街中の聖女 15
食べて、食べて、食べ尽くして。
そうして漸くこころを持ってしまった魔物は気付いたのです。
彼は娘に————
*
マルディーン通りは、ひやりとするほど人寂しかった。
——いや、人っ子ひとり、いやしない。
ヴィルヘルムに手を引かれ、頭痛を堪えながら辺りを見回す。痛みと比例して、異臭がはっきりと嗅ぎ取れるようになってきた。不本意だが、クロプツェンに感謝すべきなのだろう。
すっかり陽も暮れ、灰色と朱に染まりつつある石畳を踏みしめて、転げるように走る。かん、と踵が地面を鳴らし、爪先がじんわりと痺れた。痛い。頭痛よりずっと分かりやすい疼痛に、己の体力の無さを思い知らされるようである。情けない。
アルマリアは乱れた息を無視して、ヴィルヘルムの背中に呼びかけた。その背中が振り返ることはなく、ただ常と同じ柔らかな声に続きを促される。彼女は一度喉を湿して遠慮せずに口を開いた。
「ヴィルヘルム様、クロの——魔鏡の主の言葉をどう思われますか」
「それは変死体のことですか? それともクオルディスについて?」
「!」
示された選択肢にくっと息を呑む。
クオルディス=アフォルグ=グルーツ。クロプツェンは、彼のことを追尾獣と称した。血に縛られた獣、とも。
それは一体どのような意味であるのか。
アルマリアには分からなかった。もちろん気にならない訳もない。
けれど。
「変死体の、話です」
それはきっと、後でも良いことなのだ。
強く、噛み締めるように云うと、ヴィルヘルムはふっと蕩けるように微笑った。こんな時なのに、まるで死体を愛でる時のような甘やかな眼差しに魅せられる。心臓が止まりそうになった。
「そうですね、俄には信じられません」
頭痛をこらえて続きを待つ。雨上がりのせいか、妙にべっとりとした空気が暑苦しい。周囲の建造物が火にあぶられるように赤い。影が濃かった。アルマリア達のものも、そびえ立つ家々のものも。
「と、いうよりも、そもそも魔物が存在していたことの方が吃驚しましたが。人でなければせいぜい、獣か牙持つ生物か。その程度の予想しかしていなかったので、……まさかお伽噺に出てくるような魔物とは。予想外でした」
予想外でした、ですましてしまうところがさすがヴィルヘルムである。
苦笑しかけて、ふと微かな違和感に首を捻る。
————お伽噺に出てくるような?
そういえば、この国の人々は魔物の存在などまるで知らぬ気だ。そんなもの、悪戯好きな子供を戒める言葉の中にしか存在しない、とでも言うかのように。
信じていない。
空を飛べる人がいたら面白いわね、と笑い合うように。
そんな悪い子は魔物に食べられてしまいますよ、と母親が子を叱るように。
幼い頃は信じていても多少育てば「あったらいいのに」程度の認識になってしまう。そんな。
こちら側からしてみれば心底居心地の悪い浮遊感にあてられる、常識。
(それでは、——本当に。この国、には)
森には魔物が棲んでいる。
アルマリアはその文句に、古いお伽噺のようだと言った。
それは、少々の皮肉と、この清らかな王国でもそのような言い習わしがあるのか、という意を込めてだ。きっと守られ穢れを嫌うこの国には魔物なんて閉め出されているだろう、と。だからきっとリュファーニアの人間は魔物が存在することを知らぬ者も多いだろうと。
だけど。
だけどおかしい。
聖応国だからといって——否、だからこそ。その守りを敷く聖王家の直系、それも王位継承者が、全く知らないなんて。
予想外だなんて。
(……だって)
たとえエビリスを除いても、リュファーニアの周囲の国には、当然のように魔物は居るのに。
古いお伽噺というそれに、揶揄する気持ちが入ったのは、エビリスでは森だけなどではなく至るところに魔物は現れるし、魔物は棲んでいる、ではなく潜んでいると形容する方が正しいからだ。棲んでいる。まるで妖精に対するような言い方。
「魔物のせい、というのもまた信じ難いことですが、クロプツェン殿は人と魔物の仕業だとおっしゃいましたね。それが、どうにも——嫌な心地です」
「……嫌な心地、ですか?」
「ええ。どちらか一方ならばまだ理解、というか納得の仕様があるものの、どちらも、というのは。それも人と魔物。どのような場面においても、大抵敵対するもの同士でしょう。おかしなことです。まぁ、変死自体、奇妙ではありましたが」
