プロローグ
虚ろな目。鎧から臍、背骨を貫いて大地に突き立つ槍。
俺は女から目を逸らして再加速した。死因を確かめたら、もう死体に構っている余裕などない。
走り続けている足が悲鳴を上げたがるが、弱音なんぞ吐く余裕があるなら地面を蹴り、前に進ませる。人間の子供に匹敵する重量の鎧が演奏会か何かのような音を鳴らすも、この戦場で注意を引くほどのものではなかった。
叫び声が聞こえる。男のものだ。ただの男ではなく、戦場で短くない時を過ごしてきたであろう戦士の絶叫。
悲痛な女の声が聞こえて視線を走らせれば、まだ若い女の腕の中から三歳か四歳程度の子供が奪われるところだった。馬鹿だ。立っていたそれの頭に矢が突き刺さり、巨体が揺らぐ。風のように突き抜けてきた人影が巨体の腕から子供を奪い返した。
それも女だ。女が怒号とともに剣鉈を振るう。死にかけだった巨体から最後の抵抗まで奪って、彼女は剣鉈を腰の鞘に収めた。そして子供を抱いたまま振り返る。
「何故こんなところまで出てきたッ!」
怒髪天を衝く。あれは任せてしまっていい。緩みかけていた足に気合を入れ直し、俺は走った。
人の死体の他に転がっているのは、軍用犬や軍用狼の死体。また人とは違うが二つの足と二つの腕、一つの頭を持つ死体も間々見られる。
人型ではあるが、明らかに人ではない、それ。好戦的だが奴らなりの人道のようなものを持った『隣人』。だが、今は敵となっていた。
男でも女でも容赦なく殺し、男児は攫って獣同様の労働力とするつもりらしい。先ほどの個体は馬鹿なことをしたせいで殺されたが、この戦場には賢く子供を攫った集団もいることだろう。人間を性の対象とせず、また繁殖が不可能なだけマシだ。三年前の別の隣人との戦争など死体の代わりに汚れた服だけが散らかる地獄絵図だった。
悪夢の記憶を蘇らせ、沸騰した怒りに薪をくべてやる。
敵の第一波は抑え込んだ。第二波は混戦の末に押し返した。しかし第三波が虚を衝く形で押し寄せ、第二波に駆り出されていた精鋭や俺たちが戦場を縦断する羽目になったのだ。休んでいる暇などない。残存が襲ってくる程度だろうと予測されていた第三波の襲撃地には、俺なんかよりよほど未熟な者しか残されていなかったはずだ。
前方に、横たわる数人の男女。いや、見えた。女は一人、男が二人。片方の男は背中側に顔が向いていた。
溜め込んだ怒りを吐き出し、更に加速。
左腕に固定した盾で半身を覆いながら、突進を開始する。両刃の長柄斧を振り下ろそうとしていた巨体が俺に気付き、腕を引っ込めた。吠え、こちらを向く。
牛か馬にトカゲを掛け合わせて人間風味に仕上げたような肉体。首から上はより人間に近いが、それでもやはり人間とは別物だった。
ウドゥリルの民だ。人間に近い種であり、アザル・ルーなどと同じく隣人と呼ばれる種族群の一つだが、それほど仲が良いわけではない。矜持がなまじ立派なせいで、誤解から戦争をおっ始めることさえある。
今回もそうだ。
「ヒトの戦士、ナゼ、奪っタ」
ウドゥリルの斧使いの問いには答えず、盾から衝突。斧使いは鈍色に輝く斧の柄で受けていた。衝撃が死に、斧使いが得物を大きく引く。
「――ッ」
声など出す余裕はない。砕かんばかりに歯を食いしばり、盾を押し込む。ウドゥリルはそれでも斧の一撃に懸けようとした。
押し込んで押し込んで押し込んで、斧を遅らせる。
ウドゥリルが小細工を嫌った。身を左に、俺から見れば右に逸らして、盾で守りきれない右手側を襲おうとしてくる。
だから、馬鹿なんだ。矜持なんて捨てちまえ。
腰に伸ばしていた右手が長剣の柄を逆手に握り、引き抜いた。
密着しながら交差しかけていたせいで、長柄の斧では長剣を迎撃できない。強引に引き戻されたウドゥリルの浅黒く野太い左腕を肘の先で斬り落とし、柄から手を離す。空中で握り直し、順手で直剣を振り抜いた。
己の肉体を誇りとするウドゥリルの民は往々にして鎧など身にまとわない。奴らが誇る筋肉の鎧は、だが、鋼鉄や竜鱗に比べれば脆すぎた。
咄嗟に左肩に伸ばされていた右腕ごと、首から肩へと続く神経を断ち切る。骨に阻まれながら筋肉を引き千切って、唸り叫ぶウドゥリルに盾を押し付けた。抵抗するだけの判断力も残っていなかった相手は押されるままに転び、夕日を覆い隠している雲を見上げる。
