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純情白雪姫  作者: 祭歌
第三部 街中の聖女
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街中の聖女 11

 待って。

 

 待って待って待って。

 兄上。ああ、お伝えしなくては。一刻も早く。兄上————兄様にだけは。

 

 待って、待って。お願い。

 まだ保って。私の身体。どうか、兄様のもとにまで。ああ。


 私の————様。

 あなたのお顔を、たった、たった一度で良いから。


 ああ。





 たすけて。

 どうかたすけて、兄様。








 ————————どうかかのお方を、たすけて兄様。





















 ヴィルヘルムは呆然とその様を見ていた。

 黒々とした闇が雨に濡れぬかるんだ地を染め上げる。蜘蛛の巣の如く広がるそれは、どう見ても禍々しくしか感じ得ない。

(……どう、)

 どういう、ことだ。

 投げかけられた雨除けを握りしめ、飽和しそうになる頭を何とか回転させる。ぞわりと木々がざわめいた。嫌な音だ。壊死した骨の軋む音の方が、よっぽど可愛い。

 

 アルマリアが呑まれた。


 暗黒を宿す、魔物の口内へ。

 救いようのないほど由々しき事態であるし、理性と優先事項という感情の足枷を省いた上で言わせてもらうのならば、絶望してもおかしくないほど憤ろしい。けれど。

 けれど、どうしてかそんなに衝撃は大きくない。

 未だ混乱してはいるが、闇を引きずり去りゆく魔物から距離をとるくらいは出来る。

 浅く息を吐いて、ヴィルヘルムは思考する。

 おそらく、それは。


『ヴィルヘルム様。どうか私の生を信じていただけませんか。私自身を信頼なさらなくても構いません。ですがどうか、私はまだ死なぬとお心に留め置きください。そしてどうか、どうか。どうかヴィルヘルム様は直ぐにお逃げください。たとえそのリュファーニアの血にかかる加護をもってしても、あまり魔物に近寄るのは賢明ではありません。——私は、必ず戻って参りますので』


 世にも稀な天音で囁かれた、あの寸前の言葉があったからこそ。

 ふわりと、古の神々の如く柔らかに地を蹴って、彼女は魔物に呑まれた。微笑んだまま。

 けれど同時に彼女は言ったのだ。戻ってくる、と。


 その生を信じろと。


(我が細君は、酷いことを仰る)

 青筋が浮くほど強く、雨除けを握りしめる。

 貴女を信じなくていい?

(貴女は私を誰と思っている)

 笑止千万。


「……妻を信じぬ夫がどこにいる」


 たとえおままごとのような、抱くべき感情のない関係であったとしても。






  *







「まったくまったく」


 ふ、ふ、ふ、と彼は笑う。

 暗い杳と知れぬ不可思議な道を歩く彼の足から、細く長い影が伸びている。

 地を踏むごとに、その爪先は微かに黒に沈み、しかし次の瞬間には波が引くように元に戻る。

 足音はない。

 響くのは秘めやかな笑声と。


「待っておいで、白雪姫。相も変わらず魔物に好かれる哀れな娘」


 ただ高く打ち付けられる、ステッキの音のみ。








  *




 魔物の中というのは、いわゆるごくごく一般の生物の口内とは大分趣が異なる。


(趣、と言っていいのか微妙だけれど……)

 微かに仄光るきらきらとした燐光を無視すれば、ただの闇だ。

 蕩けるような、闇。

 それこそ彼ら魔物が外界に垂れ流すあの“闇”のように。

 真っ黒で。

 沈みこみそうになる。

 感覚が一切掴めない、忌々しい場所だ。

(……場所、とも言わないかしら)

 気を緩めれば直ぐさま溶けそうになる思考をなんとか動かして、彼女は小さく、唇を噛んだ。

 

