奇々怪々
猫屋敷紫陽花は、その妖しげな雰囲気で俺を呑み込むように距離を詰めてくる。
「浅野先輩、恋愛相談室で有意義なお話はできましたぁ?」
「……ああ、随分と助けられたよ」
俺はそんな言葉を吐きながら、彼女を引き離すように早足で歩く。
目的地は無い。ただ、とにかくこの場を後にしたかった。
しかし猫屋敷は俺の態度に気が付かぬ振りをして、同じく早足で並走してくる。
「猫屋敷君、俺はそろそろ帰ろうと思うのだが、何か用でもあるのかね」
「用ですか? 用ですね、用が無いと話しかけてはいけませんか?」
悪戯っぽく笑って見せる猫屋敷を見ていると、なるほど魔性と称されるだけのことはあると思った。
尤も、以前聞かされた悪名を何から何まで信じているわけでも無いが。
「用が無いなら話しかけるなとは言わないが、しかし君は何用かが有りそうな顔をしている」
「ふふ、ご明察。しかし私はですね先輩、すぐに本題に入るのは好きではありません。或いは、本題の前の無駄話こそが好きなのです」
……相も変わらず回りくどい話し方だ。
俺は元来、会話を楽しむのが得意な方では無いのでやりにくい。
そもそも初対面の強引な印象が強く、俺はこの女が苦手であった。
けれども明かされた悪い噂や、保健室登校という話を聞いて、どうにも邪険に扱いきれない。
「では、どこか座れる場所にでも行くかい? 歩きながら延々と無駄話を続けられるほど、俺の足は頑強で無いのでね」
「にゃあ、浅野先輩は優しいですねぇ? 無駄話にも場を設けて取り合っていただけるとは。でも私の相手なんてしたところで出てくるのは無駄話、どころか無駄骨に終わって、最終的に無駄骨折り損にさえなりかねませんよ?」
「別に、俺は単に自らの足の骨を労わりたいだけだとも。歩き疲れて疲労骨折でもしたら大変だからね」
俺なりに猫屋敷の良く分からない話し方に合わせてやると、彼女は嬉しそうに笑った。
「ではでは、そんな優しい先輩に、ヒミツのカッフェをお教えしましょう」
+++++
連れて来られたのは商店街の隅、人通りの少ない路地に隠れ家のように在る喫茶店。
クラシックな内装に、今時珍しい喫煙可能の張り紙が合わさり、如何にも純喫茶という雰囲気を醸し出している。
なんとなく店内見渡してみるが、客は俺と猫屋敷しかいない。
平日とはいえこの空き具合は、店にとってあまり芳しくない状況だろう。しかし、騒々しいのが苦手な俺としては有難かった。
「先輩も、モカのシナモンローストで良いですか?」
……何の何だ?
モカは何となく聞き覚えがある。カフェモカみたいな、それが何かは分からないが。恐らくコーヒーの種類だろう。
一方、シナモンローストについては皆目見当もつかない。シナモンというとスパイスか? 或いは調味料? ローストと言うと肉の焼き方のイメージがあるけれど、まさか喫茶店でローストビーフが出てくるわけもあるまい。
ゴチャゴチャと思考を巡らせるが、モカのシナモンローストが意味するところに辿り着ける気配は無い。
俺は諦めて、見覚えのあるメニューを指差した。
「すまないがコーヒーのことは良く分からない。オレンジジュースで頼む」
「ふふっ、浅野先輩は見栄とか張らないタイプなんですねぇ? 因みに私も、実はコーヒーのことあんまりよく分かっていないです。だからぁ、やっぱり私もオレンジジュースにしちゃお」
猫屋敷はそう言って笑うと、店員を呼んでオレンジジュースとパフェを二つ注文した。
なんだかよく笑う女だと思った。
店員がカウンターに戻ると、猫屋敷は改めて俺の方を見る。
「ここのパフェ、美味しいんですよ?」
「そうかい……」
それは楽しみだ、とでも言えば良いのだろうが。
なんだか猫屋敷と対面していると妙な緊張感があり、どうにも言葉がつっかえる。
初めて保健室で会ったときの、あの異様な雰囲気が小さなトラウマのようになっているのかもしれない。
