街中の聖女 断章 綺麗なものが優しいだけとは限りません
※微残酷描写注意です! あくまで「微」ですが、お食事中などにはおすすめしませんすみません!
昔語りをしよう。
誰もが記憶の片隅に残す、しかし多くは曖昧として判然とせずにほぼ忘れられかけた、他愛もないそれぞれの過去の話だ。
それが誰にとってどんな意味があったのか。
そんなことは気にするべきではない。
ただ、そんなこともあったのだと、思い出すだに止めるのが、
————正しい昔話というものだ。
*
ほんの、少し以前の話だ。
『アーリィ、どうして貴女はそう反省しないのかね?』
ふぅ、と口調のわりには適当な、どこか面倒そうに聞こえる声音で、彼は言った。
彼女は落ち込んだように俯き、ぺたりと地べたに座り込んだまま、ただ黙っていた。
反論する言葉が、なかった。
『……ん? いや、反省はしているのか。うぅむ、なんといったかね。精進? いやそれも違うか。まぁ、何でもいいことだがね』
ふぅ、と。
今度は紫煙がくゆる。
古びた、細工だけはきめ細かく丁寧な煙管から伸びたそれが曇り空に溶けていく。
『……アーリィ』
アーリィ、と彼は昔、自分をそう呼んでいた。もっと分かりやすく、よくつけられる愛称ではなく、アーリィと。
彼女は別段それが嫌いな訳ではなかったが、ただほんの少し不思議に思っていた。
アーリィ、と彼女をそう呼ぶ時、つまりは彼女を呼ぶ時彼は、ほんの少し懐かしいような苦いような表情を浮かべるからだ。
『貴女は弱い』
よわい。
彼女は泣きそうに顔を歪めた。けれど泣かない。泣き方など知らなかったから。どういう風に涙を流せばいいのか知らなかったから。——本来、それは誰に教わることなく知らねばならないことだったけれど。
彼女は問うた。
ならばどうすればいいのか、と。
どうすれば、自分は、赦されるのか、と。
幼い弱さ。その問いこそが弱いと、本当は分かっていながら。
『赦される必要があるのかね』
彼は彼女を見もせずに言った。衝撃だった。赦されてはならないのか、と彼女は思った。その様子をちらりとだけ一瞥した彼はつまらなそうに煙を吐く。
壊れた雲のようだった。
『そもそも誰がどのようにどうして貴女を赦すというのだね。赦す、という行為は、一般を示す時に使うことなど出来まいよ。それはただ、便宜上、とでも呼ぶような偽りであろう』
……では。
では、自分は、何をすればいいのだろう。
赦されないのなら、生きていてはならないのか。それともずぅっと生きて、己という存在に苛まれ続けるべきなのか。
『アーリィ、そういう考え方を止めなさい。そういう風に都合よく他者を捉えてはまるで意味を成さないと思わないのかね。まぁ、思わないならそれでも構わんがね。だけど、アーリィ。どうして何かをしたいと望むのか。貴女の血と、立場と、負うべき罪と、責務と、そして唯一他に縛られながら自由を許される魂の根底から、全てを理解し感じそして考えるがいい。それで道が見えてくる、なんて甘いことも、知るべき全てを理解出来ることもないだろうが、それでもそれは貴女に必要なことだろうよ。希有な魂を持つ子。穢れ、清く、それ故に美しい血を宿す娘』
謡うような声音に震える。睫が、唇が、頬が。
稚い少女には重く難解過ぎる言葉の羅列に、だが彼女は確と理解の証を見せる。
己の立場。この身に流れる血。多くのものに縛られながら、けれどどう動くことも出来る魂。
たましい。
それを、誰かはこころの祖と呼び。
誰かは、精神の在処と呼ぶ。
少女の頭の上を滑るように紫煙がくゆり、今にも降り出しそうな空へ霧散する。
『アーリィ』
困ったような、呆れたような声。
だけど。
『ほぅら、顔をあげたらどうだね。——私のアーリィ』
その目はいつだって慈愛に満ちていたから。
だから、彼女にとって、彼だけは信じ愛すことの出来る“誰か”だったのだ。
*
それよりもさらに以前の話だ。
『いっ————ひ、あ……ッ、ああああああああ!! 』
硝煙も鉛玉も刃すらないのに、まるで一昔前の戦場のような悲鳴が上がっていた。
その、美しい茨の森で。
どうして。
どうして。
どうして。
どうしてあれがいる。どうしてあんなものがいる。どうして。
どうして自分達が襲われているのだ。
『あ、う……うああああ!! ね、ねえ、姉ちゃぁん……ッ!』
『ロディ!!』
怯懦に見開かれた弟の目は、まるで狂人のようにおぼつかない。けれどそんなことどうだって良かった。まだ。まだこの子は生きている。そう、爆発しそうな己の心臓を押さえつけたのに。
『ッぁ——————!!』
血飛沫が、舞う。
肉片が頬に当たった。
労働者階級には充分に上等な、つまりは酷く簡素で暖をとるぐらいしか脳のない白い衣服は赤黒く——否、茶色に変色している。靴はもう脱げてしまった。つまりは裸足で、日に灼けたくるぶしは、裂けて血だらけになっていて。
びちゃ、り。
人体にこれほどの水分が含まれていたのか、と場違いな感想を抱いてしまうほどの、赤。
