エピローグ~『一緒に走るんだからね』
三日目・昼
私は走る。
パンプスが脱げそうになる。
でも……でも、走る、走る。
空気を求めて、呼吸のテンポがどんどん速くなる。
会社は早退した。
今日は遅刻した上に早退だ。
最悪だ。
もう辞めてしまってもいいかも。
今日みたいな土曜にも出なきゃいけない仕事なんて。
それになんといっても、あの男の顔を見るのが辛いし。
地下鉄の階段を駆け上る。
気持ち悪くなりそうだ。
しっかりしなきゃ。
何のために普段から朝走っているんだ、私。
私は約束を破った。
昨日の朝、私は言った。
『もしも、明日ワンちゃんがまだここに一人でいたら、私があんたを拾ってあげるよ』
こうも言った。
『運と縁があったらね』
こんなことも言ったことを覚えている。
『大丈夫。私、天気が悪くなければ、いつもここジョギングしているから』
なんでだったんだろう。
今日の朝が雨だったから?
昨晩、ヤケ酒をして、今朝二日酔い気味だったから?
いやいや、違う。
そんなんじゃない。
そもそもは……。
彼が昨夜、突然に訪ねて来て__突然に別れ話を切り出された。
今更、奥さんや子どもなど家族が大事って……そうなんだろうけど、正直に言う? 普通。
今更、社内の他の人の目がって……そんなの、私だって同じじゃん。
惨めにも泣いて縋ってみたけど、落ちなかった。
以前、産まれる前に消した小さな生命のことも持ち出して詰ったけど、無駄だった。
何を言っても、その私の言葉で私自身がどんどん傷ついていくだけだった。
寝起きに酔った頭で彼のこと考えて、でも、楽しかった思い出しか出てこないで、結局、ベットからなかなか起き上がれなかった。
公園の入口が見えてきた。
白いワゴン車が止まっている。
女性が荷台のドアを閉じて、車に乗り込んだ。
邪魔な車だ。
私はワゴンを廻りこんで、公園の入口に到着した。
公園を見渡す。
あれ? あのコがいない。
あのコがいた段ボールごと無くなっていた。
公園の入口で、肩で息をしている私の後ろで、ワゴン車が発進した。
誰かが拾ったのかな?
立ち止まっている私の後ろにいて、ワゴン車を見送っていた厚化粧のおばさんが、腕に抱えた飼い犬に話しかけている。
銀色の長い毛の一部が茶色がかっている犬だ。
あのコじゃない。
「まあ保健所に保護されても、数日は引き取ってくれる人を探してくれるらしいから、ねえ。リシュアンちゃん」
保健所?
「保健所?」
私の心の声と同じ言葉が隣から聞こえてきた。
横を見ると私の横に眼鏡をかけ、制服を着た女子高生が立ち止まっていた。
手にチョコチップクッキーの袋を持っている。
女子高生は公園の一点、あのコがいた辺りを見つめながら、残酷な結末を口にする。
「……って、まさか、最後は殺処分?」
殺処分__。
自分でも驚くくらい早い動作で、ポケットからスマホを取り出し、地図アプリを立ち上げる。
ここから近い保健所は……。
今までの私の日常には、全く縁がなかった公共機関の場所を急いで検索する。
私と高校生の二人が並んで立っている公園の入口に、小さな人影が加わってくる。
赤いランドセルを背負った女の子だ。
私やメガネっ子女子高生がここに来て真っ先に見たのと同じ辺りを見て、「あっ」と声を上げてから、何かを探すように公園全体を見渡している。
そっか、今日は土曜日、半日授業なんだ。この子達。
赤いランドセルがつぶやく。
「親切な人に拾ってもらえたのかな?」
あった、保健所。
一番近いのは、ここからなら歩いて二十分。
違う、違う。
走ったら十五分だ。
私は公園に背を向けて走り出す。
気のせいか、走る足取りが軽い。
何となくあのコ、私に似ている気がする。
自分が弱い存在だって自分自身で知っているけど、肩ひじ張って斜に構えて生きている。
撫でてもらっても、身体を丸めて目を閉じたまま、されるがままにしていた。
そうだ、あのワンちゃん、私と同じだ。
何といっても、捨てられても、戻ってなんかこない飼い主をきっと、ずっと待っていたに違いない。
そう考えると、ちょっと切ない。
坂道を駆け降りながら、涙が溢れてきそうになる。
でも、私はあんな男とのことは克服してみせる。
あんたも新しい飼い主を受け入れなさいよ。
またパンプスが脱げそうになる。
邪魔だ! 水たまりたち。
大通りに出て、歩道をひた走る。
真っ赤に潤んだ目で全力疾走する私を、すれ違うマダムや紳士たちが不思議そうに見ている。
構うもんか、どうせ汗と涙でメイクは崩れていてひどい顔だ、きっと。
自分の呼吸する音と地面を蹴る足音しか聞こえない。
あのワンちゃん、女のコかな?
だったら、私の可哀そうなあのコに考えていた名前をつけよう。
どちらも授かりものなことには違いはないじゃん。
あ、あそこだ、保健所。
看板が見えてきた。
不思議と公園に向かっていた時よりも息が楽だ。
一段と速くなったスピードで、新しい家族のもとへ走る。
走る、走る、走る__。
今までは、一人で走ってきたけど、明日からはあんたにも付き合ってもらうからね!
待ってなさいよ!
一緒に走るんだからね!!
自分の呼吸音と足音に重なって、「キャン」という声が聞こえた気がした。
<了>
最後までお読みいただき、本当に本当にありがとうございます。
これで完結です。
あとがきで書き手が書いた作品の内容についていろいろと書くと、特に私のような未熟者の場合は、言い訳ばっかりになってしまうので、それについては語らないように致します。
ただ、初めての連載での投稿で、私自身も大変気づくことが多くありました。
それもこれも、ご感想やメッセージをお送りいただいた方々はじめ、お読みいただいた皆様のおかげです。
実際にこのエピローグはいただいたご感想からヒントをいただいて、綴ったものです。
こうした読み手の方との双方向なやり取りから、展開や結末が変わっていくということが、投稿小説の連載で面白いところだとすごく勉強になりました。
なので是非、短くともご感想などいただけたら嬉しいです!
沢山の傑作、名作がある「なろう」の片隅で、異世界や転生がでてこないこのような小品にご興味を持って拾っていただいたことに、ただただ感謝です。(私自身はこちらで転生ものなども多々拝読しています)
ご高覧ありがとうございました。
くりはしみずき