一話
この男を揶揄し忌避する噂を聞くようになったのは一年ほど前だろうか。
何を今更、と当時は思っていたが、それから一年も過ぎた今頃になって、もう何年も前から囁かれていた噂なのだと知った。
俺が信用に足ると思った情報源によると『五年前には』とのことだったので、実際には七、八年前だろう。俺は噂に限らず、周回単位で世間の動きに置いていかれていた。
勿論、どこそこでキャラバンが襲われた、隣国の情勢が悪化して傭兵需要が高まるだろう、何年か前の論文で打ち出された理論が遂に実用ベースに乗ったらしい、等など、そんな情報は入ってくる。というより、金を払ってでも最新のものを仕入れる。
しかし、他人の噂などどうでもいい。騎士や傭兵の中でもAプラスやSに分類される達人の鍛錬の噂であれば興味もあるが、五十手前のおっさんの色恋話など誰が興味を持つか。そんなことを聞いている暇があったら炎竜の鱗の相場を一時間ごとに把握しておきたい。
けれども、そう他人事を気取っているわけにはいかない場合は、悲しいかな存在する。
「ようやく終わった」
五年経っても未だ中年の男が苦い顔で言ってくる。
「案外待たせなかったな、エミール」
俺はわざと名前を呼んでやった。相手が苦虫を噛み潰したような顔になる。
「くそ。効率を考えろ、効率を。俺とお前が半分ずつ受け持ったら、そりゃお前が先に終わるだろうさ」
俺の年齢を一・五倍しても、この男にはあと一歩届かない。
「効率? そうだな、報酬を山分けにしなくていいなら、別に構わんが?」
「くそっ、黙れ、くそ。あぁそうだよ、山分けとか言い出したのは俺だよ。あぁ、くそが」
くそくそ言うなよくそ、と言ってやりはしない。面倒だった。今日はたまたま暇だったのだ。年がら年中戦い詰めの傭兵にも、休息日というのは必要不可欠。しかし家で寝て過ごそうとすると徹夜の論文漁りが始まって休息にならないため暇潰しの散歩に出かけたが、それこそが間違いだった。
家を出て早々にエミールに見つかったのだ。
『これから行こうと思ってたんだが。お前の家に。いや、つうか、誘いに。たまには一緒に行かねえか。ほら、一昨日からウズザルが異常に見つかってるって』
以下略。ちなみに、ウズザルとは鼠と狼を足して二で割った、前傾姿勢の二足歩行もできる獣の類いだ。背筋を伸ばせば一八〇センチ弱の俺とも並ぶだろうが、背骨を伸ばせば骨折して昇天するとの論文が発表されていた。ゆえに体高は子供並み。
ともあれ、獣の大量発生は遠からず民間人に影響が出るし、休息日といえど最低限の運動は必要。そんな理由からエミールの誘いを断るのは諦め、街の外まで出てきたのだ。
今年は、というか近年は躍起になって稼ぐ必要がなくなってきた俺とは違い、エミールは金を稼ぐためにウズザル討伐の依頼を請けてきたらしかった。俺としても数十の鼠狼のうち六割も七割も引き受ける気にはなれず、報酬は半々で、というエミールの提案に乗る形で受け持つ数も半々にして、今に至る。
「だが、まぁ、良い汗かいた」
五十手前の男が清々しい顔を見せていた。
「どっかで飯食っていかねえか」
続けられた言葉に、まぁいいかと頷く。
「どこでもいいぞ」
投げやりに言っておいた。どの道露店のサンドイッチか何かで済ませようとしていた昼飯だ。
いや、そういえば、朝飯を食べていなかった。量が多いところで、と付け加えようとして、無駄だと思い出す。エミールは俺のような重鎧こそ身に着けていないが、斧を使う前衛だ。前衛は大食らいも仕事のうち。
「エリスの酒場はどうだ?」
「はぁ?」
やや間を置いて投げかけられた提案に、半ば無意識で反応してしまった。
「遠慮してんのか?」
軽く苛立ちながら言う。エリスの酒場というのは俗称なのだが、それはともかくとして、料理が美味い。安くて美味くて、量も少なくはないと評判。酒の評判も上々だ。
しかし、昼飯を食うような店ではない。なんせ酒場だ。一番の売りは安さだった。何より、いくら飯が美味いとはいえ酒場の設備や経費は大半が酒に割かれる。飯が目的ならもっと良い店があるだろう。
「お前には、俺が、自分から誘っておいて奢らせるタカリに見えるのか?」