「――」
絶叫など上げさせてはやらない。首に剣を突き立て、鍵と同じ要領でぐるりと回す。血飛沫が上がったが、そんなものを気にするほど青くはない。
「生きているか?」
ようやく、俺は息をつく。
俺が走ってきた時、斧使いはトドメを刺そうとしていた。振り返れば、顔が背中に向いた男の脇で、女が絶望の表情のまま固まっている。横たわっているから距離があるはずなのに、彼女の肌の冷たさは嫌というほど理解できた。
二つの死体から視線を移し、遠目に男だと思った生き残りを見やる。
近くで見ると判断に自信が持てない。兜の後ろから垂れた髪は結ばれていたのだろうが、血と汗と泥で乱れていた。
「あ、な……あなた、は…………」
男だ。水分を含んだ長髪が半ばまで隠している喉に突起が見えていた。しかし、声はまだ高い。まだ、と言いつつ、歳は推測しきれなかったが。
装備だけを見れば、三十手前であってもおかしくない。……というより、変声期の若造に揃えられる装備ではなかった。家一軒とはいかずとも、大人が一年寝転がって暮らせるほどだろう。
十代半ばから二十代前半といえば生まれの不幸や怠惰や挫折で傭兵崩れに落ちることも多いが、そうは見えなかった。だが、見れば見るほど若い。
「いや」
思考を切り捨てる。こいつが何歳で、どうしてこんな鎧を身にまとっているのかなど気にする必要はない。気にするべきは鎧の傷と得物。凹んだ傷が目立つことから、また脇に転がる男の死体の状態からして、斧使い以外に敵がいたと推測できる。
こいつ自身の得物は長剣に盾、俺と同じだ。剣は一回り、盾に至っては二、三回りも小さいが、その理由は考えるまでもない。筋力がないのだ。身を守るために鎧を優先したのだろう。腕一本で支えることになる盾や剣まで重くすることはできなかった。
「いいか、よく聞け、そして答えろ」
光を失いかけた生き残りの頭に手を伸ばす。兜を外して放り投げ、存外に小さかった頭を掴む。
「一人で戻れるか? ここで救援を待つか? 死ぬか?」
遠ざかっていた命の光が瞳の表層に浮かんでくる。いける。
「待て、ます……」
自己判断も十分。待っていようと他のウドゥリルがやってきて息があることに気付けばそれまでだが、そんなのは運だ。俺も戦力外一人のために未だ戦い続けている数十や数百の騎士に傭兵に民間人を捨て置くことはできない。寝転がったまま十字でも切っておけ。
「あなたは……、あなたは、どな…………」
男が切れ切れの息を吐く。問いの意図が分からなかったが、何故だか、ここで無視して去るのは不吉に思えた。俺が代わりに十字を切ってやる。
存在しない神に心中で祈り、無理やり覗き込んだ瞳に笑った。
「セオだ。セオ・ブエンディア。貴様はここに置いていく。待っていろ、必ず」
言い捨て、立ち上がろうとする。だが手を頭から離す前に、掴まれた。瀕死かどうかは分からないが、ろくに喋れもしない状況なのだ。振り切るのは容易い。それでも上げかけた腰を再び下ろす。
「待っていて、ください。必ず……、必ず、行きますから」
逆ではないか、とは、言わない。
「追いつき、ます。必ず……追いついて…………、あなたの、横に――」
「分かった。前言は撤回する。待っているから、必ず、来い。来るんだ。いいなッ!?」
俺にも青臭い頃はあった。
竜だろうと倒してやるんだと息巻き、仲間とつるんで傭兵をやっていた。戦場にいる戦士の大半は傭兵だ。騎士団や軍といった国の組織もあるが、ほとんどは賞金や報酬金、地位に名誉に女目当ての傭兵。
俺もそのうちの一人として戦っていた。ウドゥリルの民ほど屈強ではないが、代わりに大きな群れで行動する狡賢い隣人、アザル・ルーの民と戦って戦果を上げたと、よく自慢していたことを覚えている。
薄汚い酒場でテーブルを囲む仲間たちは、男一人、女二人。二対二でちょうど分かれていたからか、単に不器用な奴らの集まりだったからか、痴情に惑うこともなかった。自分たちで思っていたほど強くはなかったが、自分たちで思っていた以上に良い関係だったと、今になれば思う。
だが、俺たちは、簡単に引き裂かれた。
