないこうでもないと考える。やはり何も思い浮かばない。
すると、女子小学生が呟くような声で話しかけてきた。
「お前さ、独りじゃないの?」
質問の意図を測りかねる。
しかし、俺も過去に孤独を誇りとしていた時期はあったから、質問の理由はなんとなく分かった。
「まあ……そうだな、独りじゃない」
「……バカ」
女子小学生はガッカリしたようにそう言った。
「いや、ただ、昔は独りだった」
無様な言い訳だ。
俺は他の連中とは違うのだと言いたかった。そして、それを自覚しているから惨めだった。
「ずっと独りでいれば良かったのに」
「……どうにも、俺には独りとか二人とか、どうでも良いように思えてね。ほら、周りに人がいてもいなくても、何も変わらないから」
俺がそう答えると、強くつま先を踏まれた。
きっと、どうでも良くないと言いたいのだろう。
しかし、俺には分からない。
必死で考えて出した結論なんか一つも信じてもらえず、理解しようとすらしてもらえないこの世界で、自己主張をする意味が。
どうせ皆、何を言ったかではなく、誰が言ったかにしか興味が無い。
だったら一人と二人と三人が、どれほど違うと言うのだろう?
俺がこの世界に抵抗する術など、誰にも信じてもらえない他人の本心を浚うことしか無いのだ……とはいえ、女子小学生は独りよりも二人に価値があると考えている。
であればきっと、俺の思想は伝わらない。
「君は、世界の何が不安だ?」
だから俺は問いかけた。
「……ふん」
女子小学生は膝に顔を埋めたまま、俺の足をゲシゲシと蹴り続ける。
だが、押し黙ったままだ。
「君は以前、俺が言わなければ伝わらないと言ったら、それを言った奴は皆、話を聞く気が無かったと言ったね」
無言と攻撃を続ける彼女に言葉で返す。
その場には、降りしきる雨が遊具の屋根を打つ音だけ。
静かだった。
「……きっと君の言葉は正しい。人に話せと言う前に、自分が聞こうという姿勢で相手の言葉を引き出すべきだ。話させようとしているのは、こちらなのだから」
女子小学生は、更に強く俺の足を蹴る。
「しかし、どうだろう? 俺が君の話を聞きたいように、実のところ君にも話したいことがあるのではないか? もしあるなら、話してみたまえ。俺はちゃんと聞く。聞いてきた。君が大人を嫌う理由も、君が戦い続ける理由も、君が俺を捕獲した理由も、全部覚えている。その上で、俺はもっと君の話を聞きたい。俺をラジオ体操に連れて行った理由とか、俺に独りでいて欲しかった理由とか、聞きたいことは——」
「うるさい」
女子小学生は立ち上がった。
「お前、そんなこと言って結局ウソじゃん! どうせ名倉花香とか、同じ部活の女とかが良いんでしょ! 私みたいな可愛くなくて性格悪いやつの相手とかしたくないんでしょ! 知ってるもん。お母さんもお父さんも先生もクラスのやつらも、みんな私がいないときの方が楽しそうだから、私がいない方が良いんでしょ!」
一気にそう言い切った彼女は、それでも止まらず言葉を続ける。
その声は、激しくなってきた雨音でも掻き消せないほどに、大きかった。
「お前だって私と同じみたいな顔して、友達もいるし、話とか聞くし、怒んないじゃん! 思いやりとか、人と仲良くとかっ、そういうのできるくせして……私に優しくすんなバカ!」
女子小学生は、肩で息をしながら俺を睨む。
その視線は痛いほどに真っすぐで、思わず体を引いてしまった。
女子小学生からは、俺も訳知り顔で白々しい優しさを押し付ける大人に見えていたのか。
いや、見えていたというか、事実としてそうだったのか?
彼女の孤独が分かるかと、俺は昔を思い出す。
一人が辛かった時期はあったかな?
……よく覚えていない。だが、あまり寂しいとか、居場所が無いとか、そんなことを考えていた覚えは無い。
けれども、誰にも信じてもらえないことが度々あって、それが辛かったのは……やはり俺も誰かに受け入れて欲しかったからなのだろうか?
