ウソつきは、どろぼうの始まり
名倉さんの部屋で、俺と彼女は向かい合って静かに本を読んでいた。
時折聞こえるページを捲る音は、寧ろその静謐さに拍車を掛けているように思える。
夏休みに入ってからは本を読めていなかったので、なかなかに良い気分だ。しかし、この読書会本来の目的はそこでは無い。
今回は静かな時間を共有すること、それ自体が目的だ。
名倉さんが俺と真反対の人間であると分かってから、どちらの生き方が正しいのか知ろうと質問攻めにしてきた。だが、今のところあまり彼女の本心に触れられている気はしない。そこにきて、今朝の彼女の独り言と、俺の首に添えられた手。ゾッとしない体験ではあったが、あのゆっくりとした時間の流れと、俺の視線が無いと思われている状況は確実に彼女の本心へ近づけていたように思える。
ごちゃごちゃと語ったが要するに、俺と一緒にいて名倉さんがリラックスできるようになれば、彼女の本心に近づけるだろうという方針を打ち立てたわけだ。
チラリと視線だけで名倉さんを見る。
無表情で文字を追う姿は読書を楽しんでいるのか、それとも退屈しているのか。俺にはまるで読み取れなかったが、読書中の人間とは得てして無表情になるものである。
俺は視線を本に戻し、無表情でページを捲った。
この行為で彼女の安心を引き出せるのかは確信を持てずにいるが、まあ無駄だとしても問題は無い。
俺は読書が好きなのだ。
しばらくそうやって本を読み進めていると、名倉さんが困ったような顔でこちらを見つめていることに気が付く。
「どうかしたかな?」
「あ、えっと、わ、分かんなくて……」
「難しい漢字でもあったか? どれ、見せてくれ」
名倉さんの本を見ようと身を乗り出した俺に、彼女は首を横に振る。
「えっと、ちがくて。どうすれば良いんだろうって……その、急に一緒に読書しないかって、言われたから。だから、あの、最初は普通に読んでたんだけど、もしかして別の目的があるのかなって、だとしたら今の私、間違えてるなって……」
随分と察しが良い。
読書そのものが本来の目的でないとあっさりバレてしまった。
まあ、別に隠している目的でも無いが。
「ああ、実は名倉さんの言う通りで、読書は口実だよ。ただ君とゆっくりしたかった」
「え、あ、あぇ? な、なんで?」
名倉さんは驚いたように声を上げた。
「なに、君の本心を知るために質問を繰り返すより、気を許してもらうのが先かと思ったのでね」
俺の返事に、名倉さんは視線を逸らした。
そして、小さな声で言う。
「なんで私のことなんか知りたいのか、分かんないよ……」
「ふむ」
何故知りたいか?
「……気になるからさ。君は周囲が変わる事はないと諦め、自分を殺して発言することを当然と考えているだろう? 俺は真逆でね。周囲が変わらないのであれば、自分も変わるまいと生きてきたんだ。だから気になる。君と俺の、どちらが正しいのか」
「そんなの、浅野くんが正しいに決まってるよ……私になんて興味もっても、嫌な思いするだけだよ?」
名倉さんはその言葉を、例の自然な笑顔で言った。
それは珍しくとてもチグハグで、きっと表情を間違えたのだろうと思った。
俺にはもう一つ「虚構染みた会話が嫌いだ」という彼女の本心を聞きたい理由があったが、それは前にも言った。なによりそれを今伝えたら彼女の強迫観念を煽ることになる気がして、俺は彼女の言葉にこう答えた。
「嫌な気持ちになど、何がどう転んでもなる。俺はそういう人生観だ。であれば、せめてどう嫌になるかくらい自分で決めるとも」
彼女はじっと、観察するような眼で俺を見た。
「……そうなんだ。うん、そっかぁ」
名倉さんは本の縁をカリカリと掻いて、恥ずかしそうに口を開く。
「本心とか、まだ、よく分かんないけど……浅野くんが見つけてくれるんだもんね、うん」
彼女はチラリと俺を見る。
「分かんないって言っていいとか、怒らないとか、嫌な気持ちになっても良いから私と関わりたいとか、そんなこと言うの、浅野くんだけだよ」
「そうか」
俺がそう言うと、彼女はふっと微笑んだ。
「うん。私も本心、言いたいな。浅野くんに」
名倉さんは人の欲しがる言葉を良く分かっている人だから、俺はその言葉にも「そうか」としか返せなかった。だが、その表情はあまり嘘っぽくなかったように思える。
+++++
今までと比べて圧倒的に和やかな時間を過ごした俺と名倉さんは、そのまま夕食を一緒に作ることにした。
「今日は何を作るんだ? 俺としては比較的簡単なものをお願いしたいところだが」
「うん! だから、今日はカレーにします!」
「なるほど……」
神妙な顔で突っ立っている俺を見て、名倉さんは鷹揚に頷く。
「じゃあ、私はお野菜切るから。浅野くんはお米をお願いして良いかな? 分からなかったら教えるけど……」
