聖王家の手紙と無自覚な戯れ
その手紙を受け取ったとき、アルマリアはちょうど一人だった。しっかりと睡眠を取るため、使用人をすべて下がらせていたのだ。
目覚めて、水差しを求めて手を彷徨わせたとき、ひらりと白い封筒が舞い降りた。アルマリアはきょとんとした。寝起きだったので、頭もあまり働いておらず、長い時間ぼうっと眺めてしまった。
……えーっと、なぜ、手紙が?
ようやくその疑問に辿り着き、それと同時に意識は覚醒し、ごくりと生唾を呑んで身構える。そうだ、なぜ手紙が、ひとりでに現れるのだ。この部屋にはアルマリアしかいないはずなのに。というかどこから落ちてきたのだろう。不審だ。ものすごく不審だ。
(さ、触って大丈夫なのかしら……)
凝視しながら、そーっと指先を伸ばす。何か変なものがついていたらどうしよう。ちょい、ちょい、と指の腹で手紙の表面に触れるか触れないか、踏ん切りがつかずに躊躇っていると、ノックの音がした。応えるとエンナが花を持ってやってくる。アルマリアはぱちくりと瞬いた。
「まあ、お花……?」
「ええ、お見舞いにと、いただきまして。あの、何をしてらっしゃるんですか」
怪訝そうに聞かれて、ハッと手を引っ込める。気恥ずかしさが頬を染めた。そうか、誰かを呼べば良かったのだ。しかるべき対応をしてくれる者がいるかもしれない。
「さっき起きたときに、この手紙がいきなり落ちてきたのです。変なことを言っているかもしれないけれど、本当で……」
「——ああ、ええ、それは聖王家からの御文ですね。何もおかしなことはありませんよ。敢えていうならあのご家族が可笑しいですね」
「えっ」
聖王家——リュファーニア一族の?
苦笑混じりに言われ、アルマリアは手紙とエンナの顔を交互に見やった。
「ええと、つまり……触っても大丈夫、なのですね?」
「はい。不審だと思われましょうが、おそらく最も安全な手紙でございます」
ほっと息をついて、その白い手紙を持ち上げ、宛名を確かめる。リュファーニアとエビリスでは、似たような綴りでもときどき発音が違う場合がある。
「えっと……」
「アルマリア様、お花、飾っておきますね」
「あ、ありがとう」
花瓶にとりどりの花を挿し、エンナは機嫌良さそうに目を細めた。あわい紫の小さな花が鈴なりになったもの、やさしい赤紫の薔薇、何枚も薄い花弁が重なる白い花、青草。送り主は誰なのだろうか、ずいぶんと趣味が良い。礼も返さねば。まあ、手紙のことが済めば、エンナが教えてくれるだろうから、これは後回しだ。
「……コーネリア様、かしら」
リュファーニアにくる前に、一通り教えられた聖王家の家族構成を思い出す。それは、確か——
「第一王女、コーネリア殿下ですね。おそらくお茶会のお誘いですよ。そろそろくるとは思って折りましたが……コーネリア様で良かった、のでしょうかねえ」
どうにも複雑そうな侍女の発言に、アルマリアは首を傾げた。
「何か問題が?」
「問題というほどではないですが……むしろあの方々の中では、最もまっとうな方と言えるかもしれませんが」
「……が?」
「少し、ヴィルヘルム様と折り合いが悪いと申しますか、いえ、ヴィルヘルム様は、慕っておいでのようなのですけど……」
あの方のアレがお気に障るようで、というエンナの言に、ああ、と納得する。つまり、ご趣味が原因なのだろう。彼女の様子から察するに、どうやら城の者誰もに黙認されているわけではないようだ。
アルマリアは手紙の中身をあらため、ほぼエンナの言う通り茶会の誘いであることを確かめた。畏れ多くもコーネリア王女の直筆らしい、生真面目で高潔そうな文字が整然と並んでいる。
「……あ。お返事は、どうやって出せば良いのかしら」
そもそも同じ城内でなぜ手紙なのだろう。
「それは、書き終われば持っていってくださいますよ」
さらりと告げられ、彼女はますます不思議がった。持っていくと言ったって、知らせることも頼むこともなく?
