それぞれが始めるその前に
ザッ、と豪奢な肩布からなびくマントを翻し、その女は傲然と王宮の絨毯を踏み進んでいた。眼差しは冷厳ときつく、唇は引き締められ、豊かな白金の髪が、足並みに合わせて跳ね返る。あくまで慎みを持った動作だが、その歩みは前方に何があろうととどまることを知らず、たとえ人の影が見えようと躊躇いを見せない。おそらく、誰ぞとぶつかりそうになれば、そのまま踏みつぶしていっただろう。それほどの意気だった。
王宮聖王家居住区、光苑宮。
王城とたった一本の道としか繋がらない、奥まった場所にそれは位置した。その中にもさらに、各人の広大な居室、複雑に区画を分けられた庭園が存在するが、そのすべてをひっくるめてひとつの宮と称す。それがリュファーニア王宮内殿光苑宮である。
うち、共有区画である本宮には数多くの渡り廊下があらゆる舎へとのびている。白亜の柱が等間隔に置かれた道の天井は、円形の窓がいくつも連なり、昼には晴天を、夜には満天の星空を拝める。また、柱の隙間、廊下に敷かれた硬い石の二段下から先はやわらかな芝と若草、季節の花々が広がっていた。庭師の仕事ぶりのうかがえる、見事な景色である。合間合間に植えられた木蓮が優しい色の花を綻ばせる頃には、王女たちがよく集まり、春の茶会を催すのがならわしだった。
光苑宮へ続く道を無許可で通ることができるのは、聖王家の者とその配偶者のみだ。彼女はその道をまるで気にすることなく抜け、本宮の三の回廊をずんずんと横切っていった。そしてある一室に辿り着くと、叩扉もなく荒々しい手つきで扉を開けた。ばん、とその扉の角と壁のぶつかりあう、激しい音がした。室内にいた人物たちが、慣れた様子で彼女を振り仰ぐ。
彼女は据わった目つきをさらに険しくさせ、低く抑えた、しかし苛烈さの隠しきれぬ声音で宣言する。
「——茶会よ。新たな客人を招いて、わたくしたちのお茶会を催しますわ——さあ、準備なさい!」
……はあ、と室内のいたうちのひとりが、間の抜けた返事をした。
*
顔もあげずに決裁書類をさばいていく、そろそろ初老に差し掛かるだろう年齢のはずの美丈夫の頭部を、ヴィルヘルムはのんびりと眺めていた。真っすぐで豊かな白金の髪は、硝子を張った窓から差し込む光にきらきらと輝き、その中に白いものは見受けられない。長らくの机仕事が祟って幾分青白い肌をしているが、皺もあまりなかった。まあ、ここ数年大きな戦もない証左ともいえるので、本人には悪いが良いことである。しかし、このひとは本当に年齢不詳だな。我が父ながら、どういう細胞で構成されているのか。一度ぜひ死して解剖されていただきたい。そのような不穏なことをつらつらと考えていると、ふいに男が顔をあげた。そして面食らったように仰け反る。
「うわ、きみいたの。入ったんなら入ったでなんか話しかけてよね」
「はあ」
「はあって何、はあって。まったくどうしてうちの子どもたちはみんなそう、腑抜けた奴が多いんだろうねえ。コーネリアくらいじゃない、ジョゼの気質を継いでくれたの」
「お忙しそうでしたので、お手が空きますのをお待ちしておりました」
王の繰り言はサックリ無視して、王子は淡々と答えた。この王——というか父親——いや人間——の相手をするのは、ヴィルヘルムでさえひどく疲弊する。なんというか、会話している端から色々めんどくさくなってくるのである。
「お召しにより参上つかまつりましたが、ご用件はどのようなもので」
リュファーニア聖王家の子どもたちには不文律がある。
現王、つまるところ彼らの父親と接するときは、出来得る限り淡白に、慇懃に、お言葉の大半は聞き流しつつ、用事についてのみ受け答えるべし。
ごくごく一部、彼となごやかに話し合える奇人もいるが、大半はこの言に従っている。言い出したのは第一王女である。そうでもしなければ、精力を根こそぎ搾取されてげっそりした顔で執務室を出るはめになるのだ。あげく、子どもたちに好き勝手に喋くりまくった王だけは顔色よろしくツヤツヤして。
この方針に否を唱えるものはいない。こなせるかどうかはまた別の話であるが——すなわちヴィルヘルムにしても同じだった。
何しろ疲れる。とにかく疲れる。
べつだん、奇異な発言が多いわけではない。それほど無茶を言われるわけではない。
だが、疲れるのである。
近しい身内であるからこそ感じる疲労というか、めんどくささというかが、どっと押し寄せてくるのである。
実際、彼は役人たちにも武官たちにも尊敬される、良王と言えた。外面もあるのだろうが、この滲み出るめんどくささに気づかずにいられるとは、羨ましい限りだった。他人事とはよく言ったものである。対外的にはもう少し威厳のある喋り方をしてくれてはいることも、理由の一つかもしれない。
はやく本題に入ってくれないものか。ヴィルヘルムは早々に肩が下がってきていた。
「うーん、僕の用件っていうか、たぶんきみが聞きたいって思ってるだろうことを一応話しておこうかと、ね。まあ、姫もいらしたことだし、いつかは知らなきゃいけないことだったし、いい機会だよね。うん」
うんうんうん、とひとり頷く父を、死んだ目で眺める。そんな小芝居を見せられても。しかも自分の父親。さらに自国の王。寒い。心が寒い。
普段きょうだいたちにさせているだろう思いを抱くヴィルヘルムだった。
「陛下、話すなら話すでおはやく」
「せっかちだなあ。ハイハイ、ちょっと待って。えーと、どこやったかな」
