幕間 —ある会話—
やわらかな雨が降っていた。
金糸で刺繍を施された見事な肩掛けをまとい、彼女は静かに俯いた。長く豊かな睫毛が微かに震え、その奥に隠された瞳は憂いを帯びる。すると、彼女の傍近くに控えていた侍女が、気遣わしげな視線を向けてきた。
「毛布をお持ち致しましょうか」
この者たちも、随分と自分に慣れたものだ、と彼女は思う。もともと、気性のやさしく、それでいてさっぱりとした人員が多かったが、おそらくそれは前の主人の影響もあるのだろう。その人物のことを思い出すと、もう何年も経っているというのに胸の奥がひどく軋んだ。ほがらかでどこか暢気な笑顔が、薄れることなく脳裏に浮かぶ。なぜ、といつも思う。そのあとに続く疑問は様々で、複雑に絡まり合い、結局は鬱屈に変わる。なぜ。なぜなの、あなたは、あなたが、なぜ————
「……いいえ、まだ必要ありません。皆、しばらく下がっていなさい」
退室を命じると、侍女たちは少し躊躇う様子を見せた。現主人がいつになく沈んでいることを敏感に感じ取っているのだろう。あまり感情表現の得意ではない自覚のある彼女からすると、苦笑を禁じ得ない。優秀なことである。だが、彼女の視線が、部屋にいくつも置かれた小さな絵画や、濃紫色の匂い袋を見つめていることに気づいたのか、彼らは得心したように一礼して出ていった。
ぱたん、と静かに扉が閉められたのを確認し、彼女はごく軽く溜息を吐いた。感傷的に過ぎる、と我ながら冷静な自嘲が胸に降りてきた。けれど、どれほど頭の中ばかり冷えていっても、その気持ちが浮上することはなかった。愚かなことだ、と思う。いつまでも、あのひとのことばかり、思い煩っている。あまりにも盲目的に。
絵画のひとつひとつを、順繰りに眺めていく。どれもれも、上手いとは言えぬ、平凡で、しかし、どうにも自由奔放な絵ばかりだった。好き勝手に描いて、満足して、ときどき必ず褒めてくれるだろう相手に見せびらかす、そういう無邪気な絵だった。そのくせ、自信はかけらもない。まだ幼い子どもの遊びのようなもの。
彼女はそのうちのひとつ、一面に咲くリモニウムと振り返る少女の絵へと手を伸ばした。そっと額縁に触れる。まるで宝物のように、慎重に。
絵の中の少女は、白い帽子を押さえ、嬉しげに笑みほころんでいた。描いた相手に対する信頼と親愛で溢れた、無防備な笑みだった。
彼女はしばらく、瞑目した。
額縁を握る、ほっそりとした指が、力を強めたことでさらに白くなる。やわらかな雨の音。穏やかなそれは、微笑みに似ていた。あのやさしい笑みを、いやがおうにも思い出させた。そう、だから、これはすべて、この雨のせい。
「やあやあ、辛気臭いねえ。貴女にしては繊細でいらっしゃるご様子だ」
唐突に落ちた声が、ばっさりと彼女の感傷を切り捨てた。相も変わらず、苛立ちを誘う喋り方だ。鏡のすぐ傍にゆらりと広がった影を、彼女は冷たく一瞥する。
「……おまえは、機嫌が良さそうね」
わたくしと違って。
言下に含んだ意図を寸分違わずすくいとり、彼はにやにやと意味ありげに笑った。彼女は眉をひそめる。目許の険が鋭くなった。
いったい、何なのだというのか。彼女はこの奇妙な存在のことが、あまり好きではなかった。
「ふふふ、そんなに怖い顔をするものではないよ。聞きたいかね?」
「特に」
「ほう? あの子に関することでもかね」
彼女は顔を上げた。
強い視線が、年齢不詳の男を睨む。
くく、とさも可笑しげに彼は身をよじらせ、くぐもった笑声を洩らした。
「はっはははははは! 愉快、愉快。その顔を見せてやりたいものだ。貴女も大概、素直とほど遠い」
「お黙りなさい。わたくしは不愉快だわ」
「そうであろうとも! ふふふ、貴女が思っているような悪いことではあるまいよ。我らが姫君は、多少の怪我を負えども、無事、息を続けている。そのうえ、面白い因果が巡ってきた。これはどうなるのだろうかね」
「……怪我?」
大半の言葉が意味不明だったので、明確な部分だけ、問い返した。彼はゆるりと首肯し、肩を竦めた。
「それは自分でやったようだがね」
「——愚かな」
吐き捨てるように呟く。確かにその通り、と面白そうな返事を受けて、彼女はなおさら癇に障った。忌々しい。
「しかし、あれがあの子の性であろうよ。仕方あるまい。それよりも気になるのは、あの王子。どうやら、聖王家の教えはあまり徹底されていないようだよ。たるんでいるねえ」
「……そう」
適当に相槌を打つと、男の視線が動き、興味の対象が彼女の眺めていた絵に移動したのが分かった。思わず顔をしかめる。さっさと失せるよう命じかけて、ふと口をつぐむ。
相手の眼差しが、思いのほかあたたかみのあるものだったので。
「…………」
「懐かしいねえ、本当に下手だ」
容赦なく失礼な発言であるというのに、声音は違えようのない情を孕む。いつもいつも、何を考えているのかさっぱり分からない相手にしては、正気を疑うようなものだった。僅かに滲むのは、おのれと同種の哀しみか。
「だが、あれらしい」
やんわりと、目が細められる。
「……無礼な言い様は控えなさい」
「敬意があってこそなのだがね」
けろりと言い放ってから、彼はすぐさまいつも通りの憎らしい笑顔に戻った。彼女は内心うんざりした。表情にはおくびにも出さなかったが。
しゅうしゅうと雨が降り続けている。部屋の温度は静かに下がり、彼女の産毛を逆立たせる。微笑のような雨はやがて重く強くなっていく。
「——さあて。これからまた、面白くなりそうだよ、我らが王妃。楽しみだろう?」
まったくそうは思わない。
不快の念を訴えるように、彼女はクロプツェンの問いを黙殺した。
氷のように冷たい目で。