エピローグ
「近寄らないでくれるかな。セオ、僕に君のような趣味はないんだ」
俺が座ろうとした席から見て斜め左の席に座っていた男が笑って言いやがる。
「そうか、そうだったのか……。アルター、お前は遂に若い女に欲情しなくなったか」
「何故そうなる」
「昨夜花園のオーレリーに楽しませてもらったからだが? お前、俺のような趣味はないんだろう?」
「……彼女は二番人気だったか」
アルターが苦々しく吐き捨てる。
ウズザルの大群と戦ったのは、もう先々月のことだ。ヨルクに乞われるがまま街に繰り出すことが増えたし、どこかで噂が囁かれていることだろう。
それを持ち出して楽しい雑談に興じるつもりだったのだろうが、甘い。甘すぎる。アルターの情報収集能力を欺くために、本当に花園と通称される娼館で、二番人気のオーレリーと楽しんできたのだ。
そして、何より。
「団長」
俺の反撃を予測せず、軽い気持ちのまま雑談を振ってしまったことが最大の過ち。
「花園とは、なんのことでしょう? オーレリーさんとはどなたで、二番人気とは、どういうことでしょう?」
この場には副団長で結婚秒読みと噂されているシルヴァもいるのだ。
「……花園とは、まぁ、人気のある娼館だな」
「何故、知っているのです?」
「流石に、店くらいは把握しておく」
「オーレリーさんは二番人気なんでしたね」
「あぁ。それがどうかしたか? 傭兵が好む場所のことなら――」
「オーレリーさんが二番人気になったのは、一昨日のことですよ?」
「……あ」
「随分と迅速な情報収集ですね」
若手筆頭の傭兵団長、撃沈。良い気味だ。ただシルヴァの包囲網は怖すぎる。
「それと、セオさん」
シルヴァの冷えた声が飛んできた。何故だ。どこに飛び火する要素が――
「おめでとうございます。こんなことを言うのは失礼かもしれませんが、そう遠くないことだと思ってはおりました」
違った。勘違いだ。……というか、シルヴァの声が冷めているのはいつものことじゃないか。
「あぁ、これで晴れて仲間入りだ」
円卓。
それは単なる円形テーブルの意味を離れ、国家規模の議会を意味するようになってきている。政治や宗教を弾き出した、軍人と騎士と傭兵のための議会。
隣人との戦争、外交について戦いの観点でのみ話し合うことがあれば、協会などとも連携して格付けを話し合うこともある。
今日は俺が主役の一人だった。
以前別件で立ち寄ったことがある円卓だが、俺の席が用意されたのは今日が初めて。Aマイナス以下には議会に出席する権限がないためだ。
「シルヴァ、世辞を贈っている暇はないと思うが? いずれ追い付かれるぞ」
「団長。……いえ、先輩。あなたに他者の心配をしている暇があるとお思いで?」
「あ、そうだ。アルター、ミミ・エイメちゃんがお前によろしくと言っていた」
「セオ、君はどれだけ誤解を招け――」
「セオさん、わたくしたちは急用ができました。皆様に伝えておいていただけますか?」
「イエス。シルヴァ副団長」
席につきながらシルヴァに微笑んでおく。彼女は本当にアルターを連れて円卓を後にしてしまった。おぉ、やりすぎた。これは後で感謝状という名の短剣が送られてくるはずだ。どうせ一晩経てば仲直りするんだからいいと思うんだが、なんでこう毎回毎回引っ掛かるのか。
暇で、二人の背を見送ってしまう。
見上げるほどの高さの扉が押し開けられ、アルターとシルヴァが出ていく。入れ替わりで入ってくる人影が見えた。
黒い影。まずい。
「セオ様、花園と呼ばれる店の二番人気のオーレリー殿を探して暗殺すればよろしいのでしょうか?」
「ノー」
「はて、私は聞き間違えたのでしょうか? 『ノー』と聞こえたのですが、『イエス』の間違いですよね?」
「ノー」
「やはり、聞き間違えでしたね」
ヨルクが微笑する。
「どうでしょう? 楽しめたでしょうか?」
「……肝が冷えた」
「ということは、少しは私に未練と後ろめたさを抱いてくださったと驕っても?」
「好きにしてくれ」
