街中の聖女 10
気付いた事実にぼんやりとするアルマリアの手を、なだめるようにヴィルヘルムが覆った。
ほんの少し、心苦しそうな表情で。
「むしろこの国の事件に、異国からきてくれたばかりの貴女を巻き込んでしまったのでしょう。こちらこそ申し訳ない。エビリスの方々に、合わせる顔がありませんね」
「! そん、」
「それから」
反駁しようとして、つん、と額を突かれた。やっぱり、ふっと息がしやすくなる。
眼差しの先には死体愛好家の名に全くふさわしくない穏やかな微笑。
「私は、もしかしたら貴女を護れないかもしれない、と言いました。けれど」
けれど?
首を傾げるアルマリアの雨除けをくぐって、ヴィルヘルムの指が耳たぶに触れる。そっと、頬を撫でられる。
「けれど、出来うる限りで私は貴女を守りましょう。何故なら貴女は私の妻なのですから」
雨が、止んだ気がした。
否、それはただの錯覚で、ともすれば魔物の“闇”が近づいてきたせいかもしれない。だがアルマリアにとってそんなことはどうでも良かった。
極上の絹糸のようだと歌われる、アルマリアの睫がやにわに震える。
この方は。
魔物に狙われ愚をおかしたこの身を守るというのか。
ただ、アルマリアという人間を。
妻というだけで。
(……そんな)
喉が震える。それはおかしなことだった。途方もない、言葉のように思えた。そもそも騎士でもなく近衛兵でもなく、この国の最も上の立場にある血を引いた人間が、口にする言葉ではなかった。
エビリスではこのようなものは捨て置く。それが普通なのだ。自衛は悪ではない。たとえ悪だと誰が言っても、アルマリアは思わない。この身で受け続けてきた恩を返せるならば、喜んで差し出そう。何度だって。
だが、だが、だが。
ひゅう、と嫌な風が吹いた。ぶわりとうなじから脂汗が吹き出す。ちりぃん、と耳障りな鈴の音が響く。ずっと聞こえてこなかった嗤い声も。アルマリアは自然と懐を押さえていた。
そうして、喘ぐように、呟く。
「そん、な」
そんなことがあって良いものか。
アルマリアの替えなどいくらでも効くだろう。だけど彼はそうではない。聖王国リュファーニアにとって、この先ずっと、魔物のいない国として彼の民が幸せであるように。なくてはならぬ存在。
————その血に含まれるものすらも。
だけど。
だけど、嬉しい。
エビリスの白雪姫。そう、嫌遠される自分に。
そんなことを言ってくれるひとはいなかったし、言って欲しかったわけでもなかった。だけど、ヴィルヘルムが、アルマリアのことを妻と呼んでくれたのが嬉しかった。そうやって、あんなに死体に愛を注いでいるようなのに、それでも目を向けてくれたのが嬉しかった。
なんて恥ずかしい。そんな場合じゃない。——今にも、魔物はそのあぎとを開く。
「アルマリア?」
「……ありがとう、ございます、ヴィルヘルム様。ですが、お願いします。そのお気持ちだけで充分です。どうか、逃げてください——少しでも」
胸元を押さえる。
大丈夫。
私は大丈夫。
だって散々クロに助けてもらった。散々、魔物に狙われてきた。
にっこりと、アルマリアは微笑んだ。
艶やかに。
「殿下、もうひとつ、お願いしても良いでしょうか」
「……ヴィルヘルム、ですよアルマリア。——何でしょう」
やっぱりヴィルヘルム様は食えないお方だわ。
心内で苦笑して、だが見た目だけはそのままに。アルマリアはヴィルヘルムの耳元に口を寄せた。
「————、————」
ヴィルヘルムの愁眉が訝し気に寄る。どういうことかと問われる前に、一歩、後ろへ下がってアルマリアは彼から距離をとった。
目を剥き手を伸ばす王子に雨除けを投げる。
預けさせてください、と囁いて。
————みぃつけた、
笑み綻んだ口元をそのままに、ゆっくりと振り向いたアルマリアを、巨大な熊の姿をした魔物が呑み込んだ。
*
「————ッ」
がくんっ、と長いベールを羽織った女が、入り組んだ街路の狭間で膝をつく。途端に噎せ返るような甘い匂いが霧雨の中に混じっていく。彼女はその秀麗な面を歪めて、苦し気に口元を押さえた。
りん、りりん、と街の表に出る店のベルが、閉店を示すように鳴り響く。ざわめきがどっと彼女の耳に押し寄せて来る。
その、ほとんどが幸せなさざめきの中。
獣が唸るような耳障りな声が路地に充満する。
ゴミ捨て場を兼ねるこの路地は、ただでさえ良い匂いがしない。だというのにさらにその甘い匂いが溜まっていく。
そんな臭気に包まれれば堪ったものではなかろうに、彼女はそこから動かない。
頽れるようにして、細い身体を折り曲げながら、己を蝕む苦痛に動けずにいる。
「……? あんた? ————おい、大丈夫か!?」
荒く息を吐く彼女に気付いた、店仕舞いをしていた男が驚いたように駆け寄っていく。慌てたような手振りで近づく彼に、彼女はふわりと朱唇を笑みに形作った。
「……大丈夫、です。お気に、なさらず」