エミールが呆れるように言ってくる。
あぁ、なるほど、とようやく得心した。エミールは傭兵の格付けでBとされている。対して、俺はAマイナス。傭兵は実力主義の世界だ。Aマイナスの下はBプラスで、その下がB。
せめてエミールがBプラスであれば歳の差を考慮して対等でもよかったのだが、二つも離れていては年上だからと割り勘にする思考が抜け落ちる。エミールの奢りなど論外だ。
「今日は俺が奢る。……いや、奢らせてくれ」
だから、呆れ返ってしまう。
エミールは傭兵や人間としては俺の先輩に当たるが、それだけだ。二人とも傭兵団には所属していないため、格付けとは別の階級で上下関係が決まっているわけではない。
俺が仲間を失う少し前からの付き合いだから、もう八年になるか。八年という年月に俺の性格を加えて妥協できるかどうか、だ。俺ではなく、ウドゥリル顔負けの矜持を持つ傭兵相手にやっていたら、言葉ではなく剣で非礼を償うことになっていたかもしれない。
「話を切り出すタイミングがなくて、だな」
「いいや、いい。前置きは捨てろ」
ぞんざいな声で言い捨てる。俺が苛立っている原因は傭兵の慣例を無視する振る舞いではないだろう。単純に、あまり好きじゃないのだ、俺は。こうしてグダグダと煮え切らない前口上を並べられることが。
「俺はお前に――、傭兵としてのお前ではなく、男としてのお前に話がある」
面と向かって言われ、俺は頷いた。
「だが酒場はなしだ」
「……あぁ、言ってから俺も思った。協会帰るまでに考えとくわ」
協会とは、まぁ傭兵に仕事を紹介する代わりに仲介料を取り、ついでに有事の際の戦力として扱う半国営団体だ。半、というのは国境を跨いで営業しているからである。この国では『冒険者協会』と呼ばれるが、他国では『ギルド』などとも呼ばれていた。
「ま、美味い店を期待しておく」
いつからだろう、と思わないこともない。
時には戦いを指南してもらっていたはずのエミールに実力と実績で並び、気付けば格付けで追いつき、追い抜いていた。
堅苦しい敬語が崩れていき最後にはタメ口になり、いつの間にか立場が逆転しかけている。しかけているだけで、エミールが俺に敬語を使うことはないだろう。この中年男が俺に頭を下げ、当然のように気を遣って奢られてですます調で会話をすることはないと断言できる。
だが、いつからだろう。
俺は、いつから、人の気持ちを度外視するようになったのだろう。
人の不幸や悲劇を見て憤ることはしても、後輩に追い抜かれ、その後輩から奢ることが当然だと考えられているエミールの気持ちを慮ることはなかった。
頭を振って、思考を切り替える。
今は別のことを考えよう。
差し当たっては、エミールが躊躇した話とやらだ。
小さくはないが、決して大きくもない店だった。
テラスの六人席を二人で陣取り、テーブルいっぱいに料理を並べさせる。
好きに食え、と言われたので、一切の遠慮なく腕を伸ばしてエミールのすぐ目の前にある料理を自分の皿に持ってきた。
ただ、それはエミールも同じだ。後から運ばれてきた料理がどんどん外側に追いやられた結果が今の配置であり、どちらが何を注文したかは、あまり関係ない。
前衛の食の好みなど、言ってしまえば巨大な円だ。好みに個人差があれど、その範囲が広すぎて大体が被る。三人集まって三つの円がそれぞれ別の場所に置かれようと、六から八割は被るだろう。エミールが食いたいと思った料理の七割前後は俺も興味があるわけで、割り勘でないなら配置に気を遣う必要もない。
「さて」
と、俺がエミールを見据えたのは、テーブルの料理が八割がた片付いた頃だった。昼飯時は外したが、それでも店員は忙しかったのだろう。空になった皿を下げる余力はないようで、俺たち二人しかいないテラス席に近寄ってくる気配はなかった。
俺の意図をエミールも察する。というか、俺以上に機会を窺っていたのだろう。今だ、というタイミングで話を振られ、僥倖とばかりに手拭きで口元を拭った。
「お前は、その……」
若干言い淀んだが、すぐに続く。
「俺の噂を、聞いたことはあるだろうか?」
「流石にな」
「……まぁ、だろうな」
