リバースアイデンティティー7
新宿。それは私にとって因縁のある街だ。高校時代のこの場所から私のバンド人生は始まったといっても過言ではない。初めてのメジャーレーベルオーディションを受けたのもこの街だし、旦那にプロポーズされたのもこの街だった。酸いも甘いもある。そんな街。
冬の終わりの新宿はとても寂しげに見えた。地震の爪痕はあちらこちらに残り、ビルには痛々しいヒビが入っていた。そこを行き交う人々の顔は暗い。日本全体が自粛ムードなので、それは当然だけど。
ビルとビルの隙間を覗くと、そこにはハチワレの野良猫の姿があった。彼、もしくは彼女はゴミ置き場に乗っかると中を漁り始めた。夕食の時間なのだろう。もしかしたら子供がいるのかもしれない。
ハチワレを横目に私は待ち合わせ場所に急いだ。まだ、約束の時間よりだいぶ早いけど先に行っておきたい。繁樹はおそらくギリギリの時間に来るし、ヒロはもう既に近くの駐車場で待っていると思う。
「あの、予約してる渋谷です」
店に着くと私はバーテンダーに声を掛けた。
「はい、渋谷様。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
彼に案内され奥の席に進む。いつもの席だ。独身時代、旦那と一緒に座った席。
バーテンダーの彼とも長い付き合いだ。ネームプレートでしか名前を知らないけど、山下さんというらしい。年齢も分からないけど、おそらく私とあまり変わらないだろう。
「連れが来るまで飲んでてもええですか?」
「もちろんです。何になさいますか?」
「したら……。モヒートを」
モヒート。私はそのミントの香りが大好きだった。特にここのモヒートはお気に入り。バーテンダーの腕がいいのだろうけど、ライムとレモンの配合が絶妙なのだ。私も旦那もバーテンダーの手の動きを見るのが好きで、それを見るためだけに何回もこのバーを訪れた。結婚してからはすっかり足が遠のいたけど、今でも結婚記念日は毎年訪れている。
「ウチでもモヒート作るんですよ。でもここみたいにはできないんですよね。何かコツみたいなのあるんですか?」
「そうですね……。技術もありますが、まずは材料と分量を守るのが大切だと思います。ドライラムは何をお使いですか?」
「よく使うのは、バカルディですね。スペリオール。あれが1番使いやすくて」
私の家にはいつも様々な酒があった。酒乱とまではいかないけど、私も旦那も無類の酒好きなのだ。私は洋酒が好きで、ジョニーウォーカーレッドラベルとバカルディスペリオールは切らしたためしがない。ちなみに旦那は日本酒や芋焼酎に目がない。
「スペリオールは扱いやすくていいラムですね。私もよく使っております。ちなみに当店でモヒートに使うラムはハバナクラブ7年ですね。もしよろしければお試し下さい」
ハバナクラブ……。たしかキューバ産のダークラムだ。
「そうか……。ありがとう。試してみますね」
山下さんの話はいつもためになる。聞けばある程度はレシピも教えてくれるし、彼の理路整然とした話し方にも好感が持てた。
「お待たせいたしました」
「あ、どうも」
この匂いだ。レモンとライム、そして鼻腔を貫くミントの香り。私はモヒートを一口飲むとその香りを堪能した。やはりここのモヒートは最高だ。
私がモヒートを飲んでいるとバーのドアが開く音が聞こえた。そして聞き慣れた足音も聞こえる。
「お待たせ。元気やった?」
「ああ、元気やし無事やで。ヒロも無事でよかったわ」
舞洲ヒロ。私のもっとも古い友達。彼女はウールのセーターにスキニージーンズ、黒のコンバースというラフな服装をしていた。よく言えばラフ、悪く言えば地味。そんな格好。
「マスターおひさしぶりです。したら、オレンジジュースください!」
「あんたはいつもそれやね。電車で来たらよかったのに……」
「まだ鎌倉の電車、本調子やないねん。それにR32ひさびさに首都高走らせたかったからな」
R32GTーR。ヒロの愛車だ。もう既にヴィンテージカーと言っても良いかもしれないくらいポンコツな車。
「そうか……。まぁええけど。にしても繁樹遅いな」
「しゃーないやん。羽島くんいつだって遅いやろ? 今始まったことやないて」
本当に変わらない。私はそう思った。私もヒロも繁樹も何も変わっていない気がする。それぞれ、慌ただしい日常を送ってはいるけど、会えば昔と何一つ変わってはいないのだ。繁樹が来るまでの間、私とヒロは近況の報告をしあった。
「ほんまに揺れでビビったで! マンションから滑り台して、体育館には寝泊まりする羽目になった。逢夜も旦那も無事でよかったけど、もう勘弁してほしい」
「せやな。私もバイトしてる最中やったから食器の片付けが大変やった……。ま、津波も大したことなかったからよかったけどな。東北は大変やね。宮城の友達に聞いたら家流されたらしいしな」
「それは……。難儀やな」
あまり実感が湧かないけど、東北地方の人たちはどれほど辛い思いをしたのだろうか? 福島の海沿いの住民にいたっては、もう2度と戻れないかもしれない。宮城だって岩手だって被害は甚大だし、これからのことを考えたら不安だと思う。被害状況だけ見れば、戦後最大の自然災害なのは間違いないだろう。
「ほんまにな……。落ち着いたらお見舞いいこうとは思うけどしばらくは難しいやろな」
ヒロは眉間に皺を寄せながらオレンジジュースを飲み干した。表情にださないけど、ヒロだって昔のことを思い出しているだろう。
繁樹がやってきたのは約束の時間を少し過ぎた頃だった。どうやら遅刻癖は未だに直らないようだ。