三話
鎧の壁の向こうに、粗雑な鉄で身を包んだ鼠狼の大群が見えてくる。
上空から見下ろせれば、その数の差に圧倒されるのだろうか。ウズザルは軍人に騎士に傭兵の数十倍にもなるはずだ。
最前線で鎧と盾を頼りに敵を抑え込むのが俺の仕事。そのため、装備の重量はかなりのものになる。
大人二人か三人分の重量を運んでくれた馬に感謝の念を送ってから、戦場に駆けた。
最後尾で弓や銃を構える後衛の一部が俺に気付く。
「どけッ!」
人間に向かって叫ぶ。既に気付いていた後衛が左右に分かれ、その先にいた者たちも避けてくれた。前衛は後ろを振り返る余裕などないが、状況の変化には気付いているだろう。
「セオ・ブエンディアが来た! ここは俺が受け持つッ!」
名乗りを上げるのも常套手段。B以下ならお笑い種だが、Aに連なる者であれば十分な意味を持つ。遂に前衛が左右に分かれ、目の前から敵が消えたことに警戒心を見せていたウズザルが前方に見えた。
「貴様らの敵は、俺だ――ッ!!」
盾を掲げ、闘気を放つ。
獣の相手は楽だ。叫んで注意を引き、力を見せつけてやれば本能が理解してくれる。
『あいつを自由にさせたらいけない。好きに動かせたら食い破られる』
その本能が理性に勝れば、俺の策は成功。そして、獣にはろくな理性などない。
二つに分かれた戦線の真ん中にウズザルが殺到する。俺だ。俺を見ていればいい。
獣の腕が持つ粗雑な棍棒が、長剣が、片刃斧が、俺の盾を叩く。
後ろに回り込もうとするウズザルは他の前衛が退け、突出した俺の盾の領域に敵を集中させた。右手の剣を振るって迂闊に近付いてきた奴らを蹴散らしながら、左手の盾で受け止めていく。
その受け止めたウズザルの群れを、大斧が一掃した。エミールだ。
気付いた直後、右手に黒い颶風が突き抜けた。夜闇に紛れる細身の長剣がウズザルの額から頭蓋を穿ち、貫通。反対側に抜け出た切っ先が側頭部に走り、脳漿の尾を引く刃が姿を見せる。
異様な剣だった。
元から細い刀身は先にいくほど更に細くなっている。先細りの両刃には無数の棘のような返しがついていた。突き刺されば容易には抜けない。それを考慮してか、男は左手にも同じ剣を握っていた。
両腰には合わせて八本の鞘。うち二本は空で、残る六本のうち四本には彼が握るのと同じ黒の柄が見えた。あとは二振りの白い長剣。あれは返しがない普通の剣だと推測できる。
「私に任せてくださいませんか。あなたの剣がこれ以上血に濡れることはないと確約します」
男は軽鎧を着込んでいるはずだが、黒の表面に光沢はなかった。兜は被らず、首から背には一本に結ばれた長い髪が垂れている。
既視感。だが、何かが決定的に違う。そのせいで思い出せない。
「断る」
思考は捨て置き、言い放つ。
「敵は、数だけは膨大だ。貴様の背は預かろう。前に出て、蹂躙してこい」
「イエス。承知しました」
男は清らかな声を残し、闇に紛れて消えた。闇の向こうで獣が断末魔の叫びを上げる。
すぐ脇に迫っていたウズザルに長剣を向け、周りを見た。俺の長剣から逃げたウズザルを盾が捉える。盾の持ち主は女。女の右手から現れた男が、湾曲した剣でウズザルに噛み付く。僅かに手間取ったが、男は無傷でウズザルを屠った。
「知り合いか?」
右手で次の敵を見定めていた女に声を投げる。目はウズザルの大群を見据えたまま、盾は大群を捌き、剣は一つずつ命を散らし。
「リーダーです」
「なるほど。……だが、あれは最低でもBに見える。対して、そこの剣士はCだろう」
プラスやマイナスと小刻みに格付けされるようになるのは、Bプラスから。BマイナスやCプラスという格付けは存在しない。
「はい。彼だけは特別です。彼だけは、先日、Bプラスに」
「事情があるというわけか」
「五年前の戦争で、その時の仲間を失ったのです。私たちはなんとか逃げ延び、引っ張ってきてもらいました」