小学生の頃、誰も信じてくれないから仕方が無く吐いた嘘を母が信じたとき。
中学生の頃、皆に人気の体育会系が賞賛されて、俺を誰も見ていなかったとき。
俺は少しずつ諦めた。その諦めて捨てていってしまった何かを、女子小学生は諦めていないのだろうか?
「一つ、聞いても良いかな?」
女子小学生は相変わらず俺を睨み、ただ黙っている。
「……一人で何かを頑張っても、誰も見ていない。たまに見られていたかと思えば、勝手な事をするなと責められる。結局、賞賛されるのは皆と一緒に何かしたり、しなかったり、場の空気に合わせつつ目立っている人間だ。社会は俺達ではなく『皆』によって構成されているから」
「だから、何?」
女子小学生の白けた目。
俺が何を言っても絆されまいと、そう固く決意しているようだった。
そして俺は、そういう彼女の態度が酷く好きだった。
「俺は、世界とか、社会とか……皆と戦うのを諦めてしまった。だが、皆じゃない奴らの言葉を聞くくらいはしたいと思っている」
そこまで聞くと、彼女は分かったような顔をした。
「だから、皆じゃない私にも、名倉花香にも優しくするってこと? ちゃんと言ってること聞こうとするってこと? ……なにそれ」
彼女は口を噤み、俯いた。
きっと薄っぺらい同情だとでも思われているのだろう。
どうせ俺の言葉は伝わらない。
諦め、ただ続く言葉を待っていると、数秒後に彼女は呟いた。
「それって、お前の話は誰が聞くの?」
「……え?」
まるで予想できていなかった言葉に、俺の思考は一瞬止まった。
女子小学生はチラリと目だけを動かしてこちらを見る。
俺が何も理解できていないことを理解し、俯いていた彼女は再び顔を上げて怒った。
「だから! みんなじゃないやつの話し聞くやつがいないから、お前が代わりに聞いてるんでしょ? でもそれ! お前が相談されるばっかで、お前の話を聞くやつがいないって! お前が誰とも対等になれないって! 言ってるの! バカ! バカっ!」
「いや、それは……」
「いや、じゃない!」
俺の言葉は、女子小学生によって遮られる。
彼女の瞳は、やはり真っすぐに俺を見つめており、その事実がただ分からなかった。
「ていうか、そんな気持ちで名倉花香とか、他のやつらの相手してるなら……今もお前、独りじゃん」
ザアザアと雨音が強くなった。
俺はゆっくりと彼女の言葉を噛みしめる。
「……そう、だろうか?」
「うん」
女子小学生はコクリと頷く。
「だから、お前の話……私だけが聞いてあげる。私も独りだから。お前の言うこと、分かるから」
女子小学生は真剣な目で俺を見ていた。
一方、俺は妙な顔をしていたと思う。
俺の話を聞く人がいない事など、他人が気にするとは思ってもみなかったから。
「……本当に?」
俺の話を聞いてくれるのか?
瞳を不安の色に染める俺を見て、女子小学生は小さく笑った。
「じゃあ、お前は私のペットだから。ペットて、家族なんだよ? 分かった? ていうか、家族なんかより大事なペットね? 私だけがお前の飼い主だから、自分のこと私にしか話しちゃダメ。私もお前にしか、私のこと話さないから」
外は強い雨。
街灯から差し込む光に弱く照らされた遊具の中は、まるで閉じた世界のようだった。
彼女の言葉に答えたら、この世界は閉じたままになってしまう。
そんな妄想が頭を過り、どうにも口を開けない。
すると、女子小学生が代わりに口を開いた。
「どうせ、話聞いてくれる人なんていないじゃん。お前にも、私にも」
「……まあ、そうだな」
それは悩むまでもない本心で、だからポロリと言葉が漏れた。
「あげる」
そう言って、女子小学生はポケットから白い防犯ブザーを取り出す。
俺は手を伸ばすか一瞬躊躇したが、結局は黙って受け取った。
「それ、ペットのしるしだから。ずっと持っててよ?」
「ああ、分かっている」
「そっか……えへ」
その笑顔は随分と小学生らしく、無邪気で、嬉しそうで……俺はどうにも、自分が間違えてしまった気がしてならなかった。