あか、赤、茜
土曜の昼下がり、平川が買い物から帰るのを待っている。
ずっと一人暮らしだったので留守番というのは久しぶりだ。まるで、子供に戻ったみたいだと思った。
俺は暖かい部屋の温度に微睡みながら、ベッドに深く寝そべっている。
あゆみのゲーム画面を眺めるこの時間も、どこか懐かしい。
あゆみは延々とNPCを戦車で轢き殺して遊んでいた。
そんな単純な遊び、すぐに飽きてしまいそうなものだが、本人は楽しんでいるようだった。
ふと部屋の薄暗さが気になる。
まだ太陽の位置が高いから、窓から日が差し込まないのだ。
俺はのそのそと立ち上がって電気を点けた。
そのままベッドに戻ろうとしたとき、あゆみの戦車が派手な音を立てて爆散する。
「ねえ、晋作」
彼女は目線だけで俺を見た。
「……ん」
「ごめんね、勝手に平川さん呼んで」
「いや、いいよ。あのまま家が荒れ放題では良くなかった」
コントローラを握ったまま、あゆみはゲームオーバーの画面から視線を動かさない。
俺は立ったまま彼女のつむじをしばらく見つめてから、隣にそっと腰を下ろした。
「……」
別に、何か話したいことがあるわけでは無い。
ただ何となく、隣に座りたかったのだ。
そのまま一緒になってゲームオーバーの画面をぼーっと眺めていると、あゆみがそっと肩に寄りかかってくる。
俺は思わずビクリと肩を震わせ、ゆっくりとあゆみの方に首を回した。
「晋作さあ……私のこと、好き?」
少し震えたあゆみの声。
俺はその言葉を咀嚼して、じっくりと考えた。その後で「好きだよ」と言う。
何だか自分の声が掠れていて、妙に気持ちが悪く思えた。何が気持ち悪いのかは、良く分からないのだけれど。
LED電灯のジーという小さな音が気になる。
俺が今、生きているのは、あゆみがいるから。
ぬるい部屋の温度に包まれ、肩から伝わるあゆみの温度が際立った。
この部屋は水槽で、自分たちはそこに入れられた二匹の熱帯魚。そんな妄想が、ふっと頭に湧いて消える。
日本の海には場違いの、奇妙な色をした熱帯魚。
「ねえ」
あゆみは俺の頬を両手で挟み、身を乗り出してそっとキスをする。
甘えるように唇をついばむ彼女は、まるで俺よりずっと大人の女性みたいだ。
唇を離して伝う唾液の糸。
それを見ながら、俺はどこか夢幻のように今を捉えている。
「……」
俺はこういう行為に、意味があるのか分からなかった。
「晋作はいつも、すぐどっか行っちゃいそう」
「行かないよ、どこにも……」
伏せた俺の目を見て、あゆみはフンと鼻を鳴らす。
それから彼女は、体を擦り付けるように俺へと体重を預けた。
「学校で、女の子に会ったでしょ?」
「あぁ、まあ」
「ほらね」
大人びた顔で、あゆみは俺を見る。
俺は猫屋敷と宮下の顔を思い出した。
「別にそんなんじゃないよ。そもそも、そんなことを気にするなら平川はどうなるんだ」
「平川さんはね、大丈夫」
何が大丈夫なのか俺には分からなかった。
ただ何となく不安になって、怖くて、俺は逃げるように立ち上がる。
そのままベッドに顔を伏せ、足を抱えて蹲った。
音だけで、あゆみが立ち上がったのを察する。
そのまま彼女は小さくなる俺を後ろから抱きしめ、耳元で囁いた。
「今はね、私が晋作を守る番」
何故だか、お姉さんのことを思い出していた。
小学生の夏休み、唯一俺の話を聞いてくれた人。
俺がお姉さんの影響を受けて変わったように、あゆみもまたお姉さんから何かを受け取ったのだろうか?