思い出した。ウドゥリルに殺されかけていた男だ。俺は五年前から変わらず重鎧に盾と剣だが、彼は全く別の装備になっている。だから気付けなかった。
「セオ殿とお話しできたこと、光栄に――」
「そのうち休憩を挟む。また話すことになるだろう」
「……彼に興味が?」
「ある。あの剣は知らぬままにしておきたくはない」
嘘は言わなかった。
俺より遅れていた中規模の傭兵団が到着し、先に戦っていた者が後ろに下がる。
休憩だ。
俺はまだ戦えたが、ウズザルの群れは終わりが見えない。それに傭兵団が鍛え上げられた隊列を組むなら、それだけで十分だ。
「なぁ、どう思うよ、この流れ」
エミールが補給係から受け取った水と軽食を俺に投げてきた。
「まだ分からない。だが、国の判断には俺も同意だ。名門は出さない方がいい」
名門騎士団。国家のもとで軍とは別の戦闘集団として構築されている騎士団の中でも、上位六つに数えられる由緒ある組織。俺が本拠地とする都市には二つの名門が本部を置いているが、隣街だからと駆り出すべきではない。
「都市に隣人の襲撃があると?」
「分からない、と言ったはずだ。だが、可能性は十分にある。矜持のウドゥリルはそんなことしないだろうが、アザル・ルーの悪夢を繰り返させるわけにはいかない」
八年前に地獄絵図の戦争があり、惨劇から立ち直った矢先にまた戦争が引き起こされた。
ウドゥリルは争いの中で『下劣なるヒト』の子供を攫うことはあっても、望まぬ女を襲ったり、争いの外で他種族の子供を攫ったりはしない。ゆえに、死者の数ではアザル・ルーとの戦争を上回ったが、立ち直るまでに長い時間は要さなかった。
その戦争が五年前。
そもそも隣人との大規模衝突は十年に一度もない。十五年から二十年に一度ぶつかるのが常で、八年前と五年前の戦争は極めて特殊な事例だった。
とはいえ、だからこの先十年何も起きない、と油断するのは許されることではない。
「ウズザル程度なら、多少被害は増えても、名門抜きで十分に対処できる。アルターどもが到着すれば終幕は確実だ」
傭兵団や騎士団が猛威を振るう理由は、組織力だ。俺やエミールのような一匹狼、はぐれ傭兵が即席の部隊を組むのと、日頃から訓練された集団戦のプロたる団の傭兵や騎士とでは比較にならない。
組織力が個々の力を引き上げ、十人で十五人や二十人分の働きを見せる。
特に戦略家のアルターと戦術家のシルヴァが率いる傭兵団は若手筆頭。あと二十年もすれば名門に並べるだろうし、結婚式までに部下を育て上げれば名門入りを見てからあの世に行けるかもしれない。
「今年の稲や麦は大半が盗まれ食われるだろうが、それで済むなら妥協もできる。都市にアザル・ルーが攻め込むなど悪夢の再来で、レイ・ジ・ドグが攻め入ったら先祖様への生贄だとかで稲や麦の代わりに民間人が連れていかれる」
吐き捨てると、エミールが降参するかのように手を挙げてみせる。
「なんだ?」
軽く苛立ったので突っかかる。
「いいや、合理的だな、と」
「昔からだ」
「八年が昔になるか。若いな」
俺がこうなったのは仲間の死が原因だ。それは否定しないし、できない。
怒りに身を任せながらも死に損ないを見捨てて同胞の前に立ち、必要であれば自分でも同胞でも囮にして貪欲に勝ちを望む。
同様に騎士団や傭兵団からの誘いを蹴りながらも、危機を前に協力を要請されれば、その度に顔を貸すのが俺だ。
『世俗忌む盾騎士』
名門のうちの一つが俺に付けたあだ名だ。軍だろうと騎士団だろうと乞われれば手を貸すことから、傭兵なのに国の狗だと同族扱いされている。蔑称ではなく尊称と勘違いされることもあって一層腹立たしい。
「お前は出てきてよかったのか?」
エミールが笑う。Aマイナスなりに都市防衛に回り、名門騎士団や軍の狗にならなくてよかったのかと、半ば嘲笑、半ば助言してくれているのだ。今の立場があれば、ウズザルとの争いに参戦せずとも文句は言われない。
俺は無視を答えとする。相手はため息をつき、肩をすくめた。
「賭けるか」