「どうやって……」
「さあ、伝達官の方のお仕事なのだとは思われますが、私たち城のものにもよく分からないのですよ。そういうものなのだと、思っておいていただけたらよろしいかと」
「そ、そう」
変な国、とアルマリアは思った。
夕刻、様子を見にきたヴィルヘルムに誘いのことを知らせると、彼は面白そうに目尻を和ませた。
「おや、姉上がですか。てっきりユーリあたりが言い出すかと思いましたが、そうくるとは。姉上なら、きっと細やかにもてなしてくださいますから、安心してください。ただうちの家族は詮索好きなので、色々と鬱陶しいところもあると思います。面倒になったら適当に流してしまってくださいね」
随分と難しいことを言ってくれる。アルマリアは何と答えたものかと、微妙な顔になった。仮にも婚家、それもリュファーニア聖王家の高貴な方々を、そのようにぞんざいに扱ったりできるものではない。しかし妻の困惑を知らず、ぎし、と寝台を軋ませてアルマリアの横に腰掛け、ヴィルヘルムは残念なそうな表情を作った。
「それにしても、私には誘いがありませんでした。姉上はなぜ教えてくださらなかったのか……」
「……ええと」
それは、もしかして来てほしくないのでは。
というか、完全に招かれざる客のようなのに、行く気満々である。
ヴィルヘルムとコーネリア王女の仲には、意外と根深いものがあるのだろうか。単純に悪趣味な弟に辟易しているだけなのかと思っていたのだが。彼は姉のことをとても好いているように見えることだし。そのわりにはこの仕打ち、普通なら上流階級特有の複雑骨折した確執を感じざるをえないところだが、城ののどやかな雰囲気からして、いまいち想像がつかない。リュファーニアはわりあい、平和な国である。長く戦も起きていない。現王は優秀で穏健な方だと聞く。そのうえ、ゆるんだ国にありがちな、武官の怠慢もそれほど見られない。王が尊敬されているのだろう。常に魔物の気配に気を張っているエビリスとは、大違いだ。
——せっかく魔物のいない幸せな国に嫁いできたっていうのにねえ
(ちがう)
違うのだ。アルマリアは反駁する。私は、もう、これ以上あの国にいることは許されなかった。
——本当に?
冷静な頭が自問する。本当に、そう?
あなたは堪え切れなかっただけではないの、すべて投げ出して、逃げてきただけではないの——
「……っ?」
ふいにやわらかく頬をくすぐられ、アルマリアは肩を跳ね上げた。かあ、と頬が赤く染まる。こういう、他者との近しい触れ合いは、慣れていないのに。
情けない目で見上げれば、くすくすと優しい笑い声が降ってくる。
「どうしましたか、ぼんやりして。お茶会が不安ですか?」
「あ……ええと、それは……」
「大丈夫ですよ。あの方は、基本的にお優しい方ですから。おそらく、我が家でいちばん、気のつく質ですし、特に庇護すべき相手のことはたっぷり甘やかしてくれるんですよ」
ふわ、ふわ、と。その指は絶妙な動きでアルマリアの肌を這い、耳たぶ、うなじ、首のすじ、そして顎、と羽根のように撫でていく。えもいわれぬ感覚が押し寄せる。生まれたばかりの雛にするような微かな触れ方。くすぐったくて、なんだか恥ずかしくて、彼女はぴくりと瞼を震わせた。
「っ、ヴィルヘルム様!」
「はい」
「う、や……やめてください……! すっごくくすぐったいです」
ふふ、と彼は楽しそうに喉を鳴らした。いつの間にか、距離はとても近い。ドレスを着た女が三人は座れるだろう寝台の端で、ふたりはぴったりと寄り添っている、そのような形だ。夫婦なのだ、おかしくはない。おかしくは、ないが。
「ど、どうして、ヴィルヘルム様はそんなに、その、こういうことがお得意なのですか」
女になど、——人になど、まるで興味がないような顔をして!
アルマリアはなんだかものすごく負けた気分だった。とくとくと心臓の音が狼狽えている。
しかし、これにはヴィルヘルムの方が驚いたようだった。余裕の表情から一転、どこか慌てたように取り乱す。
「えっ……私は、何か、その、おかしい触れ方をしていますか。私は男女のことについては、というより正しい在り方は、よく分からないので」
「えっ」
「ご不快に、させてしまいましたか?」
どうやら、真剣に聞いているようだ。
アルマリアは呆気にとられた。……え、このひとは、特に意図せず、こういうことをなさっていらっしゃるの?
暫し、沈黙。
「……アルマリア?」
「あ、いえ、べつに、不快なわけでは……ただ、少し気恥ずかしいだけですから」
「では、今の私は、えーと、間違えていたわけでは、ないのですね?」
「えっ、まあ、ええ、そうですね」
「そうですか」
良かった、と心の底からほっとしたように彼は相好を崩した。そして今度は、アルマリアの艶やかな黒髪を、丁寧に撫で始める。ヴィルヘルムの胸にすがるようにさせられながら、彼女は火照る頬をそのままに、視線をあちこちに泳がせて、こっそりと息を吐く。
この方は、なんだかときどき、危ういひとだ。
それからとっても、心臓に悪い。