即答すれば、相手は諦めたように肩をすくめた。
「なら、言葉にしなくても察してるんだろうが…………」
今度はしばし黙り込む。俺の視線を正面から受け止める勇気はないらしく、チラチラと店内を見やっていた。まだ店員が来る様子はない。
「あぁっと、だな……」
まだか。
声には出さないように気を付けたが、すぐに眉が吊り上がっていると自覚できた。エミールが深いため息をつく。
「俺と一緒になってくれないか。……分かっているとは思うが、傭兵としてではなく」
去年から俺の耳にも届くようになったエミールの噂。
それは男色だった。
彼は、女ではなく、男を愛する。恋情は勿論、性的な意味も込めて。
「嫌だね」
迷う要素は一つもない。ただ拒絶の程度を勘違いさせないための間だけを置いて、吐き捨てた。
「それは……それは、俺が男だからか?」
「関係ない」
「なら、どうして?」
「好みじゃないからに決まっているだろう? お前はアレか? 七十の婆さんに付き合ってくれと言われて、はい喜んで、なんて頷くのか?」
馬鹿馬鹿しい、と言外に告げておく。手を伸ばし、比較的エミールの近くにあった鶏肉を皿ごと手元に寄せた。突き出た骨を掴み、狐色の肉に噛み付く。
咀嚼し、また噛みつき、骨を捨て、二つ目、三つ目と鶏肉を貪る間、エミールは黙りこくっていた。
「お皿、下げてもよろしいですか?」
店員が小休止を作る。
さて、傭兵とは難儀な職業である、と俺の思考は空回りし始めた。
男女の性能差が人間の個人差を下回り、男だろうと女だろうと向き不向きで傭兵にも事務職にもなれる時代。そんな今の時代にあっても、傭兵という職業に就く者は男の方が多かった。
はっきりした理由は、まだ分かっていない。
古代から続く『前に出て戦うのは男の仕事』とかいう慣例を引きずっているのか、単純に血と汗と土に汚れる荒くれの仕事を女が嫌うのか、それとも男が武功を上げて女に媚びようとしているのか。
どれも推測するしかないが、男の方が多い、という事実は揺るがない。そして男の大半は女を好む。男色家は白い目で見られるどころか、あっち行けと後ろ指をさされ避けられるのが常だ。
その揶揄と忌避を向けられながら、エミールはここ数年を過ごしてきたのだろう。同情はしないが、馬鹿馬鹿しいとは思う。
「……なぁ、セオ」
店員が下がると、改まった調子で会話が再開される。
「お前は風呂で俺と会っても逃げない、っつうか、むしろ平然と会話もしてくれたはずだが、どうしてだ?」
無論、それは俺の家の風呂とか、エミールが住んでいる借家の風呂ではない。風呂屋だ。傭兵が多い街では風呂屋や娼館が何軒も並ぶことだって珍しくない。温泉が湧き出るところなら大枚を叩いて誘致せずとも傭兵が集まるほどだ。
「お前は男だよな?」
あれはいつだったか、と風呂でエミールと鉢合わせた時のことを思い出しながら問いで返す。
「あぁ、だが――」
「質問にだけ答えて、あとは聞け」
急くな、と言っても、まぁ無理なんだろうな。俺だってガキの頃は同級生の女子に告白するだけで視野が狭くなったし、成人間近になっても女に言い寄る時は気が急いた。
「お前は男で、俺も男だ。で、風呂は男女で分かれてる。俺とお前が風呂で鉢合わせることに、どこかおかしな点はあるか?」
男色家の噂が流れているなら個室の店を使えよ、とは思うものの、これも口にはしないでおく。世の中の男どもに聞いてみろ。国の法律と店の規則が許すなら女湯に入りたいかどうかを。
「お前って奴は……」
エミールが手拭きを目元に持っていく。やめろよ汚い、と今度は言おうとしたのだが、遅かった。
「用件は終わりか?」
最後に残った肉団子と葉野菜のスープを飲み干してから問うと、エミールは少し困ったふうにぎこちなく笑ってみせる。
まだ何かあるのか。
追加の料理を注文しようと店内に目を向け、店員の若い女と目が合った。お盆には山盛りの氷。シロップがかけられていた。
周囲を見回すが、テラス席には俺たち以外の客がいない。
「あの、セオ・ブエンディアさん……、ですよね?」
女が言う。
「あぁ、そうだが?」
「店長が、ええと、『またお待ちしております』と」
