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五話

「私には婚約者がいました」

 大浴場と呼べるものではないにせよ、湯船には大人が四、五人入れるだろう。

 泡を立てたタオルで身体を洗いながら、俺はヨルクの声に耳を傾けた。あいつは、今、湯に浸かっている。一瞥すれば、男の細い身体に張り付くバスタオルが認められた。喉仏よりよほど男らしさを見せるそれが目に入ったので、反射的に視線を前に戻す。

「当時、私は十二でしたが、彼女は二十一でした」

「貴族同士の政略結婚か。時代錯誤な」

「落ちぶれた家同士で見栄を張り合い傷を舐め合うのは、よくあることです」

 俺の苦言には然もない調子で答えが返された。意地は曲げないが慰めてもらいたい、か。なまじ歴史があるせいで屈折しているのかもしれない。

「彼女は私を子供だとして好いてはいないようでしたが、それでも彼女は、……勿論、私も、爵位を持つ家に産まれた身です。そういうこともある、と納得して、まぁ歳が離れすぎている嫌な人が相手ではなかった、くらいの共通認識はありました」

 そりゃまぁ、俺も倍離れている中年どころか老年の女が相手か、歳が半分でしかない初等学校上がりの子供が相手かの二者択一であれば、悩むことなく後者を選ぶ。一つの布団で寝るのは何年か先送りにするとして。

 ちなみに、ヨルクは十九だという。俺との歳の差は十二。過去形の婚約者より離れている。

「私たちは、二度目に会った日、一つの寝室を用意されました」

 初日ではなかったのはせめてもの良心か、それとも親や家同士の都合か。

「彼女は服を脱いで、今の私からタオルを取った姿になりました。要は、裸ですね」

 ヨルクは、そこで言葉を切った。不審に思って横の湯船に目をやり、自嘲を見つける。俺と目が合っていささか頬を赤らめたヨルクが視線を下ろした。

「私は、()ちませんでした」

 俺は、()せた。

「もう少し言い方を考えてくれ」

「しっ、失礼しました。興奮、そう、興奮できませんでした、です!」

 二十一の女に興奮せず、なんで三十一の男に興奮する。それが男色家という生き物なのか。とはいえ、まぁ、俺も半裸の美女と酒を飲むだけ飲んで帰った経験はあるが。

「それで自覚したのか?」

 必死にタオルを抱き締めているヨルクに先を促す。

「イエス、イエスです。はい」

「一度落ち着け」

 イエスとかノーとか、なんなんだ、それは。

「私は……えぇ、私は」

 無理やり落ち着かせるような調子で、言葉が再開された。

「その時は取り乱してしまいまして。女性に、それも子供相手に承服してくださった方に、魅力がないと言ったも同然でしたから」

 すぐに当時のことを思い出したのか、声音には本物の落ち着きが戻っていた。もっと違うところを、具体的には、そう、心ではなく足の付け根辺りを落ち着かせてほしい、というのは、無理な相談なんだろうか。

「少しは冷静になった翌朝、ようやく、私は気付きました。それまで十二年生きていて、一度も女性を性の対象として見ることがなかった、と」

 反論したくなったが、黙る。俺が十二の頃は尻どころか胸にも興味はなく、顔が好みかどうか、性格が合うかどうかでしか考えていなかっただろう。

 ただ、だからといってヨルクも同じとは限らない。アルター曰く長男らしいし、幼少期から最低限の教育があったのかもしれない。

「ですが、私は、特に男性にも魅力は感じませんでした。……いえ、男性の方が魅力を感じませんでした。女性を綺麗だとか可愛いだとか思うことはあっても、男性を綺麗だとか格好いいだとか思うことは、ありませんでした」

 ヨルクは、美醜とは別ですが、と添える。身体を洗い終え、俺は桶を手に取った。蛇口からお湯を出し、頭から被る。

「私が傭兵になったのは、彼女との縁談が破約されてすぐのことです。両親は他家に無礼を働いた私を許しませんでした。家を継ぐのは必然的に弟の役目になって、邪魔者どころか疫病神扱いの私は、装備を買うためのお金だけ無心して家を出ました」

 待て。

 ヨルクは自分が十九だと言っていた。これは風呂の順番決めの最中にフリーダたちの前で確認したことだから偽りではないだろう。

 縁談が十二の時なら、傭兵になったのは七年前。ウドゥリルの民と戦ったのは五年前だぞ。

「装備だけは、一丁前でしたから」

 俺の表情から思考を読んだのだろう。視線を逸らすためにお湯を被ったはずが、無意識にヨルクを見据えてしまっていた。

「えぇ、二年です。二年間、様々な男性や女性を見て、誰にも性的な感情は持ちませんでした。恋情も抱きませんでした。誰のためでもなく、ただ意地を張るためだけに、不釣り合いな装備で戦いました。仲間も、いました」