ろくに間も置かず、何食わぬ顔で言いやがった。
「ウズザルを一掃して終わる方に金貨二枚」
「おい待てふざけんじゃねえぞ。そんなの賭けになるか」
「ならお前はどっちにどれだけ賭けるつもりだったんだ?」
「ウズザルを一掃して終わる方に銀貨二枚」
この隙に隣人が都市を襲う危険性はある。なんなら奴らが裏でウズザルを操っている可能性さえ、否定はできない。
だが、何が有力な可能性かといえば、隣人の静観だ。彼らも隣人と呼ばれるだけあって、人間を滅ぼしたがっているわけではない。自分たちの生活の上で時折人間と衝突するだけだ。だがアザル・ルーはいつか滅ぼす。
「いっそ同じ方に賭けてもいいが? 予想が当たったら相手の掛け金を総取りできる方式で」
賭け金の上限は総資産、というのが傭兵流だ。金貨一枚しか持っていない奴が金持ちから奪ってやろうと金貨十枚、二十枚も吹っ掛けることは許されない。
「お前の一人勝ちじゃねえかよ」
「冗談にしても、もっと面白いことを言ってくれ」
エミールは分かった上で言ってきたのだろう。もしくは、俺が戦場の危機意識を賭け事にまで持ち込むと踏んだか。どちらにせよ下手だ。
「そういえば、お前」
しかし、続く言葉で、俺は考えが足りていなかったと反省することになる。
「戦ってる途中でフリーダと話してなかったか?」
誰だ、それは、と即答しそうになって、足りなかった思考を回す。思い当たる節はあった。
「あの盾の女か」
「あぁ、そうだ」
そっちこそ知り合いだったのか、とは、言う必要もないだろう。エミールの言葉を待ちながら、軽食の携帯用サンドイッチを頬張っておく。
「お、噂をすれば、だ」
エミールが俺の斜め後ろに視線を向けた。
また話すことになると言ったくせに探そうとしなかったのは、下手に歩き回るとエミール以外の奴にも捕まるからだ。騎士に捕まったら特に悲惨で、『こんな時だからこそ改めて言うが』という前置きから、こんな時にそんな長話するなよ、と言いたくなるほど婉曲な勧誘を受けることになる。
「フリーダというらしいな」
振り返り、俺は盾を背負う女に手を掲げてみせた。
「あっ、いえ、はいっ」
どっちなんだ。
まぁまだまだ経験が浅い若人に辛辣な態度を取る趣味もない。
「未熟だが、なかなかの腕だった」
世辞ではなく素直に褒めながら、フリーダの仲間たちに目を走らせる。
剣鉈に似た長剣を腰に下げる強気な表情の男、両手で大切そうに一世代前の銃を握る眼鏡の男、弓矢を背に担いで手には救急箱か何かを持つ女。
そして、一人だけ違う空気をまとう黒剣の男。
「紹介してもらえるかな」
一人を除き、彼女らはC程度だろう。俺から話を切り出さなければ、口を真一文字に結んだままだ。エミールに任せるのでは威厳もない。
「え、えと、彼は――」
「私は最後で結構」
黒剣の男がフリーダに言う。言葉は硬く、目は俺を見据えたままだったが、そう冷たいわけでもなかった。フリーダがどこか緊張の度合いを下げたように、他の三人を手で示した。
「剣士のランディ、銃士のエド、シウフは弓を持っていますが、救護役です」
簡潔な紹介だ。傭兵を辞めても事務職で食っていけるとは思う。無論、口にはしないが。
「ヨルク・ヨークです。セオ様」
フリーダの沈黙から一拍置き、黒剣の男が頭を下げてきた。形式に則った完璧な一礼。
「ヨーク……。なるほど、だからあれだけの装備を」
「落ちぶれた男爵家をご存知でしたか。……いえ、光栄であります」
「堅苦しい。と言うのは、まぁ無粋か」
貴族は昔ながらの権限をほとんど失っているものの、発言力だけは健在だ。ヨーク家は男爵位を授かる古くの名家だが、ここ数十年は歴史に名を残すこともない没落貴族だったはず。
それでも、爵位を持ち続ける限りは立派な貴族である。
「五年前、私はあなたに救われました」
ヨルクは片膝をついていた。さながら帝に仕える貴族のそれだ。まぁ帝など数百年前に滅ぼされ、実物を見たことがあるのは竜くらいのものだろうが。