「いや、問題ないとも。炊飯器くらいは扱えるさ、これでも独り暮らしなのでね」
「そっか、ちゃんと自炊してるんだ! 偉いね~」
彼女がニコニコと野菜を準備する隣で、俺は米を測ってから洗い始める。
まあ、大したことはない。洗い終わったら米と水を炊飯器にセットし、スイッチを押して終いだ。
「わ、もう終わったの? ……あれ、洗い物は?」
「ん? ああ、炊飯器の内釜で米を洗ったからな。洗い物は無い」
「そっか、そうしたら良いんだ……」
名倉さんは感心したような声を出しながら、人参を切っている。
ずいぶんとゴロゴロした人参だ。べつにしっかりと煮込むならこれでも良いのだが、生憎と名倉さんの料理はいつも野菜が半生である。
俺はその隣で、少しでもマシなカレーになるよう薄く人参を切り始めた。
すると、チラリとこちらを見た名倉さんはすぐに人参を薄く切り直し始める。
……名倉さんの料理も食べられないわけでは無いし、とやかく言う意味は無いかと思っていたが、もしかすると今日は普通の料理が食べられるかもしれない。俺はそんな希望を見出し、名倉さんと手分けしつつ、いつもの調子で料理を作った。
結果は良好。名倉さんが今までやっていた、強火しか使わないとか、水を後から足さないとか、そういった小さな問題点を切り崩しつつ、遂にカレーは完成する。
「いただきます!」
「……いただきます」
皿に盛られたカレーは、一見いつもと大差ないように思える。
俺は少しばかり緊張しながら、一口食べた。
それと同時に、名倉さんもスプーンを口へ運ぶ。
「……わあ、おいしい! 給食みたい!」
決して声を上げる程ではない、普通のカレーである。普段の俺ならそう言ったことだろう。しかし今の俺は、ここ数日名倉さんの料理しか食べていなかった。
故に今回ばかりは、名倉さんの素直なリアクションに同意を示そう。
「うん、美味しいな」
「だよね、お野菜とかルーとかは、浅野くんが色々やってくれたからだと思うけど。お米はどうやったの? 家庭用の炊飯器だと水っぽいお米しか炊けないと思ってたのに!」
今回のカレーが余程衝撃的だったのか、名倉さんは食い気味にテーブルから身を乗り出す。
「別に、炊飯器の目盛りに水の量をしっかり合わせただけだ。あと、野菜やルーも箱の裏に書いてある通りに作れば今回みたいに作れる」
「え? そうなの?」
「ああ、火の強さとか煮込む時間が——」
そうやって雑談しながら進んだ食卓は、俺に普通の家庭とはこういった感じなのではないかと思わせた。別に、今更そんなものに憧れを抱いてなどいないが、決して悪い気分でなかったのは事実である。
結局、食事中はずっと料理の注意点や他愛もない会話が途切れなかった。
そんな不思議と落ち着いた空気の中、名倉さんがポツリと呟く。
「……これなら、あゆみちゃんも食べてくれるかな?」
その言葉に返事をするべきか悩んでいると、背後からガチャリと音が鳴った。
女子小学生が帰ってきたようだ。
彼女は自室にいるものだと思っていたから少々驚く。
現在の時刻は夜八時。
小学生の帰宅にしては少々遅い時間だ。
「あ、あゆみちゃん。お外行ってたの? こんな遅い時間ダメだよ。学校からも六時までに帰らなきゃって言われてるでしょ?」
名倉さんは少し厳しい声で注意し始めた。
対する女子小学生は憮然とした態度で名倉さんを睨む。
「私が家出しようと思って外行ったこと、気づきもしなかったくせに」
「あっ、ぅ……」
名倉さんが何も言い返せなくなったのを見て、女子小学生は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「べつに、家出とか子供っぽくてバカバカしくなったから帰ってきたけど。大人ってさ、いつも保護者面してるくせに何にもする気ないし、何もしないじゃん。エラそうにするの、止めたら?」
……吐き捨てるようにそう言った女子小学生の目は、薄く涙に濡れていた。
~~~「バカな大人観察日記」~~~
8月4日 木曜日
バカバカバカバカバカバカバカ
ペットの大人にやろうと思ってた防犯ブザーがとどいたから、しかたなく名倉花香の部屋に行ったのに仲良さそうにしてた。バカバカバカバカ
いっしょに本とか読んで、名倉花香はいつも本なんて読んでないくせに。
けっきょく、みんなアイツみたいなウソばっかりの優しい人ぶってるやつが良いんじゃん。
けっきょく私なんてどうでも良いんだ。べつに分かってたけど。バカバカバカバカ
ペットの大人もほかの大人と同じ。全部ウソじゃん。私より名倉花香の方が良いんじゃん。
家出する。居場所ないし。
べつに居場所なんて、あると思ったこと無いけど。
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