祖父の経営する平塚物産と湘南印刷との契約交渉の中で孝太郎の登場でその場が和みます。
棚橋孝太朗 その3
営業部の一番の見せ所は、契約をいかに成立させるかだが、今回も大口とあって市内でも有名な料亭“平塚庵”が選ばれた。
交渉相手は大手印刷会社の、湘南印刷株式会社である。今日は高齢ではあるが、がっちりとした体格で風格のある二野谷猛社長と穏やかで知的な専務の小鳥野幸男の二人がやってきた。
この平塚物産では、棚橋社長が直々に経理部長の岩多古一郎と同行し、あらかじめ準備された来賓控室にて交渉が始まった。岩多古はいつも担当しているので、流暢な説明はどの相手も全面的に信頼して聞き入るのだった。
机の上には莫大な資料が積まれ、淡々とした説明に二人は時々うなずきながら、真剣に聞いている様子に、棚橋社長は今回も大成功との確信を持って対応したのである。
説明も終盤に近づき、そろそろイエスかノーの感触がおよそ判断できる頃、突然二野谷社長が「棚橋社長、あなたの孫は大変評判が良いと聞いておるんじゃが。うちの社内でも若い者が一緒に飲み会をやりたいとか、女性の社員なんかお嫁に行きたいなんていう者もおりましてな。そんなに評判の孫なら是非一目会いたいと、先ほどここへ来た時さがしてみたのじゃが分らなんだ。ただ玄関で背が高く、若い男が私達を出迎えてくれたんじゃが、確か孫は背はあまり高い方じゃないと伺っておったので、違う人物なのですな」
「はい、うちの孫は何故か私達に比べ、背が高くならないんですよ。甘やかして育てたせいか、まだ、中学生か高校生といってもいいぐらい小さい子供なんです。今日は孝太朗に二野谷社長さん達がいらっしゃるので、お出迎えをするようにと言いつけておりましたが、じゃあ外にいたのは誰だったんでしょうね」と言いながら、二野谷社長が契約資料について質問するとばかり思っていたので、この様に関係のない質問をするケースでは、契約を断わる為の時間稼ぎに違う話題を持ち出すことがあり、今回もそのケースかもしれないと内心思ったのである。
二野谷社長は小鳥野幸男専務が一生懸命資料をチェックしている間、何かうわの空、少しも集中している感じもしない。
棚橋社長が今回はたぶん無理だろうと思ったところへ、二野谷社長が言った。
「棚橋社長、孫はちっとも顔を見せないじゃないか、どうしたのじゃ。どうしても孫に会いたい、是非ここに呼んでくれないか」
「はい、かしこまりました。別室で待機しているように言っておきましたので来ると思いますが、じゃーーしばらくお待ちください」
棚橋社長は仲居に耳打ちをし、孝太朗を部屋に来るよう伝えた。
「孝太朗です。おじいちゃん只今入ります」そう言ってふすまに手を掛けようとした瞬間、仲居がはいどうぞとふすまを開けたので、孝太朗はつかむところがなくなり、バランスをくずしてよろよろとよたついた。実は背を高く見せようとシークレットシューズを履いていたことをすっかり忘れ、座敷に上がったのである。さらにズボンの裾が足にからみ、おっとっととたたらを踏んで、ドタンと倒れてしまった。ところが運悪く二野谷社長の膝の上だった。
しかし、足がズボンから出ていないので、畳がすべってなかなか起き上がれない。丁度そばに棒が立っていたので、それをつかんで起き上がろうとするが、やはりすべって起き上がれない。すると二野谷社長が急に
「うっひゃひゃひゃひゃ、これはすごい挨拶だな。ひゃひゃひゃひゃくすぐったいよーー、やめてくれーーっ」
孝太朗は必死に棒につかまり何度も試みたが、どうしても起き上がれない。その度棒を何度もこするので、
「これ、孝太朗何をやってるの、だめじゃないか。早く起きなきゃ」と棚橋社長がテーブル越しに二野谷社長の膝元をのぞいた瞬間何やらねばっとする液体が顔にどびゃびゅーーと掛かった。
「うひゃーーなんじゃこれは、うわーーっねちねち生臭いような、青臭いような」棚橋社長は一生懸命手でぬぐおうとするが、あまりの量でべとべとしてあせっている。仲居が見兼ねておしぼりをいくつも持ってきた。
棚橋社長は何が起きたのかも分からず、とにかく顔に付いているものを拭き取り、もう一度二野谷社長の膝元を見てびっくり、「わーーっ、二野谷社長さん、これはりっぱなものをお持もちですなぁ。こんなすばらしいものを見せていただき感動いたしました。実はこれにあやかると、大変商売繁盛すると評判の大きな金棒なのである。
孝太朗が起き上がろうとする度、二野谷社長のその金棒をこするので、つい興奮して発射してしまった。
二野谷社長はうわの空だったのは、今夜浮気相手のバー『クレオパトラ』のNOⅠ『カトリーナ』に会える楽しみから、すでに興奮して手むづりの最中に起こってしまった出来事だった。
「大変失礼しました。はずかしいものをお見せしまして」
二野谷社長は恐縮していたが、孝太朗は状況が分からずまだその棒をつかんだまま、ようやく起き上がって
「げーっなんなのこの太い棒は。うそーっ、このねばねばは、おじいちゃんになるとこんなに大きくなるの」すると棚橋社長が
「お前がこんな風にご迷惑をお掛けしたんだ、ごめんなさいは」
子供をしかるように言うと孝太朗は、
「二野谷社長さんごめんなさい。背を高く見せようとシークレットシューズを履いて来たことを忘れて座敷に上ったら、ズボンが足にからんじゃって」
と謝り、みんなが大笑いをして心が打ち解けたのだった。
「はいはい、それでは皆さん気心も知れたことだし、準備ができましたので次の会場の方へ移動して、飲みながらご歓談されたらいかがでしょうか」
仲居は慣れた気の使い方でその場を納めた。
「さきほどは大変はずかしいものをお見せし、失礼いたしました。このようなりっぱな席を設けていただき、大変恐縮いたしております。小鳥野専務と今日は二人遠慮しないでいただきます。それでは乾杯しましょう。乾杯!」
契約交渉という緊張する場面でも孝太郎のユニークな行動は、誰からも笑いを誘い、人気者になっていきます。