ふむ、と眉根を寄せるヴィルヘルムは、常になく真面目な表情をしている。アルマリアはふと、クオルディスを思った。人と魔物の仕業、と告げられた時のクオルディスを。
「……ヴィルヘルム様もクオルディス様も、魔物の仕業とお聞きになられた時より、人と魔物と断じられた時の方が、張りつめておられましたのは、何故ですか」
つい問うてしまうと、彼は不意を突かれたように眼を丸くしてから、答え辛そうに言った。
「……魔物ならば、無茶であろうと狩るのみです。獣と想定した時と同様、理性も感情も求めません。もともと違う種族ですから。けれどもし人だったなら、それは法で裁かれるべきことである以上に、被害者と近しい者達が憎しみも恨みも余儀なく抱いてしまうことになる。獣ならば、悲嘆。人ならば——同族ならば、憎悪。当然の心理でしょうね。もちろん獣であろうと魔物であろうと憎みも恨みもして良いでしょうが、感情も言葉も通じる相手ならば余計、思いは強くなりやすい。特に怒りは」
アルマリアはヴィルヘルムの、幾分遠回しな言様にはっとした。つまり。
人殺し、なのだ。野生の中ではない、人の中の無意味な殺意。
「何故あの子を殺した、と問いたくなるのが被害者側の心情でしょう。相手が人ならば。恐らくクオルディス殿もそうなのでしょう。だから、あのように怒ったのではないでしょうか。加害者と以前私は言いましたが、当初あの森に行こうと決めたのは、そういう動物が街に降りてきているのではないかとそちらの方を疑っていたからです。あるいは加害者が隠れているかもしれない、とも、思ってはおりましたが。血の跡があの森に向かっていたようなので。どちらかと言えば獣の方が救われるのかもしれません。……たとえ道半ばで死した人間に祈ることを知らないリュファーニアでも、親が子を、恋人が恋人を、友が友を、兄が妹を想う気持ちくらいは、あるのでしょう」
静かな声が告げる内容は、死体愛好家と揶揄される者の言葉とは思えぬほど、人思いだ。カツ、と左右に別れた道を、踵を鳴らして曲がる。そうすると急に匂いがいや増した。身体中を蝕むような腐臭。——そうだ、これは、腐臭だ。甘く、果実が腐り落ちたような。
ぞっと背筋を走る悪寒が、止まらない。これ以上進みたくない、という思いを振り切って、ヴィルヘルムに繋がれた手をきつく握りしめる。
アルマリアは青ざめながら、ですが、と零すように呟いた。
「ですが、ヴィルヘルム様」
獣であった方が報われる。
ああ、そうかもしれない。
けれど、本当にそうだろうか。誰にとってもそうだと、言えるのだろうか。
だって、今、頭に叩き込まれてくる叫びは。脳裏に響く怨嗟は。
「獣であろうと魔物であろうと、はたまた人の手であろうと。それは、決してどれなら救われる、ということには、なってくれないのではありませんか」
まるで歯が立たない相手に対する絶望のように、聞こえるのだ。
吐き気に霞む視界に、はっとしたような色を含んだ、ヴィルヘルムの瞳が映り込む。それはすぐに、申し訳なさそうに細まる。きゅ、と宥めるように優しく、握る手の力が強くなった。その温度が心地よくて、アルマリアはほっとした。思わず頬が緩む。
その、時。
「ええ、その通りね」
脳裏で何かが、それこそ絶叫するように弾けた。
頭上から刺すように降ってきた声に顔を上げる。
陽が落ちていた。
いや、落ちつつある、と言った方が正確だろうか。燃えるような陽が、高い家々の屋根を照らしている。影がたなびき、固定され、細く伸びる。赤い空。だというのに、見上げた先ではおぞましい色の闇が、彼女を取り巻いている。けれどそれよりも遥かに、一際強く、太陽が彼女を染め上げる。
燃える橙に、闇。
逆光になっているのに、はっきりと輪郭が眼に見える。
翻る長布。
噎せ返るような薔薇の匂いと、木の実の匂い。
灰色のストールが風に舞い上がる。
眼に痛いほどの、白い——長髪。
そして、その、朱唇。
「ごきげんよう、白雪姫。随分とお幸せそうね」
上弦の月が笑う。
金の瞳。
美しい女が、落ちゆく太陽を背に、赤い家の頂上で立っていた。
*
アルマリアは茫然と彼女を見つめた。瞬きすら出来ない。
——誰?
あれは、誰。
どくどくと心臓が早鐘を打つ。けれど頭痛は止まった。そうと示すように止まった。
(助け、とは。こういう意味、ですか……!)
