ガンコ爺い、エロ爺い
男が長生きしようと思うなら、ガンコ爺いかエロ爺いになれ。
いつ、どこで、誰が言ったかも定かではないがそう言われた記憶がある。言われたのではなく、何かに書かれたのを読んだのかも知れない。我ながらいい加減だ。
しかし、確かに頷いてしまう主張ではある。漫画などに出てくる元気な爺さんはどちらかと見て間違いない。内訳は9割ほどエロ爺いだが、これはエロ爺いの方が動かしやすいからだろう。主人公の他にヒロインのお尻を堂々と触れるのはエロ爺いだけだ。
自分の意見をしっかり持って決して揺るがないガンコ爺い。それゆえに自分と意見の合う時は頼もしいが、合わない時は憎たらしい。不器用だが、それだけに自分の生き様に自信を持っている。これまで生きてきた生き方をこれからも続ける。胸を張ってその生き方を楽しんでいる爺い。
だが、このガンコ爺いという生き物。実に抽象的である。頭の中で姿を思い浮かべてても、なにやら難しい顔で腕を組み、周囲の意見を拒絶する姿しか思い浮かばない。「ガンコ」の中身のイメージが具体的に湧かないのだ。
でも、これは当たり前のことで、ガンコのこだわりとは、いわば本人が自らに定めて生きるルールのようなものだ。格好いい言い方をすれば「騎士が己の剣に立てた誓い」である。人が違えばガンコも違うのだ。
そしてガンコの中身は自分が決めたことだから人のせいに出来ない。ガンコ爺いはいつも己と向かい合っている。ガンコを諦めることは自分を諦めること。だからこそ、ガンコ爺いは近寄りがたく、付き合いにくい反面、どこか気高く、美しい。そして寂しい。
だが、何がガンコかで爺いのイメージはガラッと変わる。例えば「カレーの人参は絶対に☆の形でなければ駄目だ」なんて言っていると、ただのわがまま爺さんかお茶目爺さんになってしまう。
兎角爺いは生きにくい。自分の通す筋をハッキリさせた上でガンコしないと、人の言う事する事に反対して自分をアピールするだけの偏屈爺いになってしまう。
爺いはつらいよ。しかし爺いはこう言うだろう。
「生きにくいからこそ生き甲斐があるんだ。楽な生き方を選ぶな!」
しかし、老後ぐらいは楽に生きたい。
ガンコ爺いが己と向かい合っているのに対し、エロ爺いが向き合う相手は女性という他人である。
エロ爺いは他人とのつながりをエッチという形で表現することで生きている。常に他人(女性限定)に目を向けている。常に誰か、自分にとって気持ちのいい人とつながっていたい欲望。だからこそ、誰にも気づかれずこっそりなんて方法はとらない。誰かに見られている状態で女の子のお尻に触り、相手に罵倒されるところまで楽しんでいる。
いや、むしろそれが目的なのかもしれない。誰かにかまってもらいたくて、そのために無視できないエロという手段をとる。はた迷惑なかまってちゃん。
しかしやり過ぎるとただの犯罪者である。犯罪一歩手前のギリギリを見極め駆け抜ける。エロは度胸、爺いは愛嬌。本気で怒る女の子を前に、エロ爺いは涙で訴える。
「老い先短い年寄りの戯れぐらい見逃してくれぃ」
訴えながらその視線は相手の胸元や太ももへと向けられ、振り出しに戻る。
エロ爺いとは常に他人を見て、その心の内を推し量り、許されることと許されないことの境界線を探る。普段からエロをアピールするのも、その境界線を探る。幅を広げる準備行動なのではないか。
ああ、生きる策士。エロ爺い。
なんてこった。ガンコ爺いもエロ爺いも、その難易度は半端じゃない。
長生きするための生き方の何と難しいことか。難しいからこそ、それをものにしたときの充実感、輝きっぷりは他のどんな生き方にも勝る。
どちらにしろ、どう生きるかがハッキリしているから迷いがない。迷いがないからストレスもたまりにくい。長生きするかはともかく、自分が納得した生き方だから後悔はしないだろう。
生き方を変えるには、大きなパワーが必要だ。しかし爺いにはどれだけ威張っていてもそれだけのパワーがない。だからこそ爺い達は最後に自分に納得がいき、かつ楽な生き方を選ぶ。
己の信念を貫くと言えば聞こえは良いが、それしかできないガンコ爺い。
最も身近で最も気持ちが良い異性との接触を求め続けるエロ爺い。
どちらも周囲とのいざこざが絶えないだろう。しかし、どちらも周囲との衝突を前提とした生き方である。ガンコ爺いの頑固さは、意見の衝突がなければ表面化しないだろう。エロ爺いの言動も周囲がそれで困らなければただのスキンシップである。
ガンコ爺いもエロ爺いも、他人との衝突をある程度楽しむ心のゆとり、したたかさがなければただの嫌な爺いで終わる。60年、70年、80年……長い間多くの人達の中で揉まれながらも生き抜いてきた人だからこそ出来る生き方だ。戯れになってみようかでなれる生き物ではない。
子供はわがままになれてもガンコにはなれない。エロガキとエロ爺いは似て異なる生き物だ。
何十年という人生の積み重ねがあって初めて到達できる爺いの究極の姿。
それがガンコ爺いであり、エロ爺い。
どちらも男が選んだ最後の生き方、最後の花道なのだ。
実際にそれで長生きできるかはともかく、どちらかになれと言われたら。私は迷うことなくエロ爺いになりたい。
なぜかと問われたら「なんだかガンコ爺いより楽しそうだ」としか言えない。もらった年金握りしめ、ソープランドに一直線というイメージ。相手のソープ嬢は災難だろうが、水商売の宿命と思って開き直ってもらおう。
ただし、素人には手を出さない。通りすがりの女子高生に「お嬢ちゃん、お小遣いあげるからパンツ見せて」なんての愚の骨頂である。こんなのはエロ爺いではない、ただの変態だ。エロとは下品の皮を被った紳士の遊びなのだ。エロをたしなむ時こそ良識が必要なのだ。
遊ぶのはあくまで店内。店の外では遊ばない。女遊びに金を使うのはともかく、金をむしり取られないよう気をつけなければならないからだ。年金生活に入る頃、むしり取られるだけの財産があればいいが。
以前、私が介護施設で働いていた頃に、度々入居者を訪ねている女の人がいた。入居者の一人と仲が良く、来る度一緒に外出していたので私はてっきり孫かひ孫だと思っていたのだが、実は愛人だった。外出の度に高価な物を買わせるため、家族とのトラブルが絶えなかった。
エロ爺いをするもされるも、金が必要だ。これはガンコ爺いとの決定的な違いである。
家で婆さんを相手にするにも、さすがに先っちょに干しぶどうをつけたしなびたヘチマでは元気が出ない。婆さんの方も「爺さんのそんな死にかけたミミズの頭みたいなもの、相手にしたくない」と言うだろうが。
しかし、婆さんとそんな会話をして過ごすのも、それなりに楽しいかも知れない。
ただ、こんな会話をするにはひとつ問題がある。私は結婚していないのだ。
70才を過ぎたら婚活を初めてみるか。こんな理由でされても相手は迷惑だろうが。
完全に男の願望なので、女性は引いてしまう内容かも知れませんが
「これだから男は……」
と苦笑いで済ませてください。
お願いします。