冗談だというのは分かっているが、あの凶悪な返しを持つ六振りの剣を腰に下げたまま迫真の演技をされては、俺の方が驕っているのではないかと焦ってしまう。
「……ですが、その」
「なんだよ」
「私も、セオ様のことを好いているのですよ? いえ、失礼。愛しているのですよ?」
「だからなんだよ」
「私だって、まだなのです。女性といえど、私以外と、その、夜をともになされるのは、心が痛みます」
「昨日は護衛の仕事でオーレリーと会って、その暇な仕事を彼女の職人的な手品で楽しい仕事に変えてもらっただけなんだが?」
ぱっと花のような笑みを咲かせ、ヨルクが駆け寄ってくる。あぁ、これは本当に短剣が送られてくるな。それも血がついたままの短剣だ。
「それで、何か用があったのか?」
議会が開かれるのは三十分後だ。俺は何故か三十分前に来るように言われていたが。
……待てよ、待て。なんでアルターとシルヴァが三十分前にいたんだ。そして、なんで俺の部下とはいえ部外者のヨルクが武装したままの入室を許可されたのか。
「そうか、君もか」
思わず笑みがこぼれた。
「イエス。Aマイナスへの昇格が決まったとのことで、招かれました」
自分がAに昇格し、部下で右腕のヨルクがAマイナスか。最高の日だ。その最高の日を雑談で祝福してくれようとしやがったアルターには、俺も良いことをした。後日起きるはずの短剣送りつけ事件など今は忘れよう。
「今夜は祝おう」
「……っ。はいっ!!」
「誤解すんな誤解だ誤解」
そして、三十分前に呼ばれたのは、議長やそれに並ぶ方々の厚意か。俺と部下に時間をくれたらしい。
……三十分は長すぎるが。
俺はどう繋げばいいんだ。ヨルクと二人で話すこと自体に抵抗はないが、家の外では遠慮したい。こいつは距離が近すぎる。
俺が二年かけた道のりをヨルクは二ヶ月で駆け抜けた。
それを俺の手柄だと驕るほど幸せな頭はしていない。ただ、素直に祝福して自分の昇格より喜べるくらいには幸せな頭をしていた。
また世間からすれば、十代のAマイナスというのは十数年ぶりだ。Aマイナス以上の昇格が決定した時だけ行われる臨時の格付け更新により、ヨルクのことは世に知られるようになる。
街には喧騒があった。
しかし、部屋は静かだ。コーヒーの香りが漂い、とても落ち着いている。
ヨルクは本当にコーヒーを淹れるのが上手で、俺が自分で淹れることはなくなった。料理は、まだ俺の方が上手い。というか、美味しいです美味しいですと口いっぱいに頬張りながら言われたら、いっそ上達してしまうほどだ。
「……セオ様」
すぐ横に座るヨルクがコーヒーカップを置いた。俺は短剣と一緒に送られてきた論文の写しから目を上げ、そちらを見る。すぐそこにヨルクの瞳があった。
「あの……」
言い淀んでいる。まぁ、仕方ないか。
「そろそろ様付けをやめたらどうだ?」
一旦話題を逸らす。見切り発車するな、息を整えろ、ばか。
「嫌、ですか?」
「そういうわけではないが、ヨルク自身は距離を感じないのか?」
「……あぅ」
何故ここでも言い淀む。
「あの、私は、ですね。尊敬もそうなのですが……、情愛も込めて、セオ様と呼んでいるのです……よ?」
「いつからだよ」
「……夢に見た時から、です」
ため息が漏れた。はあぁ、と特大の。
「気付いてやれなくて悪かった。貴族出だからかと」
論文を投げ置く。コーヒーカップは、論文をめくるために置いたままだった。
元から空だった右手でヨルクの頭を撫で、引き寄せる。空になった左手は、まぁ、なんとなく、肩から背、腰に。
筋肉がありつつも白く細い腕が、背中に回された。小さな手の平が肩と背を強く、しかし優しく掴む。
言葉を吐く気には、ならなかった。まぁ、いいか、と妙に落ち着いている自分がいる。
「……っ」
声を紡げず、沈黙だけが間を繋いだ。
いつまで続くんだろうな、いつまで続ける気なんだろうな。
そう思っているうちに、あぁ、違う、と自覚できた。
いつまで続いてくれるんだろうか、と思ってしまっていたらしい。不安に気付き、息が続かなくなった。離れ、吐息が絡む。
そして、また、息は零れなくなった。