もうエビリスに戻ったのであろう友に向けて、唸るようにそう思ってから、奥歯を噛み締める。
女の背を、身体を取り巻く闇。まるで、魔物の障気のような。
不意に、彼女は高く笑った。
地べたまで侵食するような甲高い笑い声。ヴィルヘルムが一歩足を引き、片手を伸ばしてアルマリアの前に割り入る。女はうっそりとアルマリア達を見下ろした。また唐突に、飽きたように笑い声が止む。
「悪女ね、白雪姫」
艶やかな唇が弧を描く。舐めるような声音が、耳へと響く。白く細長い指がその唇をなぞる。ぞっとするほど、妖艶に。
薔薇の匂い。
噎せ返るような、濃い、野生の薔薇の匂いがする。
胸焼けがしそうなほど、甘ったるい。
……どこかで、嗅いだことがあるような、甘ったるさ。
(——これ、は)
「ねぇ、お答えなさいな。それともまだなのかしら。まだ、分かっていないの?」
「……い、」
「いいえ。分かっておりますよ、異国の方」
絞り出すようにいらえかけたアルマリアを遮るように、酷く穏やかな声でヴィルヘルムが言う。見れば、その表情も驚くほど柔らかだ。まさに聖王家の一員に相応しい、慈愛に満ちた笑み。神の血を声を心を戴く者。
女は不快そうに眉をひそめた。一瞬で表情が切り替わる。
「……どうして異国だと分かったのかしら。リュファーニアの死体愛好家」
「貴女が公用語をお使いになっているからですよ」
当然のように答えるヴィルヘルムが気に入らなかったらしい、彼女はふん、と鼻を鳴らした。
「当てずっぽう? それともリュファーニアの人間は公用語を使えないのかしら」
「いいえ。けれど少なくとも、彼らは私達——聖王家に対しては、リュレス語を使うでしょうから」
「そこには白雪姫もいるけど?」
「なおさら。姫が公用語で喋るよう頼むまで、彼らはリュレス語を使います。慣れていただくために。——リュファーニアでの典礼では、リュレス語を使用しますので」
そういえば、と思い出す。婚礼を終えた次の日には、もうリュレス語の聖書を渡されていた。慣れずに上手く祈りの言葉を紡げなくても、皆微笑んで許してくれるのが、申し訳なかったのを覚えている。
「はッ、典礼。典礼、ね。くだらない慣習だわ」
絹糸のような白髪をなびかせて、彼女は蔑む如く吐き捨てた。ぞわり、と黒い靄のような闇が膨れ、彼女の身をさらに覆う。
鬱陶しそうに長布——あれは、もしやベールだろうか——を剥ぎ、女は赤く染まる空へと投げた。そのまま落ちていくかと思いきや、——黒い手が、それを掴んだ。
にこり、とそら寒い笑みで、彼女がアルマリアを見る。もうヴィルヘルムなど、どうでも良いと言うように。
——ああ、そうだ。そういえば、彼女は白雪姫、と呼びかけていたのだ。先程から、ずっと。
とん、と黒い足が、黒い体躯を回転させて、女がいる場所まで舞い降りる。
黒い男だった。
長い、獣のたてがみのような黒い髪。襤褸布をひっかぶったような池の泥を閉じ込めたような色の装束。黒い足。毛立った黒い両腕。
裸足だった。けれど黒かった。
時々見る、肌の黒い国の人とは違う、純粋な黒だ。
そしてその指には、ぬめりと生光りする、鋼のような爪が備わっていた。
いや、備わっていたというのは不適切だろうか。一本は先が欠け、一本は折れ曲がっている。
どくん、と鼓動が波打つ。
なんだ、あの、禍々しい、ひとは。
「ねぇ、獣に殺されるも魔物に殺されるも人に殺されるも、どれがどれだけマシだなんてないと貴女は言ったわね?」
うふふ、と少女のように笑う。ああ、この人は、一体どれほど異なる笑みを見せたのか。そのどれもが、どうしてこんなに恐ろしいのか。
金の瞳が不穏に輝く。もう陽は半分ほども落ちてしまった。——ああ。
月が昇らなかったらどうしよう、と、そんな、埒もあかないことが脳裏を過る。
「ええ、その通りよお姫様。安穏と、あのエビリスでひとり幸せに生きてきた魔性の娘。魔物に食べられ骨すらなくなるのと、人に殺され通じる筈の言葉も通じぬ憎しみを抱くのと、」
つぅ、と白い指が男に向かう。
そうして気付く。
彼女の爪は、血のように赤黒く塗られていた。
男は無感動に、その指を受け入れた。
——ぎぃい、と鈍い音を立てて。
その赤い爪が、男の頬に食い込む。
「な……」
さすがに驚いたように、ヴィルヘルムが低く漏らした。アルマリアも眼を見開いた。
けれど、食い込むばかりで、その頬から血は溢れない。
爪にそれほどの力はなかったのか、それとも男が丈夫なのか。
そんなことをされたことがないアルマリアには、分からない。
「獣に無惨に殺されて、肉片と砕けた骨のみが残るのと」
ビッ、と女は見もせずに、男の頬から顎へと食い込ませた指を裂くように引き下げる。
「どれがマシだなんて、分かるわけないじゃない。そんなの、やられたものがその人にとって最悪ってだけでしょう?」
くす、と笑んで。
彼女は男の手からベールを掠めとる。いささか鬱陶し気に、何の意味が合ったのか、また被り直して、
「彗」
秘めやかに、朱唇を揺らす。
アルマリア達の背後を示して。
しゅん、と黒い影が飛ぶように動く。まるでクロプツェンの鏡。
(————!)