「それにしても浅野先輩。こーんなところでデートしてぇ、彼女さんには何て説明するんです?」
「……はぁ、それもそうだな。では帰らせてもらうか」
別に彼女なんていないが、その揶揄うような調子が妙に気になって俺は投げやりにそう返す。
そのまま鞄を持って立ち上がろうとする俺に、猫屋敷は甘えたような声で言った。
「あーん、待ってくださいよぉ。名倉花香さんには黙っておきますからぁ」
「っ!?」
思わず猫屋敷の目を見る。
相変わらずニヤニヤして人を食ったような笑み。
しかしその細められた瞳の奥には、確かな紫紺の悪意が見えた。
「……何故、お前がその名前を知っている?」
俺の問いかけに猫屋敷は殊更口を裂くようにして笑みを深め、歌うように語りだした。
「11月28日、記録的豪雨により土砂災害が発生。海に来ていた大人2名、高校生4名、小学生1名の内、1名が軽症、1名が意識不明、2名が行方不明。そして1名が死亡……でしたっけ?」
「なるほど、ニュースで見たわけか……」
「はい、珍しく大きい事故でしたし。それに今時インターネットでちょっと調べものをしてみたら、浅野先輩のお名前もすぐに見つかりましたよ?」
不愉快なことだ。
きっとネットで好き放題、あることないこと書き散らされているに違いない。
「だが、調べたというなら名倉さんの死亡が殆ど確定していることは知ってるだろ。俺の前でその名前を出すのは悪趣味だ、謹んでくれ」
「……でもぉ、まだ生きてる、かもです?」
とぼけたような顔で、猫屋敷はそう言う。
「はぁ……そうかもね」
そのとき俺の胸に広がったのは怒りではなかった。
手足の力が抜ける。
もう全てが嫌になってしまうあの感覚が来たのだ。
諦念。世界が現実感を失う。
俺は脱力のままテーブルに突っ伏し、泥のような記憶に揺蕩う。
何も考えられない。涙が少しだけ目に滲んだ。
どうでも良い。
「私、未成年で可愛いですから、色々弱みとか情報とか集められちゃうんですよねぇ」
猫屋敷の声が遠くに聞こえた。
気が付くとパフェとジュースがテーブルに置かれていた。
ぼーっと眺める。
「それで警察の話とかもちょこっと聞いてまして。名倉花香さんの捜査自体はもう殆ど打ち切られてるらしいんですけど……こっそり見せてもらった捜査資料とかで、足取りを追えなくもなさそうなんですよねぇ?」
右から左に聞き流す。
いや、聞き流すというより聞こえていなかった。
音が鳴っているということだけは認識しているが、それだけ。
「もー、聞いてます?」
何故俺はこんなところにいるのだろう?
もう人に関わるのは止めようだなんて考えていたはずが、気が付けば恋愛相談室や猫屋敷と接触している。
馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。もう帰ろう。
しかし、テーブルから体を起こす気力も無かった。
ぼんやりと突っ伏したまま顔を横に向ける。
虚空を見つめていると、猫屋敷が俺の隣の席に移動してくる。
無感動にその視覚情報を受け取っていると、猫屋敷は俺と同じようにテーブルに上体を預け、すぐ近くに顔を寄せてきた。
唇が軽く触れ合う。
しっとりとした感触が伝わった。
それは大変なことのように思うが、今の気分ではどうにも大騒ぎする気分になれない。
すると猫屋敷はパフェを口に含み、口移しでアイスを押し付けるように舌を絡めてくる。
俺が冷たくて甘いアイスを嚥下すると、猫屋敷は唇を離した。
唾液の糸を伝わせ、猫屋敷は「にゃあ」と微笑む。
「美味しいですか?」
「……気分が悪い」
「私のペットになるのなら、名倉花香の居場所を教えてあげますよ?」
俺は適当に財布の中身を出して離席する。
そのまま店から出た背後で、「色良い返事をお待ちしてますよぉ」と声が聞こえた。
早く、あゆみに会いたかった。