痴情でもない。権力でもない。金や夢なんてものでもない。
力だ。
三年前のアザル・ルーの民との間に起きた戦争と、それによって引き起こされた悪夢。その中でも俺たちは生き延び、ゆえに慢心した。
いける。もっと、いける。
そう傲慢に確信して、呆気なく散った。
竜、ドラゴン、あるいは神の権化。厳かなる世界の覇者と不意に遭遇してしまい、俺たちは逃げることさえできなかった。
慢心、プライド……。そんな下らないもののために足が迷い、三人は死んだ。勇敢と言う名の無謀で死んだ。盾を持って竜に密着していた俺だけが助かった。竜の炎の息吹が吹き荒れた時、俺の真横には伸ばされた首があったのだ。炎は俺の背と仲間を焼いた。
有害とすら思われなかったのだろう。羽虫を払うかのように息吹を吐き捨てると、竜は俺など眼中にないかのように鉄の鎧ごと人間だった肉を食らい始めた。
だから、俺は生きている。
青臭く傲慢だった俺は幸運で生き延び、今また戦場に立っていた。
気を失ったらしい青臭い男を見ても、俺には笑えない。こいつは五年前の俺かもしれなかった。歳だけで言えば、十年前かもしれない。
待っている。
五年歩いた先で、十年歩いた先で、この戦場から、この先の数多の戦場から生きて帰った貴様を、待っている。
それしか持ち合わせていなかった。希望を抱えながら死にゆくかもしれない男にかけられる言葉など、そう持ち合わせているはずもなかった。
「セオ? セオなのかっ!?」
立ち上がる俺の背に、聞き覚えのある声が飛んできた。
「どこだ、次はどこへ行けばいい?」
振り返りながら、笑ってみせる。未熟なれど、俺は剣だ。俺は盾だ。立っている限り、敵を斬って、同胞を守る。
「第三波は去った」
俺より一回り半は年上の男が、同種の笑みを返してきた。視界が暗くなる。いいや、寝ている暇はない。振り返らずに進んで後輩の躍進を待つのが俺の仕事だ。そのために、道を切り開いてやる。
「あれは陽動だった。南西から第四波。最大の軍団が強襲を仕掛けてきた」
予想できていても、頭をぶん殴ってくれる言葉。
くそったれ。
誰だ。ウドゥリルとの不可侵を破った馬鹿は。
何故だ。三日も荷運びをすれば稼げる金のために、どうしてウドゥリルが宝とする子供を殺した。金貨一枚にもならないガラクタだったんだ。殺さずに盗むだけなら、まだここまでの戦争にはならなかった。
いつもそうだ。三年前の地獄絵図も、アザル・ルーの若い群れが人間の娘にちょっかいを出したのが始まりだった。
「やれるか?」
中年の男が歯を見せて笑ってくる。
「やれなきゃ死んででも侵攻を遅らせる。それが俺の仕事だ」
「今からなら逃げても一年は遊んで暮らせる報酬が出るが?」
「逃げたら夜明けを待たずに首を刎ねる」
戦場では男も女も関係ない。アザル・ルーとの戦争では女を前に出すなと厳命されていたが、あれは異例中の異例だ。筋力と背丈に差があれど、結局は個人差で覆る。
だから、こんなことを言うのは間違っているのだろう。
でも、思わずにはいられなかった。
「女が腹を貫かれて死んだ。子供を奪われそうになった。奪われた者もいるだろう。それなのに男の俺が逃げて、遊んで暮らせると? ふざけるな。そんなクズは殺してやる」
怒りを原動力とする戦士は早死にする。冷静さを欠くからだ。火事場の馬鹿力とはいうが、一瞬の一二〇パーセントより、常日頃からの一〇〇パーセントが優る。
そんな俺を笑ったのかもしれない。冷静になれよ、と。相手は人間なんぞ豚ほどにも思ってないぞ、と。
中年男は熱量のない笑みを浮かべて言った。
「俺には分からん感情だ」
そういうお前こそ、俺には分からんよ。
答えはしなかった。
伝わっただろうが、それを確かめる術はない。相手はもう背を向けていたから。無駄話をしている暇などなかったが、戦場のストレスに狂わされるよりはいい。
いくら矜持の民だろうと、この戦いを古の聖戦になぞらえ、ここで死ぬことを至高の歓びなどとはしないはずだ。
先遣の第一波。最後通牒の第二波。陽動の第三波が過ぎたのだから、第四波は本隊にして最終戦力。
後ろに続く後輩たちに道を開けるために。
先に死んでいった仲間たちに報いるために。
俺は盾となろう、剣となろう。