はっ、とアルマリアは息を呑んだ。ヴィルヘルムの手から逃れ、男の進行方向であろう方向に走る。ヴィルヘルムの疑問と制止の声が聞こえたが、気にしていたらなかった。
だん、と痛むほど強く足を踏みならす。ぞくりと寒気が背筋を駆け上がった瞬間、ばっと振り向く。
間近に黒い顔があった。
後方から届くエンナ達の足音に詰めていた息を吐き出し、男を睨む。
「…………駄目」
無駄な言葉と知りながら、低く呟いた。肩が揺れる。走ったせいか、酷く息が乱れた。——いいや、走ったせいだけではない。緊張と、恐怖で。
ああ、この男は、なんなのだ。
こんな、まるで。
——まるで。
『……もつを…こせ……』
「……え?」
沼底から響くような声だった。ひび割れて、くぐもり、奇怪。
『臓物を、寄越せ』
「アルマリア!」
ヴィルヘルムが驚くほど必死な表情で、こちらに向かってきている。けれど、その前に、男の爪が、彼女の臓物へ向かう。女の笑声が聞こえた。アルマリアは茫然としながら、その言葉を反芻する。——臓、物?
ちらりといつか耳にしたお伽噺が耳朶に蘇り————
「アルマリア様!!」
絶叫と共に強い力で腰から引き寄せられた。
数秒何が起きたのか分からずただ瞬きを繰り返してから、おそるおそる腰を引いてくれた相手を見やれば、真っ青な顔をしたクオルディスが、アルマリアごと尻もちをついていた。
「クオルディス様……?」
「大丈夫ですかアルマリア様!」
「エンナ……、リカルド?」
今にも倒れそうな表情のエンナと、真っ青を通り越して真っ白な顔色のリカルドがふらふらと近寄ってくる。ぐっ、と肩を掴まれて首を傾げると、彼はちいさく何事か呟いた。……おそらく、申し訳有りません、であっていると思う。けれどそれが何を指しているのかは分からなかった。
最後にヴィルヘルムがやってきて、ひったくるように頭を抱えられる。狼狽えて身じろぐがびくともしなかった。
「ヴィル、」
「心配をかけないでくださいと、言った傍から、貴女は」
震える声が、唇が、耳に触れる。あ、とアルマリアはどうすればいいのか分からなくなって、ヴィルヘルムの腕の中で視線を泳がせ、漸くその言葉に思い至ってから、ごめんなさいと落とした。
「美しい茶番ね」
は、と棘を持った囁きが、脳髄を貫いた。アルマリアは慌てて立ち上がり、彼女を見上げる。
「彗」
また、不可思議な音で、彼女が男を呼び寄せる。
すぅっと身を引き、再び飛ぶように彼は女のもとまで戻った。
「……あなたは、」
膝が笑いそうだ。喉を潰すみたいにして、呻く。
「そのひとは、」
その質疑を待っていたとばかりに、女が微笑う。うっそりと。
「いったい、なんなのですか」
ごう、と風が鳴った。殴るように駆け抜け、家々の屋根を揺らす。太陽が落ちる。
夜がくる。
「ねぇ、愛しいものを殺されるのは、たとえそれが自然の摂理だったとしても、ただ憎いのよ」
くすくすと、言葉とは裏腹に、軽やかな笑みが、耳障りだった。隣で、エンナが怯えたように後ずさる。
「お伽噺を知らない?」
「おとぎ、ばなし」
「そう。エビリスでは、特に有名よね?」
「そ、れは」
ごくん、と唾を呑み込む。何故か、聞きたくない、と思った。それは女の口調のせいなのか。
アルマリアは男を見た。黒い、黒い男を見た。
まるで、魔物のような、匂いの。
「こころをもった、まもののはなし」
うたうように女が言う。
先程ちらついた記憶が鮮明になる。
あれは。
「それともこういった方が思い出しやすい?」
————食べて、食べて、食べ尽くして。
そうして漸くこころを持ってしまった魔物は気付きました。
彼は娘に————
「人に恋をした魔物の話」
————彼は娘に恋をしていたのです。
遠いお伽噺の声が、生々しく、耳に響いた。
まるで、落雷のように。