 そして、盗人どもの愚行によって、戦争が始まったわけか。

「あの時のセオ様を、私は、一生忘れることはないでしょう。夢に見て、一人――」

「それ以上は言うな」

「イエス。承知しました」

 纏わりつく泡を湯で流し去る。血の臭いは俺の身体にこびりついているのか、頭が忘れようとしないのか、消え去ってはくれなかった。

「セオ様とともに生きたい、と真剣に考えました。何もかも非現実的だと自分でも笑えましたが、他に、術を知りませんでした」

 八年前の戦争で女を抱けなくなった男は少なからずいると聞く。俺も娼館に行って、女を抱かず、酒だけ飲んで帰ったことがあった。女の半裸を見ても酒を飲めた俺などはマシな方で、中には女が服を脱ぐ姿を見ただけで吐いた者がいるという。娼館から逃げるように帰った翌日、その店の女主人に説教されてから聞いた話だ。

 そうした男たちは、自信をなくす。(オス)としてではない。傭兵も騎士も軍人も等しく、戦士としての弱さを突き付けられたと感じるらしい。

 娼婦の目を見て、涙さえ流さなくなった女の(うろ)のような目を思い出す。

 男を誘うための甘い声を聞いて、抵抗する悲痛な叫びと、死んでしまった心が零す無感情の声を思い出す。

 それが戦士としての弱さだ。少なくとも、彼らはそう思うらしい。

 女を抱けないから弱いのではない。一つの現実を他の現実たちに重ね、混同してしまうから弱いのだ。

 ヨルクも同じだろう。

 十一の子供がアザル・ルーの引き起こした惨劇を知っていたとは思えないが、自分が継ぐべき家の将来と、自分とともに人生を歩くと決意してくれた女を踏みにじったのだ。

「術を知らない、か」

 イエス、そうでした、とヨルクが頷く。

 術とは、生きるための力だ。戦士としての、あるいは人間としての自分を信じられなくなり、術を見失う。どうすれば力を、――自信と誇りを持って歩けるのか分からない。

 女など関係なく、俺も感じたことだ。俺は竜に仲間を殺され、背中を焼かれて逃げ帰った。背中には今も火傷の痕が残っている。

 俺は消えかけた怒りに薪をくべて、一瞬も絶やすことなく、今まで生きてきた。それが俺の持ちうる術で、力だ。矜持に生きるウドゥリルに言えば鼻で笑われてしまうだろう。

「ですが、あなたが道を見せてくださった。私に術を与えてくださいました。あなたの背を思えば、私は戦えました。あなたの横に立つ日が来るのだと信じれば、自分は戦えるのだと信じることができたのです」

 ヨルクは立ち上がっていた。

 顔が赤いのは長く湯船に浸かっていたせいか、それとも俺を真正面から見据えているせいか。

 俺は彼に近付く。そちらが湯船なのだ。仕方ない。

「私を、……セオ様、あなたの横に置いてはいただけませんか」

 男はどこうとしない。俺だけを見据えていた。右手が、タオルを押さえたままに左胸に添えられている。

「くどい」

 手を伸ばし、頭を掴む。小さな頭だ。半裸で俺の酒に付き合ってくれた娼婦と、どちらが小さいか。同じくらいだろうか。背は彼女の方がいくらか低かったはずだ。筋肉はヨルクの方がある。湯を吸ったタオルでは、筋力がありつつも華奢な身体を隠せない。