ねばつくそれは、手の平に貼り付き、嫌な音を立てて地面に伝う。どろりと膝に飛び降ってきた鮮血が重力に負けて零れ落ちる。彼女の皮膚に吸い付きながら。
『……ぁ、ああ、あ』
がたがたと可笑しいくらい身体が震える。ぼと、と汚いものがへばりついた白い何かが落ちる。
変わり果てた弟、の。
——骨。
ひっ、と喉が鳴る。嫌。嫌だ。どうして。ロディ。そんな、そんなこと、ある訳がない。だって。だって、さっき、さっきま、で。一緒に苺を摘んで。明日はベルメールおばさんのところでパンを焼く手伝いをしなくちゃいけなくて。朝は鶏の卵に喜んだばかりだったのに。
そん、な。筈が。
けれど気絶寸前の彼女の前で、その白い弟の欠片すら呑み砕かれる。
『————ああああああああああああああああああああッ!!』
絶叫が、閉ざされた天をつんざいた。
*
それからさらに、遥か昔に巻き戻る。
『ねぇ、リアンフェルデ。あなたのたましいは美しいわね。清冽で、残酷で。なんて清らか』
ふふ、と天の使いの如き甘やかな声が、軽やかに笑い声を上げる。
『羨ましい』
真っ白な羽が部屋中を満たしている。——いいや、羽? 羽ではない。
飛び交うのは確かに羽。けれど埋め尽くすのは白い花。
蕩けるような金糸の髪の青年はふっと唇を笑みに形作る。
『けれど貴女は夜闇の如く恐ろしく、愛らしい』
『愛らしい!? ふ、うふふ。ああ、もう、あなたって本当におかしな頭をしているわ』
『欺瞞でも高貴だと言った方が良かったと?』
『憎いわ。綺麗、と誉めるのが女性には有効だと思うのだけれど。まぁいいわ。そんなことを言われても仕方ないもの』
だって、当然のことだものね?
まるで傲慢に、けれど彼女は自嘲する。
もし彼が一言、たった一言でも選択を間違えば、彼女は美しく、凍土の如き怒りを表しただろう。その凄絶なる美貌をもって。
『ねぇ、加護というのはとても利己的よね。それが本物だとすれば、なおさら』
『享受する側としては利用出来るなら利用するだけなものだけどね』
『ああ、そういうところ、本当に綺麗よ! なんて美しく、愛らしさの欠片もない男かしら?』
『では貴女のそれは、結局どういうものになるのか、お聴きしても?』
おどけるようにして問われた言葉に、彼女はまたもふふふ、と笑った。
『やぁね、そんなことを聞くの?』
くす、くす。
軽やかな笑い声が上がるたび、ふわりふわりと白い花びらが舞い踊り、穢れない白の羽は宙に浮く。
『利己的極まる、呪いでしょう?』
そうして、白い部屋の扉は閉ざされる。
美しい二人の人の子を残して。
*
さて、昔語りもこれで最後だ。
これは、ほんの少し、それこそ一桁にも満たぬ前。
ひとり、死体を愛でる王子がいた。
彼は動かぬ冷たい身体を抱きしめた。
腐り落ちようが腐臭を滲ませようが、何の関係があるのだろう。
恍惚とする彼にはしかし、ひとりの少女と少年がいた。
彼らはその王子のおかしな性癖に、揃って悲鳴と苦言を喚いた。
ひとりはごくごく当然のように、このド変態がとばかりに怒鳴りつけ。
ひとりはごくごく真面目に、だからそれは死者への冒涜ですこの馬鹿王子と幾分柔らかな口調でくどくどと叱りつけた。
けれど王子は微笑むばかり。
微笑み、穏やかに筋違いな嗜めを返して頭蓋に頬擦りをする。
二人の臣下を見つめる眼差しは至って優しくまるでどこからどう見ても完璧な王子様の風情。
しかし彼は遺体を離さない。
どんなにどんなに言われても。
ただただ微笑んでいるばかり。
さてはて彼の心は一体いずこにあるものか?
*
ぱたん、と分厚い本の表紙を重そうに閉じて、彼はため息をついた。
そもそも、兄と比べることが間違っている。効率だ何だと教師は言うが、内臓される性能の基準が違うのだからそんなこと言われても困るというものだ。
大体自分は小難しい本より巷のご令嬢がうふふほほほと花の如き毒を含んだ愛らしい笑みで交わされる、七面倒くさい会話をはたで聴き、たまに引っ掻き回したりする方がずっと好きだ。大昔の詩人が綴った大仰な詩集に耽溺するのも良い。街で安く売られるぺらぺらとした紙に甘ったるい詩もどきを自分で紡ぐのも楽しい。
だが、こんな茶黒い教本はまっぴらだ。なんもかんもがつまらない。人には向き不向きがあるのだから、少しは勘弁してもらえないだろうか。
何も兄と同じことでなくとも世に貢献することも、恩を返すことも出来よう。ひとつのことに固執してどうする。それで上手くいくなら有りかもしれぬがこれでは時間の無駄だ。浪費は麗しやかに行使してこそ意味がある。薔薇の一本分の価値もないことに使うことはない。人生甘い砂糖菓子のように生きねば。
などと彼なりの言い訳をこねくり回しながら、彼はふと眠た気な瞼を跳ね上げた。
ひらりと風に煽られて落ちた一枚の手紙。……仮にも一応同じ敷地内に住んでいる家族に、何故わざわざ封筒に入れた手紙を寄越すのか。いまいち頓珍漢な奴らの多いこと。
その筆頭であることにはとんと気付いていない彼は、ふむ、と小さく頷いた。
「なぁるほど。それなら近いうちにお茶会を開く準備をするべきか」
麗らかとは言い難い曇り空が、茶色い本棚に影を作った。