『くすんだ飴色の目と大男』
回想11 二日目・夜遅く
アタイにイタズラしようとしてきた人間のお兄さんたちを撃退してくれた大男が、段ボールの中にいるアタイを覗き、睨んでいる。
こちらを見据えている、据わった目。
ちょっと、怖い。
アタイの尻尾は丸まったままだ。
街灯の明かりを背にしているからか、顔は影になって見えない。
大男は大きく息を吐いた。
うっぷ、酒臭い。
アタイの飼い主の旦那さんは、夜遅くに帰ってきては一人でお酒を飲んでいたけど、こんなに匂うことはなかった。
一度だけ、アタイが知っている限りたった一度だけ、奥さんと激しく言い争った後に例外があったけど。
大男は鼻息も荒い。
アタイとお互いに睨みあっている。
「うおー!」
えっ! 何? 突然。
アタイの身体がビクッと震える。
この人、叫んでる? 怖い……助けて、ご主人さまぁ。
大男はいきなり、ドカッと音を立てながら段ボールの前に尻をついて座り込んだらしい。
「やい、捨て犬!」
は、はい……な、なんでしょうか。
赤みがかった顔だけが覗いている。
「俺の娘がよお、娘が明日、家を出ていくんだよぉ」
いいじゃないの、自分から出ていくんなら。
追い出されたり、捨てられたりしたんだったなら、ちょとだけ切ないけど。
この人、何かに怒っているみたいだけど、どうやら、アタイに対してではないみたい。
ちょっとだけ、安心。
でもしかし、アタイにそんな話されても……。
「しかも、あんな青瓢箪のやつのところへ」
何でしょ? アオビョウタン……?
「しかも、あの青瓢箪は、俺よりも稼ぎはいいし、優しそうで真面目ときてやがる」
公園の入口の方から、昨日同様に段ボールを引きずる音とちょっと強めの体臭の匂いが近づいてきた。
目の前の大男は、それには気がついていないように酒臭い息でアタイに話しかけてくる。
「娘さんをくださいだと? ふざけんな、あのヤロー……」
娘さんが連れ去られるのかしら?
「大切に育てて、守ってきたのに……」
また大きく息を吐いた。
ホント、酒臭いんですけど。
「俺が帰ったら三つ指ついて挨拶するつもりで、今頃、手ぐすね引いて待ち構えてやがるんだ」
待ち伏せされているの?
「だから、帰りたくねえんだよぉ。こんな遅い時間でも」
大男は肩を震わせて、目を赤くしている。
怖いのかしら?
こんな大男でも逃げ出したくなるなんて、どうやら、その「三つ指」って技はだいぶ手強いようね。
「ちっちゃい頃はしょっちゅう俺の周りに纏わりついてきたくせによう」
ちょっと離れたところで、昨日の夜にアタイの住居をキレイにしてくれたおじさんが、昨晩同様に段ボールを組み立て始めたようだ。
「大きくなったら、口をきいてもくれなくなって。なんか、ちょっと寂しくて見捨てられちゃった気もしたけどな」
アタイの場合は「気がした」ではないみたいなんですけど……多分。
「青瓢箪のもとに行ったら、本当に見捨てられちゃうかもな」
目線がアタイから離れて夜空を見上げだした。
「でも、周りに気を遣ういい娘なんだよ」
大男の娘さん自慢が始まった。
そんな大切な娘さんが連れ去られるのは、いたたまれないわね。
段ボールを組み立て終わった、黒い着ぶくれをしたコート姿のおじさんが近づいてきた。
「ちょっと、こいつを借りますよ」
黒いコートのおじさんはアタイに手を伸ばしてきつつ大男に声をかけた。
大男は今になって気づいたようにおじさんを見て、鼻をつまむ。
おじさんも臭いけど、あんたも酒臭いんだよ。
おじさんは抱え上げたアタイに向かって話しかける。
「そんな自慢の娘さんが選んだ青瓢箪なら、間違いないんじゃないかねえ。な?」
そのくすんだ飴色の目でアタイの目を見ながらニッと笑う。
やっぱり歯が何本か欠けている。
大男は鼻をつまんだまま、目を見開いた。
「そこは信じてやらないとな。な?」
おじさんはいちいちアタイを見ながら話しかける。
大男は突然立ち上がり、大きく息を吸った。
まさか、襲い掛かってくる?
いきなり自分の両頬をひっぱたく大男。
アタイは音にビックリする。
おじさんも大男に、皺だらけの黒ずんだ顔を向けた。
「帰らないと!」
大男は言いながら、慌ててズボンから片方はみ出していたシャツをベルトの中に押し込む。
そして、アタイを抱え上げているおじさんの方を見て言った。
「娘が俺を見捨てるわけない」
それからアタイに目を移す。
「今度は、ちゃんとお前を守ってくれる人に拾ってもらえよ」
大男はアタイたちに軽く頭を下げてから、公園の出入口へ向かって急いで歩き出した。
まだちょっとフラフラしているみたいだけど、大丈夫かしら。
組み立て終わったばかりの段ボールへアタイを下ろしたおじさんは、公園の出入り口の方を見やった。
「家族は離れて暮らしても、そう簡単に見捨てたりなんかできないものさ」
それからアタイを見下ろして、頭を撫でてくれた。
「わたしゃ、家族を捨てた方だけど……な」
おじさんのくすんだ飴色の目が、ちょっとだけ切なそうに、そして苦しそうに見えた。
それから、またアタイの住居たる段ボールをキレイにしてくれて、中に敷いた灰色の紙を取り換えてくれた。
しばらくすると、少しだけ快適になった元の段ボールに戻されていた。
アタイの目の前には、また誰かの食べかけのピンク色のソーセージ。
「今夜はちょっと降るかもしれんなあ」
おじさんはアタイの段ボールを大きく枝をはった木の根元へ移動させて、灰色の紙を天井半分にかけてくれた。
「明日こそ、大切にしてくれる人に拾ってもらえるといいな。ま、そしたらもう……わたしらは会えないけどな」
おじさんは、アタイを一撫でしてから、また段ボールを引きずりながら歩いて行った。
その足音が聞こえなくなると、何の音もしなくなった。
ちょっとだけ寂しくなった。
今日も飼い主のご主人は、アタイを迎えには現れなかった。
しばらくして、雨が降ってきた。
三日目・昼近く へ続く