70話
「……行った」
「……ほんと?」
「ああ。もう少しだけここで待ってから出るぞ」
「う、ん」
そう耳元で囁き、リュウの体は少し距離を取った。
「…………」
「…………」
(気まず……恥ずかし……どんな顔すれば)
ちらりとリュウを見ると、丁度同じようにこちらを見ていた。
「悪かったな」
「え?」
思いがけない言葉に目を丸くする。
「ベタべタ触って」
「いや、それは必要があったからだし……」
「理由あっても嫌なもんは嫌だろ」
「…………いやじゃないよ」
「あ?」
「リュウなら……恥ずかしかったけど、触られて嫌とかは全く……」
「っ、お前な……女がそんなこと軽々しく言うな!」
「え、ご、ごめん」
その剣幕にとりあえず謝る。リュウはそんな玲奈にデコピンを喰らわせた。
「あた」
「反省しろアホ」
五分ほど経って、完全に人の気配が消えたとリュウが言い、二人は再出発した。湖から離れ歩みを進める。逃げるに当たり、どこへ進むかは昼に二人で話し合った。
「一回この森に戻って来る?」
「いや、そのまま湖の向こうに行く」
「でも、あの二人も向こうに向かってくんだから、追いつかれちゃわない?」
「万一森に戻って探されたら足止め食らう。先に行って二人を探した方がいい」
「トキとナシュカに早く合流した方がいいのはそうだけど……ギドリーたちに追いつかれたら?」
「そん時は俺がぶちのめしてやるよ。お前の意思を汲んで、一回は回避してやってるだけだ。あんなんに時間潰すのはごめんだ」
「……分かった」
玲奈としては、散々アルガンにしてやられた経験があり、恐怖すら感じていたのだが、リュウがこう言うならと従うことにした。
歩き出して暫くは気まずかったが、段々とそれも消えていった。他愛もない会話が続く。
「眠……疲れた……」
「貧弱」
「なんでリュウはそんなピンピンしてるの」
「五日は余裕で休みなく動ける」
「魔力使わないでってこと?」
「ああ」
「マジで? どんな体力してんの」
「お前のほうが驚きだわ。どうしたらそんなすぐバテられんだよ」
「帰宅部なの。私だってそれは後悔してんのよ」
「あ? 何の話だ」
眠さ故、ろくに考えずに会話のキャッチボールが行われる。
「私、これといった趣味がなくてさあ……地味にコンプレックスっていうか、リュウは好きなこととかある?」
「……考えたことねえな」
「あ、無趣味仲間? ほんと気が合うねえ」
「一緒にすんな。こっちは余暇なんてない生活だったんだよ。お前みたいなのほほんと生きてきた奴と一緒にすんな」
「なによー、私だって悩み多き人生なんだから」
「大した悩みには見えねえな」
(く……知らない世界に飛ばされて逃亡生活してるって言えたら悩みの深さマウント取れたのに)
そもそも、トキにはバレている。リュウに言っても大した問題ない気もするが、何がどう転ぶかは分からない。
「そういうあんたはどんな悩みがあんのよ」
聞くと、リュウは口を少し開き、躊躇ってまた閉じた。
(……深刻な悩みなのかな)
「人に言ってみたら意外と楽になるかもよ」
「お前が解決してくれんの?」
「そんな大層なことは期待しないで」
「ハッ……まあ、お前くらいお気楽そうなやつになら言ってもいいかもな」
リュウが空を仰ぐので、玲奈も釣られて上を見た。まだ日の出までは随分かかりそうだった。
「お前さ、何のために生きてる?」
「え……?」
「俺には、分からない。こうやって外を歩くことが許されることなのかも。でも、外を見てこいって言われて……それで、ただそれに従ってる」
リュウは、遠くを見て、温度を乗せずに話した。玲奈にはリュウの意図するところが、よく分からなかった。ただ分かったのは、彼には何か事情があるのだというくらいだ。
「リュウは生きてることが辛いの?」
「……そうだな」
今のリュウは、生力を感じられなかった。今までの逞しいイメージとは逆だ。
(そうだ。水壁の試練で、無茶なことして)
玲奈が同じように無茶したあと、リュウは『死ぬ覚悟がないならするな』と警告した。それはつまり、リュウはそれがあったということ。
「……死のうと思ったことは?」
「そう思ったこともあった。今は考えてねえけど」
「水の壁で無茶した時は?」
「あれは行って確かめるのが最善策だった。死んだっていいとは思ってたけど、お前らに迷惑かけるし、自分から自棄になるつもりはねえよ」
「……そっか。私も、生きる理由って聞かれると分かんない。でも、普通に生活できることは、当たり前じゃないって最近知ったから……」
「……」
「だから、理由を聞かれたら、生きたいから生きてる……ってなるのかな」
「……そうか」
それきりリュウは黙り込んだ。様子を伺い、声をかけてみる。
「解決にはならなかったけど……少しは気楽になった?」
「なってない」
「あれ?」
「んな簡単なもんじゃねえわ」
「う」
「ま、でも……ありがとな」
凄く小さく呟くので、聞き間違いかと思った。横のリュウをぼけっと見つめる。
「前向け」
「わっ」
頭をぐりんと捻られて体がぐらついた。
(……素直じゃないなあ)
「なに笑ってんだよ」
「ううん、別に?」
逃げている最中だというのに、今夜の二人には穏やかな時間が流れていた。