王はごそごそと机の引き出しの中を探り始めた。中から羽根ペンやら朱印やら赤インクやら色んなものが飛び出る。整理整頓がなっていない。
「あー、あったあった。はいこれ」
投げて寄越された鈍い金色のものを受け止め、ヴィルヘルムは怪訝げに眉をひそめた。渡されたのは鍵だった。ずいぶん古びた、複雑な形をした鍵だ。大きくはない。
「なんです、これ」
「光苑宮の奥の第一書庫の奥に、出入り禁止の部屋があるだろ。その中に鍵穴があるから、探しなさい。ああ、許可証はあとで王妃が出してくれるからちょっと待ってね。あ、鍵は三日以内に返すこと。もう一回見たければそのとき言って」
「は?」
「詳しいことは、そこにある資料から探し出して、自分で考えて」
にこりと微笑まれて、はあ、とならい性になっている返事を洩らす。つまり、知りたいことを何でもかんでも聞くな、それくらい自分で見つけろ、ということか。まあもっともである。しかしそれならわざわざ呼び出すことはなかったのではないか。そんな彼の心情が透けて見えたのか、王はさらに続けた。
「じゃあとりあえず、きみが押さえておくべきことを数点、簡潔に」
そして、一本一本、指を立てていく。
「まず、お伽噺でいわれるような、魔物は存在する。特にリュファーニア国外にはごくごく普通に」
ヴィルヘルムは瞠目した。すでにおぼろげながら理解していたことではあるが、それを、この相手が——リュファーニアの者として最たる男が、これほどはっきりと断言するとは。
「第二に、僕らリュファーニア聖王家の人間には、魔物を退ける力がある。これは、なんというのかな、力としか言い様がない。それをうまく使う術は、まだ教えられないからあしからず」
「なぜ——」
当然、反発しかけた息子を片手で制し、王は変わらぬ笑みで三つ目を告げる。
「最後に。きみは姫、つまりきみの妻を擁護し、慎重に気遣い、配慮しなければならない。分かった?」
「ぜんっぜん分かりませんが」
「違う違う、理解じゃなくて了承を求めているんだよ、僕は。ハイもう一回。——分かった?」
第一王子は沈黙する。王はにこにこと笑みを浮かべたまま、答えを待っている。やがて観念した王子は緩慢に首肯した。
「……御意、陛下」
そんな風に、珍しくもヴィルヘルムが困惑にまみえていた頃。
「光苑宮?」
エンナの言葉に、アルマリアは首を傾けていた。
第一王子のことを除けば問題なく優秀な侍女は、はい、とにこやかに頷いた。
「今、アルマリア様がお過ごしのこちらは仮宮、言わば客室にございます。リュファーニアでは嫁いでいらした方にこちらのお部屋で一週間ほどお過ごしいただいたのち、実際のお住まいとなります、光苑宮へとお移りいただくことになっております」
「まあ、なぜですか」
この「なぜ」には様々な疑問が、わりと一緒くたに放り込まれていた。怪我の痛みは治るにつれ波が起きるようになっており、このとき、長い言葉を口にするのに、少し辛いところがあったのだ。自分の足りない問いに顔をしかめた彼女だったが、エンナの方はといえば何ひとつこぼすところなく返答する。
「こちらでの奥方様を拝見することにより、その方がどのような調度品、ご周囲のお世話を任せるにはどのような人員をお好みになられるのか、そのようなところを我々が判断し、お住まいを完璧に整えますためでございます。もちろん、事前に調査はしておりますが、それにも多少の時差がございますから……やはり、直に確認させていただく方が確かですので。調査結果が間違っている場合もありますし。また、奥方様にこの王宮に慣れていただくためでもあります。光苑宮は城はおろか、王宮からも離れておりますから、ときどき外界の景色をお忘れになってしまう方もおられるのです」
すらすらと説明され、なるほどと納得の意を示す。そういえば、この地にきて、それなりの時が経っている。故国にいたことが遠い昔のように感じるほどだ。
「ですが、まだ一週間は経過していないような……」
「ああ、そうですね。まだあと二日ほどあります。一応、事前にお知らせをと思いまして」
それから、とエンナは視線を泳がせた。どうにも気まずげである。言うべきかどうか、しばらく迷っていたようだが、結局諦めたように告げる。
「もしかすると、聖王家の方々から、お茶会のお誘いがあるやもしれません。……お怪我を理由にお断りすることもできますから、何か通達があってもあまりお気になさらないでくださいね」
アルマリアはきょとんとした。……なぜ、断ることが前提なのだろう。
「ええと……それは、もしいただけたら、あの、お受け致します、けれど」
「……いや、えー、そう、ですねえ……。まあ、普通はそうなりますよね……」
歯切れの悪い侍女の顔を窺いながら、剥かれた林檎に手を伸ばす。口に含めば、瑞々しい甘酸っぱさが喉に沁みる。美味しい。新鮮な林檎を食べるのも久しぶりだった。もくもくと食べ進めていると、ようやく懊悩に決着がついたのか、肩を落としたエンナは、深い深いため息をついた。
その仕草に訝りつつ、最後の林檎の欠片をしゃくりとかじる。この国の王家の人々は、そんなに難しい質のひとが多いのだろうか。不思議に思ったが、あまり気にし過ぎては心持ちとしてよくないだろう。もしかしたら誘いなどこないかもしれないし。そんな風にけっこう適当に考えて、アルマリアはまた、エンナに次の話題を持ちかけた。
第一王女コーネリアからの手紙が届いたのは、その数時間後のことだった。