「あの場で他者を救ったなどと驕る気はないが、貴様だけではない。ウドゥリルとの戦争では名も知らぬ者たちのために戦い、守ろうとし、それでも救えなかった命は多い。貴様を救ったのは俺ではなく、貴様自身の幸運だ」
握った拳を地面に突き立て、ヨルクは恭しい姿勢のまま見上げてくる。
「あなたに救われたのです。あなたは、私を救ってくださいました」
やけに語気が強い。
押し問答だろうか、と思ったところで、すぐそこに立つエミールを思い出した。これは話が食い違っているらしい。
「命を、ではないな」
笑えた。
「はい」
確かに『横に行くから待っていてくれ』みたいなことは、言われた。俺は『待っているから必ず来い』とか、そんな言葉を返した気がする。意味が違いすぎるだろ。
「五年越しの誤解が解けたわけか」
「イエス。言葉が足りず、申し訳ありません」
そしてヨルクは承知していた。ついでに、没落したとはいえ、どうして男爵家の男が傭兵になっていたのかにも思い至る。
若く未熟なくせに装備だけ整っていたのは貴族ゆえの財力だ。
しかし、あの若さと未熟さで隣人との争いに参戦しなければいけなかったのは、貴族ゆえのしがらみか。
「しかし、話は後にしよう。五年待ったのだから、一晩は待てるな?」
五年だ。
歳は十も離れているだろうか。三十を過ぎた俺に対し、ヨルクは二十前後に見える。変声期を過ぎても清らかな声には少年の残り香も感じられた。
彼は五年を研鑽に費やしたのだろう。先日Bプラスに昇格したと、フリーダは言っていた。俺はもう何年もAマイナスだが、あと一つか二つ大仕事をこなせばシルヴァに並ぶAの格付けを得られるかもしれない。急がなければ、縮まった差が、また広がる。
焦るわけだ。一日だって惜しいだろう。一晩ですら、長すぎるはずだ。
「イエス」
ヨルクは片膝をついたまま、頭を下げる。
「まずは鼠狼どもを掃除する。飯はまた明日、どこかで」
水分も十分に取った。そろそろ傭兵団が抑えきれなくなった群れが大隊から師団規模にはなるだろう。
「あぁ、そうだ」
俺の肩までの背丈に、前衛としては華奢な肉体。
立ち上がったヨルクを見下ろし、大切なことを思い出す。
「Bプラスの実力、見せてもらおうか」
「イエス。私の主」
「まだ主人になったつもりはない」
「私どもの国に宗教はありません。偶像としてのあなたを主と仰ごうと、問題はないのでは?」
頑なだ。何故、こういう奴らは、こうも頑ななのか。
「大口を叩くからには、この戦い、俺に楽をさせてくれるんだろうな?」
「ノー。私は、剣であります」
剣が振るわれるまで盾が抑えていろ、と言いたいわけだ。いい加減苛立つ。苛立ったから、他の傭兵たちを置いて走り出していた。
重鎧をまとう俺の横に、柔らかな質感を持つ黒の軽鎧をまとったヨルクが並ぶ。置き去りにもできるのだろうが、剣が盾より前に出るのは、敵を斬る瞬間だけだ。
「仲間はいいのか」
「彼女たちは承知しています。承知した上で、付き合ってきてくれました」
五年も費やしたのか。
戦い方が全く別物になっているのは、盾の必要はないと信じきっているからだろう。
俺が何を救ったというのか。
幸運で命を救おうとも、――いいや、これ以上は無駄だ。他人の恋情に土足で踏み入るほど野暮にはなりたくない。
盾を突き出し、二足歩行の鼠狼を受け止める。がら空きになった俺の背を狙おうとしたウズザルが黒の剣に貫かれた。ヨルクは突き刺さった剣を手放し、腰の黒剣に手を伸ばす。
居合が放たれ、無数の返しが獣毛の奥の獣肉をえぐった。粗すぎるノコギリのような刃に斬られ、ウズザルが絶叫。仲間の絶叫で周りが怯み、守りの必要性が薄れた。
俺も剣を振るい、獣どもを斬り捨てる。
まずは邪魔な俺から、と群がったところをヨルクが背後から襲っていった。
なるほど、どう動けばいいかまで、勝手に研究してきたというわけか。