 どこだ。


 闇色の地に、魔物の体内に、手の平を押し付けて、アルマリアはその美しいかんばせを歪ませる。

 漆黒の髪が揺らぎ、舞い、彼女の表情を隠す。


 呻き声、が。


 心臓を掻きむしられるような壮絶極まりない呻きが耳朶を打ち鳴らす。これが魔物だ。これが魔物の叫びだ。憎悪だ。快楽だ。——決して食物連鎖に加わる生物には否定し切れぬ、食欲だ。


(————いいえ)


 狂ったような呻きに騙されるな。これは、食欲でありながら、快楽。生存本能でありながら悦楽。

 人の血肉を喰らい魂を貪ることへの尽きぬ欲。

 残虐なる魔のものの、唯一確かな感情。


 アルマリアは深く息を吐き、それからぐっと立ち上がった。黒の上を歩く。ずぶり、ずぶりと。決して快いとは言えぬ感触を耐えて進む。

 

 魔物というのは、大抵獲物を丸呑みにする。

 その体を溶かし、最も好み欲した“魂”を喰らうのだ。

 だから彼らにとって肉体はあまりご馳走にはなり得ない。ごくたまに人体の一分を好んでわざわざ剥ぎ取って摂取する外道——魔物に道も何もないかもしれないが——な趣味を抱くものもいるが、少なくとも、この歪んだ熊のような魔物にはない。現に今彼女を呑み込み溶かしてしまおうとしているのだから。むしろそういう死体を喜ぶのはヴィルヘルムの方ではなかろうか。

 


「……ヴィル、ヘルム様、は」


 大丈夫かしら。

 ふと、アルマリアは身を震わせた。自分は良い。きっと、否、おそらくここから抜け出すことも助かることも出来る。この身体は、そういう風に(・・・・・・)出来ている。

 だが、ヴィルヘルムはそうではない。たとえ聖王家の血をもってしても、喰われてしまえば終わりだ。ヴィルヘルムはアンベラルサーの獲物ではない。少なくとも今は、だが。

 獲物ではない限り、彼らは出来うる限りの残虐性を駆使して人を喰らうだろう。

 昔からそうだった。理由など分からない。解明することなんてもっと無理だ。出会えば逃げ切るだけでも僥倖であろう生物を前に、どうして捕獲など出来ようか。

 ただ、人が絶対に分かっていなければならないのは。

 魔物が人の魂を好むという、一点だ。

(聖王国の方々は、魔物の存在すらお知りにならないようだったけれど……)

 耳鳴りが酷い。引きちぎられそうな気分だ。けれど、この音が近ければ近いほど、“隙間”がある。

 魔物の最も弱い部分。



 

 ————————————ぃいん、




 耳障りな音が、心臓を痛打した。

 鼓動が早くなる。アルマリアは思わず耳を抑えて、ぐっと目を瞑った。——怖い。何年経っても、何度このような目にあっても。恐れをぬぐい去ることなど出来はしない。

 だからアルマリアは、いつも思い浮かべる友の顔を思い出そうとした。

 けれど。


 思い浮かんだのは、穏やかに微笑むあのひとの顔で。




「…………………………ぇ?」



 

 耳鳴りが止む。これはどういうことだろうか。まさか聖王家の力だとでも?

 ——いいえ、いいえ。

 それよりも。

 瞼を押し上げる。浮かんだ顔を反芻する。


 どうして。


 どうして、ヴィルヘルム様、を。

 私。


「どう、して」


 分からない。これは何。どうしてクロを思い出そうとしたのに、ヴィルヘルム様を。

 ぐるぐると頭が混乱する。混乱して混乱して。

 だけど全く分からなくて、彼女はその疑問を取りあえず胸の奥に仕舞っておくことにした。……そうよアルマリア。今はそんな些事を気にしている場合ではないわ。

 決意を新たに、再び膝をつく。そろそろと手を這わせて、唸り声を確かめる。

 