そんなことを言われても、と眉を寄せる人の良さそうな男の目から逃れるように彼女はゆっくりと立ち上がった。
「あ、おい……動いちゃ駄目なんじゃないか?」
「いえ……本当に大丈夫なので……では」
戸惑う男をおいて足を引き摺るように歩き去り、彼の目が届かぬ位置までいってから、呻く。
「…………お、のれ……っ」
*
「こっち! な気がするわリカルド!」
「エンナ、あんまりキレるな……さすがに殿下もこんな時くらい、」
「落ち着いてられますか! あああああのバカ王子は、こういう時こそ本領発揮とばかりに輝く爽やか笑顔でおぞましいことするのよおおおお!」
「いや、そん」
……なはずはない、と言えなかったらしいリカルドである。
クオルディスは呆れた風情で二人を眺めていた。……ここまで主を罵れるとは、いっそあっぱれというべきか。というか何故殿下はこんなに信用があらせられないのだろう。クオルディスは遠い目になった。自国の第一王子象が崩れていく。
死体愛好家ヴィルヘルム。そのあざなを知らぬものはこのリュファーニア内において数えるほどしかいないだろう。だが、そこまで末期とはさすがに思っていなかった。
(……別に、おかしな方ではないように思えるが)
医学部で死体解剖をざくざく行っている彼の感覚は微妙にズレていた。
「…………」
ふと、医術服の白い胸元を握りしめる。雨に濡れたそれは、あまり良い感触ではなかった。だけど、そんなことは気にならない。前で不穏なことを呟き始めたエンナが止めるに止められずにいるリカルドの手を焼かせている。
鈍い、痛みが奔った。
『兄様、あのね、もうすぐね』
くすくすと、嬉し気に微笑いながら、秘密を打ち明けるようにして囁いてきた妹の姿を、今もよく覚えている。
朗らかに笑う姿は、我が妹ながら可愛らしく、意外にも、困ったものだと苦笑を禁じ得なかったほど行動的でしたたかだった。
それは、彼と、彼の妹と、今は亡き母と三人だけの秘密。
舌を噛み切りたくなるような哀絶とは正反対の、微かな、——だが確実にそうと理解させられる痛み。
仄かに身体の芯が熱い。
それは、遥か遠い、母様の話。
歌うような、母の語り口を覚えている。目を輝かせて、強さを求め始めた妹の心底幸せそうな顔を覚えている。
「……マリーシャ」
あともう少しだったのに。
あと、ほんの、数日。
おまえが生きていれば————
「——そう思いません!? クオルディス様!」
エンナの呼びかけに、クオルディスははっと我に返った。
「え、あ——はい?」
「ですよね!」
「ちょっと待てエンナ。クオルディス殿は多分聞いていらっしゃらなかったと……」
「リカルド。あの王子の性格をあなたはよおおおおく知っているでしょう。なんと、しても、取っ捕まえなきゃいけないのよ!」
だから主旨が違う。
そう言いたいのだろうリカルドが、情けない顔で額を覆う。
クオルディスはなんとなく微妙な気分になった。
(……なんというか……)
「エンナ殿、殿下の前に、まず魔物が……」
「魔物より殿下の方が危ないに決まっているではありませんか」
きっぱりとした迷いなく口調に、クオルディスは黙らざるをえなかった。
……それは侍女の発言として間違っているんじゃなかろうか。
思ったが、やはり彼は何も言えなかった。
とりあえず、ぬかるみにずるっと足を滑らせそうになったエンナを慌てて支えるリカルドが、さらにこけそうになるのを支えることに専念したのだった。
ふぅ、と白煙が揺れた。
まるで煙突から漏れ出る煙のように。
それは、鮮やかな色をした紅茶から溢れていた。だからそれを白煙というのはいささか語弊があるだろう。その白い湯気は細くたなびき、やがて影の薄い青年のもとまで届く。
「……空気が、悪いわ」
清廉極まる部屋の中で、真白と表現するに似つかわしいその美しさ。
清楚な一室で一点、清艶な彼女は、眉ひとつ動かさずに呟いた。
ふ、と笑声。
同時に僅かに張りつめていた空気が緩む。そして、細く細く流れていた湯気は一瞬で丸まり、またふわりと揺れ動いた。
「まったく貴女は少々の変化にも敏感だ。少しはその繊細な図太さを反転させたら如何かね」
無礼と彼女なら手打ちすることも出来よう台詞にも、何の感情も示さない。ただ、音もなく上等な紅茶を含むだけ。
その様子を、しかしこちらも全く気にせずに飄然と青年は笑みを刷く。
ゆらりと、その薄い影が揺れた。
室内の大きな姿見の前で、彼は酷く曖昧に映っている。
「……いつも思うのだけれど」
「うん?」
「おまえの存在は著しく名とずれてはいないかしら」
沈黙が降り積もる。
「————それこそおかしな発言だ。この身がどういうものかなど、一体何の意味があるのかね?」
くすくすと笑う声は微かに低く、微かに高い。
どうにも印象に残り難い不可思議な声だった。
彼女が黙すると、彼はふっと口を閉じてから、その蒼い瞳を細める。
「————あの子は相も変わらず、厄介なものに好かれるようだ。自ら突っ込んでいる気がしないでもないがね」