気が付くと目に涙が滲んでいた。
俺は余計に、小さく小さく蹲る。
「助けてほしい……」
「ん」
あゆみの小さな手のひらが、俺の背を撫でる。
それで心が落ちつくのだけれど、それ以上に騒めく気持ちがあった。
自分が酷く情けなかった。
「……ごめん」
「別に良いよ、晋作がいてくれるなら」
背中を擦る彼女のリズムと合わせるように、呼吸がなだらかになるのを感じる。
俺はそっと蹲った体を解いて上体を起した。
もっと、しっかりと、ピッタリと、あゆみに触れたかったのだ。
俺のことを、何とか、どうにか、して欲しかった。
苦しいんだ。生きている自分が不安になる。
頭の中に、ずっと名倉さんがいる。
そして真正面から見たあゆみの姿は、しかし夏休みのお姉さんと違っていて、記憶通りの子供なのである。
俺はそっとあゆみの頭を撫でた。
彼女は少しくすぐったそうにして、猫のように俺の手に頭を擦り寄せた。
「……ありがとう。もう、俺は大丈夫だから」
「んふっ、そう? なら良いよ。てかさ、ゲームしよ!」
「ああ。久しぶりだがね、負ける気は無いよ」
「今までもゼンゼン勝ってないのにー?」
あゆみはケラケラと笑いながらダウンロードしてあるゲームを選び始める。
俺はその後ろ姿を眺めながら、やっぱり嘘くさい自分を感じていた。
+++++
「平川、食器は俺が洗うよ」
昼食のオムライスを食べ終え、早速台所へ行こうとした平川を呼び止める。
すると彼女は少し嫌そうに顔を顰め、俺を追い払うように手を振った。
「いいわよ、私がやるから。アンタは寝ときなさい」
「……そうか。だが、頼りっぱなしというのもね」
「もう、いいから! アンタのために、私に何かやらせなさいよね……?」
目を逸らして平川はそんなことを言う。
つまりどういうことなのか良く分からない。しかし、気遣ってくれているのだろう。
俺が大人しく部屋に戻ろうとしたタイミングで、玄関のチャイムが鳴った。
今は、あゆみも平川も家にいるのだから、誰かが家に来るとは思えないのだが……。
様子だけ見ようと玄関へ行くと、外には宮下がいた。
覗き穴から見えた光景。夕日、真っ赤に染まった地面。宮下の姿と名倉さんの幻影が重なる。
血塗れの名倉さん。彼女が俺の母親を殺した夜。
「はあっ、はっはあっ、はっはっ、はっ」
呼吸が浅くなる。
視界が回り平衡感覚が失われる。
熱い頭。グラグラする。
「……ぅっ!」
ドアに倒れ込む。
冷たい金属の感触。そのまま鍵を掛けていないドアが開いた。
一瞬視界に映る宮下の驚いた顔。
重なる名倉さんの笑顔。
夕日、血。
母の虚ろな瞳。
「あぁっ……ぅぁ、は、は、は、はっ、ぁっ」
断続的に暗くなる視界。
いよいよ立っていられなくなる。
血の気が引く。
一瞬の意識の明滅の後、俺は宮下の胸に顔を埋めていた。
「はぁ……はぁ……」
「大丈夫? 晋作くん」
頭を優しく撫でられる感覚。
まだ脳が落ち着かない。泡立つような焦燥。
「よし、よし、どうしたの? 大丈夫だよ~」
ゆっくりと背中を擦られ、抱き留められている感覚が伝わってくる。
体温を感じ、次第に現実感が身体に追いつく。
「ゆっくり息を吸ってー、吐いてー」
「すぅ……はぁ……」
「ん、良い子」
俺はそっと宮下の胸から顔を離し、改めて向かい合う。
「……っ取り乱して済まなかった。少し、嫌な事を思い出して」
「ううん、こっちこそ急に来てごめんね? もう大丈夫そうかな?」
「ああ、少し落ち着いた。それで今日は……何用かな」
俺がそう問うと、宮下は穏やかに微笑んで頷いた。
「実はね、昨日から晋作くんの栄養状態が悪そうなの気付いてたんだ。それで、心配になって先生に家聞いて来ちゃった。でも、今日は顔色良いねー!」
「ああ、実は前の学校の……知り合いが来てくれていて」
俺がそう説明すると、いつの間にか後ろに立っていた平川がジロリと俺を見る。
次に宮下のことを見て、説明するよう無言で俺に促した。
「あー、こちら宮下さん。新しい学校のクラスの人だ」
「えー、私クラスの人? お友達が良いなー」
「あ、いや……うーん」
俺が言葉に詰まっていると、宮下が逆に問いかけてくる。
「ま、今はクラスの人で良いよ。それで、その人は彼女さん?」
「いや、違う」
即答した瞬間に平川から小突かれる。
しかし、彼女ではないのだから仕方がない。
「ふふっ、仲良しなんだね?」
「まあ、うん」
俺がそう答えると、満足したのか平川はそのまま台所へと帰って行った。
結局、何をしに来たんだアイツは。人見知りか? いや、人見知りだったか。
「えーと、実はさっきの平川以外にも家に人が居てね。上がっていくと少々手狭かもしれない。だから、まあ、少し散歩でもしながら話すかい?」
「ん! そうしよっかなー」
俺は頷き、家の中に向かって少し声を張る。
「なあ、二人とも。俺は少し宮下さんと外で話してくる。夕飯までには帰るつもりだが、何かあれば携帯電話に連絡してくれ」
平川は食器を洗いながら、頷いて見せる。
俺が頷き返して外へ出ようとしたときに、部屋の奥からあゆみが登場する。
「私も一緒に行く」
「うん、そうか。宮下さんもそれで良いだろうか?」
「んー、良いよ! 私、子ども好きだし」
そう言って微笑む宮下に対し、あゆみは露骨に顔を顰めて見せた。
これはもしかすると、あまり相性が良くないかもしれない。
俺は少しばかり不安に思いながらも、家の敷居から一歩外に出る。
夕日が伸ばす俺の影は、光源と同じく茜色に染まっていた。