 どくん、と手の平の下が脈動した。


 懐をまさぐる。陶器で出来た、真っ白の短刀を取り出す。それから抜けるように透明な液体が入った、清潔な瓶を。

 瓶のコルクを抜き、手の平の下に慎重に垂らす。——ズン、と唸りが酷くなった。怒り狂うように、激しさを増す脈動。その恐ろしさを無視して、今度は短刀の鞘を抜く。

 白刃が闇に光った。

 ふぅ、と息をつく。

 そうしてアルマリアは袖の奥に隠れた、雪のように白い腕の内側に刃を当てる。


 躊躇いもなく、彼女は刃を走らせた。





 *





 

「————!」


 背筋に悪寒が走る。クオルディスは額を覆い、止まりかけた息を浅く吐き出した。


「クオルディス様? 如何なさいました? 顔色がお悪うございますよ」

「気持ちの悪い雨ですからね。少々休みましょうか?」


 踞りかけた彼に、エンナとリカルドがそれぞれ案じてくる。クオルディスはなんとか苦笑を返して、大丈夫ですと首を振った。

 そう、大丈夫だ。

 自分、は。


(アルマリア様……っ)


 何だ。何だ今のは。

 彼女の身に何が起きた?

 あの魔物の闇に連れ去られた時ですら、何もなかったのに。

 何故、今。


「クオルディス様、本当に大丈夫ですか?」


 恐る恐るエンナが聞く。控えめなのはおそらく、クオルディスが曲がりなりとも貴族だからだろう。最近の貴族というものは、本来の己の位置というものを忘れがちな傾向にある。嘆かわしいことだ。

 霧雨に濡れべたつく髪を無造作に拭い、クオルディスはもう一度、大丈夫ですと答えた。


「すみません、ご心配をおかけしました」

「いえ、殿下に比べれば全然ですので。お気になさらず」

「比べる相手が間違っているぞ……。クオルディス殿、本当にきつくなったら仰ってください。我々はわりと強行軍になれていますが、それ故加減が上手くないのです」


 リカルドが微かに眉を寄せて言う。それでも軍人然とした面持ちなのが可笑しかった。

 クオルディスは手近な樹に片手をついた。……ぬめっとしていた。

 

 マリーシャ。


 遠い、空の彼方へ消えた、彼女の心を憶う。

 僕の妹。同じ願いを抱いた肉親。母の想いを継いだ者。


 分かっている。

 おまえの願いは分かっている。

 だからどうか、君だけでも安らかにいてくれ。

 

 

(……頼むから、この雨がおまえの憤りでないよう祈っているよ)




 まるで叱りつけるような嫌な雨に、彼はげんなりと肩を落とした。かぶりを振り、思考を切り替える。


「————エンナ殿、まだ見つかりませんか?」

「ううん……、もう、少しな気はするのですけど。…………なぁんか、嫌な気がばっしばしするんですよねぇ」


 むむむ、と顎を掴んでエンナは考え込む。が、足はざかざかと前へ進む。まるで迷いない進度だ。


「……あの、リカルド殿。本当に何故エンナ殿は、」

「ああ、ですからあれは野生のカンのようなものですから。あまりお気になさらずに。というか殿下のご趣味同様、首を突っ込まない方がいいもののひとつです」


 クオルディスが問いかけた疑問を、リカルドはあっさり退け、はははと乾いた笑みを浮かべる。聞くな、とでも言いた気な表情にクオルディスはそっと目を逸らした。

 と、ふいにリカルドの眼差しがきつくなった。エンナを見れば彼女も険しい顔をしている。


「…………クオルディス殿、走れますか?」

「——、はい」


 問うことなど必要なかろう。

 返事を聞いた瞬間駆け出した二人を追って、クオルディスもぬめついた大地を走り出した。

 一直線に。








  *





「————ふぅむ。無理は貴女の美徳だが、し過ぎて良いものではないと。何度言えばわかるのだろうね」



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ひっそりこっそり実のない小話。(お返事は更新報告にて)
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