つまりはサービスというわけか。ご厚意なのか媚びなのか、それはともかく。
「なんだ、偉くなったな」
いつもの調子でエミールが言ってくる。
「Bとは違うんだよ、Bとは」
わざとらしく鼻で笑って返し、店員には礼を述べておく。もう少し並べておいた方が後で変な噂も立たないかと思ったが、相手はそそくさと帰ってしまった。まぁ、どうせ噂が流れても俺の耳に届くのは数年後だ。一方的な厚意から妙な噂が立つとも考えにくい。
「それで、本題は?」
エミール自身、俺に求愛して玉砕することなど承知していたはずだ。そして、俺が知っているこいつなら、承知した上で砕けなどすまい。暗黙の了解で同輩ごっこを続けるはずだ。
「お前を紹介してほしい……というか、俺に仲介役になってほしいと言ってきた男がいる」
「また男色か」
思わず本音が漏れた。
「で、それは誰だ? お前の昔の連れとか言わんだろうな?」
かき氷を突っつきながら、辟易と投げておく。
「あいつは純潔だ」
「知らねえよ。つか、男の純潔ってなんだ」
「あれは普通の男から見ても、なんつうか、『可愛い』と思うが?」
何故、そこで、一般認識としての『可愛い』を持ってきた。個人的認識として『可愛い』の概念が存在しないのか。俺に何を――。
これ以上続けると眼前の男と縁を切りたくなるなと悟り、思考を切り替える。ちょうどいい冗談が浮かんだ。
「お前の本拠地、坊主の武闘家を『可愛い』と表現する界隈じゃないだろうな」
言ってから気付く。割と冗談になっていない。
「いや、大丈夫だ、それは大丈夫だ」
エミールは胸を張ってみせるが、その胸は担保としてどれだけの価値があるというのか。まだ七十の老夫婦が持ってきた『可愛い娘との縁談』の方が信頼できるだろうに。
そこまで考えて思い出したが、そういえば、俺ももう三十を過ぎている。傭兵という職業柄、そして傭兵団に属さないという不安定さから、ここ十年は家庭を持つなど考えてもみなかった。
最後に誰かと布団に入ったのは……と遡っていくと、なんと先月だ。遠征先で予期せぬ規模の作戦に捕まり、五、六人で巨大布団を共有していた。女となれば仲間と別れた少し後まで遡る。
「どうだろうか」
俺の長い追憶を別の思考と勘違いしていたらしいエミールに急かされ、俺は笑っておく。
「好きにしろ」
「いいのか?」
身を固めるとか考えた直後に男色家との見合いに頷くのか、俺は。我ながら馬鹿げた趣味をしている。
「男だろうが女だろうが知るかよ。……それに、わざわざお前に仲介させたんだろ? 遠くから眺めて勝手に幻想見てる阿呆じゃあるまい」
嘘偽りのない言葉だ。
アザル・ルーとの戦争はまさに悪夢だった。あれで男色に逃げた傭兵がいるとさえ聞く。
俺たちは四人のうち二人が女だったから最前線には出なかったが、俺ともう一人の男と二人だけで戦うことはあった。それでも一週間は悪夢が続いたのだ。その後で起きた仲間の死という現実から逃げるためでなければ、克服できたかも分からない。
「いつだ?」
思い出したくない。笑い捨てて、益体もない思考を一緒に捨てた。
「いつなら空いている?」
「相手に合わせる。しばらくは雇われの仕事が入ってないんだ」
「なら、明後日。十九時に、ここで」
ここで、というのは、『このテラス席で』という意味ではなかった。人目を憚るように差し出された名刺サイズの紙はレストランの紹介状らしい。同性愛者限定の店というわけではないだろう。一見お断りではあるようだが。
「急な仕事が入るかもしれない。その時は、まぁ分かっているだろうが、キャンセルだ。どうしてもというなら探してくれ。時間があれば、店に連絡しておくが」
ひらひらと紙ごと手を振って、落ち着きを取り戻した店長や店員がいる店内に入る。そこでかき氷の礼をしながら、話を聞かれていないか探っておいた。
大丈夫だ。
特に男を好くというわけではないものの、他人の恋慕を軽蔑するほど根性を腐らせているわけでもない。
それに、胸中はすっきりしていた。
ようやく踏ん切りをつけてくれたかとエミールに呆れ、その後押しをしてくれた片思いの男に感謝しておく。
「明後日か」
随分と急いているんだな、その男は。