リバースアイデンティティー1
2011年3月11日。私は経験したことのある厄災に見舞われた。
その日。私は自宅のマンションで仕事をしていた。夫は北海道に出張していたし、娘の逢夜は小学校からまだ帰ってはいない。まぁ、これはいつものことなので慣れっこだったけど。
私は音楽活動で生計を立てていた。俗に言うバンドというやつだ。幸か不幸か、私の仕事は繁忙期と閑散期で仕事量が極端に変わる。ちなみに今はそのちょうど中間期。
「さて……。やるか」
私はバンドメンバーから預かった楽譜をリビングのテーブルに広げた。それにしても読みづらい楽譜だと思う。繁樹の書いた楽譜はいつもこうだ。
私たちのバンドは3人組だった。俗に言うスリーピースバンド。私がヴォーカル兼ベース、ギターは幼なじみの繁樹、ドラムも同じく幼なじみのヒロ。気が付けば彼らとも長い付き合いになる。
2人とは子供の頃からの付き合いだ。特にヒロとは物心つく頃から一緒だった。彼女は空想が好きで「雲に乗りたい」とか「大きな猫に会いたい」とか急に言い出す子供だった。私も子供だったから一緒になって巨大猫を探しいった。見つかったのは太り過ぎな三毛猫だけだけど。
繁樹と仲良くなったのは小学校に上がってからだ。彼は目立ちたがりのお調子者だった。小学生の男子特有のやつだけど、彼はあっという間にクラスで人気者になった。恥ずかしい話、私も目立ちたがりだったので彼とはよく張り合っていた気がする。
私をバンドの世界に引き釣りこんだのは繁樹だ。彼の父親はバッグバンドでギターを担当していた。その影響で繁樹もギターを始めたらしい。はじめ、繁樹が私をバンドに誘った。そして私がヒロを誘った。
繁樹は演奏も作曲も上手かったけど、アナログ人間でパソコンでの作業ができなかった。極端な話、SNSさえろくに扱えない。だから未だに繁樹は固定電話だし、楽譜さえ完全に手書きだ。その後始末を私がしているわけだけど。ま、仕方がない。このやり方にもすっかり慣れたし、問題はないだろう。
繁樹の楽譜の解読は私のライフワーク。最近はそう思うようにしている。そう思わないとやっていられない。
自前のMacBookに楽譜を打ち込んでいく。アナログからデジタルへの変換作業だ。イメージとしてはイラストレーターがラフ画を元に線画を起こす作業に近いかもしれない。
それでも、私は繁樹の書く曲が好きだった。バンドで楽譜を書くのは彼だけだったから、他のバンドのことは分からないけど、私は彼以上の作曲家を知らない。
私たちのバンドは明確に役割分担していた。作曲担当が繁樹、作詞担当がヒロだ。私はというと、それを修正したりまとめたりする。手前味噌だけど、理想的な関係だと思う。
午後2時半過ぎ。私は大きく背伸びをして、コーヒーメーカーに手を伸ばした。カップに注ぐとコーヒーの香ばしい香りが部屋いっぱいに広がる。私はコーヒーにミルクと砂糖を入れて休憩した。
それにしても穏やかな午後だ。まだ肌寒いけれど、日差しもだいぶ柔らかくなったと思う。私はコーヒーカップを片手にベランダを覗き込んだ。ベランダには旦那が小まめに手入れしているアロエのプランターが置かれている。幸せな午後だ。何事なく平穏な時間。
しかし……。ソレは突然、私の平穏を打ち破った。
午後2時46分。大きな地響きが鳴り響いた。ゴォォォォォという轟音と共に私の部屋を大きく揺らす。私は赤ん坊のように這いつくばって、テーブルの下に潜り込むので精一杯だった。テーブルの下でうずくまっているとベランダのプランターが倒れたのが見えた。アロエは残念なくらいベランダを転がり回っている。
私がうずくまっている間、いろいろなものが床に落ちていった。コーヒーカップ、コーヒーメーカー、繁樹の手書き楽譜。幸いなことにシーリングライトとMacBookは落ちてこない。
激しい揺れは1分近く続いた。いや、これは私の体感なので、実際は30秒もなかったかもしれない。私はおそるおそる机から顔を覗かせた。部屋はひどい有様だ。リビングはコーヒーがぶちまけられ、繁樹が一生懸命書いたであろう楽譜は茶色く染まっている。
まさか生涯で2度もこんな厄災に見舞われるとは思ってもみなかった。散らかりきった部屋で私はそんなことを思った。
このままではいけない。逢夜を迎えに行かなければ。私はどうにか身を起こすと、ケイタイで娘の学校に電話を掛けた。