「俺は待っていると言った。必ず来いと言った。貴様は、それでもまだ問うのか」

 言い直させたのが間違いだった。

 俺は、今、興奮している。性的にではない。傭兵として、俺の背だけを見て突き進んできた男を見て、この先も見たいと切望している。

 ヨルクの瞳が揺らいだ。

 何を迷うのか。

 笑いかけて、思い出した。一足飛びはいけない。俺は、子供をやめてからは戦いだけに生きてきたんだった。恋愛などろくに経験もない。

 戦士であれば、目標を前にして心を揺らすことなど有り得ない。

 だが、男であれば。男でなく女でも、恋慕を寄せる相手の前で、感情が揺れ動かないなど、あるのだろうか。

「イエス。問います。私は」

 定まった。

 ヨルクの目が、俺の目を射抜くように見据えている。

「戦場で、日常で、私を横に置いてはくださいませんか」

「ノー」

 即答する。相手の言葉を使って、切り捨てる。

「ヨルク」

 名を呼んで、涙を堪える瞳を見つめた。

「君はまだ未熟だ。戦場で俺の横に立ち続ければ、遠からず死ぬだろう」

 Aマイナスと、Bプラス。あと一つの差ではあるが、AとBでは次元が違う。

 今思えば、俺より更に二つも上のAプラスは、伊達にSに次ぐ位ではないということか。

「一週間は待てる。相談してきたまえ。今後の傭兵としての身の振り方を」

「フリーダたちとは、既に」

「聞いたさ。だが、そうではない。俺と君だけでは、俺は君を育て上げられない」

 俺の戦いは孤独だった。他者に乞われ肩を並べることは多々あったが、常に誰かと並んで戦うと想定したものではない。

「承知しました。……ですが、その、セオ様」

 待ってくれよ。

 言いたくなったが、俺は疲れた。早く湯船に浸かりたい。早く飯を食いたい。寝ずのウズザル討伐があったことを忘れているんじゃないだろうな、こいつは。

「あなたは、私を組み敷い――」

「横じゃなく下がよくなったのか?」

「イエス」

「即答だな」

「五年も、夢に見ていたことですので」

「変態」

 頭から手を離そうとし、思い直す。湯に濡れた頭を撫でてやる。ヨルクは驚いたように目を瞠り、それから耳まで朱に染めた。下を見たら俺は前言撤回したくなるので、男の顔だけを見る。

「では、ヨルク。ここからが君の頑張りどころだ。純潔を大いに使いたまえ」

「イエス。必ずや」

 男の魅力はなんだろう。

 戦いの技量か? 気配りか? 後輩や部下たちに見せる背中か? それとも、夜の腕か?

 分からない。俺には、分からない。女にモテたくて傭兵になる男がいるというが、実際にモテるんだろうか。モテるなら、傭兵を構築する要素の中に、男としての魅力が含まれるのだろう。

 後で論文を漁ろうか。

 そんな暇はなくなるのかもしれないし、存外、ヨルクはコーヒーを淹れるのが上手くて作業効率に貢献してくれるかもしれない。

 ただ、まぁ、一つだけ新しいことを知った。

 男の魅力には、可愛らしさとか、女っぽさというのが、あるのかもしれない。

 頭を撫でられ顔を真っ赤にするヨルクは、憎たらしいことに、とても魅力的だ。

 そんな魅力の中に、戦場での姿を重ねてみる。

 筋肉質な獣肉さえ無残に刻む黒剣を持ち、俺の剣を血に濡らさないと確約してみせる不遜さ。それを実現させるだけの実力があって、しかし、己の役割も承知している。

 立派な戦士だ。それも男としての魅力だろう。

 男らしさと、女っぽさ。相反する二つの魅力が、濡れて透けたタオルの奥にあると思えば。

 俺はヨルクの頭から手を離し、迷わせた。

 彼はどこか期待してくる目で見てきていたから――。

 その熱情の視線に触れたら、俺は、自分の視線がまだ冷めていることを知った。

「あの……、まだ、ですか?」

 気付けば、ヨルクがどこか不満げな、けれど、どこか嬉しげな瞳で俺を見ていた。身長と距離を考えれば、必然、上目遣いにもなる。

 まずいな、とは思う。

 ただ、なんというべきか。

 その火照った頬や肩、胸や腰に触れれば、俺の冷たさがヨルクを冷ましてしまうより先に、ヨルクの熱が俺を焦がしてしまうのではないかと、そんなことを同時に思ってしまった。

「まだだ、まだ」

 男の微笑が妖艶に見えてしまう。嫌悪感を抱こうとしても、不愉快とすら思えない。

「イエス。承知しました」

 目を細め、ヨルクは言う。

「ですが、セオ様。あなたは盾で、私は剣です。お分かりでしょう?」

 あぁ、そうだ。俺は今、攻め立てられている。棘のような返しが刃を簡単に抜かせてはくれないように、俺の心中に残り香を置いていくヨルクの魅力。それは否定しない。

「君は剣か。なるほど。……だが、本当に?」

 笑って、肩を叩く。

「……ノー、です。決まっているじゃ、ないですか」

 すれ違う時、ヨルクの手が俺の手首を掴んだ。名残惜しむように幾度か指に力が込められ、離される。

「でも、イエス、とも言えます。私が剣を捨てるのは、セオ様に身を委ねる時だけですから」

「イエス。承知した」

 煮え切らなければ押し倒す、というわけだ。押し倒した後では、ただ攻められるのを待つだけなのに。

「しかし、ノー、とも言える。今の君に、俺を押し倒すだけの力があるかい?」

「イエス。腕力だけが力ではないのです」

「腕力ではない力、か」

 楽しみだと、思えてしまった。

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