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純情白雪姫  作者: 祭歌
第三部 街中の聖女
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街中の聖女 8

 ごう、と闇が迫りくる。

(————きた)

 痛む頭を押さえ、覆い尽くそうとしてくる闇を睨む。


「え、な、何ですかこれ……!?」


 エンナが狼狽し、ぐいっとリカルドの服の裾を掴む。そのリカルドはいまいち事態を理解していなさそうな表情で隙なく構えていた。さすがはあの王子の近衛隊隊長である。

 

 ——喰う、

 ————喰う、

 ——————————ちり、ちりりん、り、

 ——喰ろうて、く、

 ——喰ろう、て、やろう、ぞ、ふ、ふふ、

 ——おいで

 —————————りり、りん、りりり、りり、

 ——おいで、くふ、ふ、

 ————おいで吾が獲物、


 ————く、ふ、くふふふふふふふふふふ、



 ぞわりと肌が粟立った。

 アンベラルサー。

 鈴を持った人食い熊。

 いまだ終ることなく浸食し続けるこの闇は、おそらく獲物を正確に捕らえるためのものであろう。決して、取り逃さないように。——捕まえ、いたぶり、なぶり喰らうために。

(逃げなくては……——逃がさなくては!)

 どう考えてもこの場合悪いのは自分だ。あの“匂い”と感覚が何か確かめたいがために、こんなところまでやってきて、むざむざ魔物を誘発してしまった。まさか、聖王国で、こうなるとは——ほんの少し訝ってはいたが——ないだろうと高をくくっていた。なんてこと。なんてことなの。

 ……どうやっても、自分は、魔物に追われる性質なのか。

 口内に苦い味を広がる。——来ない方が、良かった? けれど。

 あの、無惨な死に様が脳裏をちらつくのだ。

 同時に本能が、直感が、警鐘を鳴らす。行かねばならぬと。行かねばもっとどうしようもないことになると。


『貴女のそれは、貴女だからこそ持ち得る生きるための術であろうよ』


 ……遠く、懐かしい声がした。

 泣きそうになる。

 そうだ。これは。

 アルマリア=フラットランド=ラ・エビリスの義務。

 あの魔物に侵された国で、もっとも魔物に付け狙われてきた自分の。


「————走ってください」


 どん、とアルマリアはリカルドの背を押した。

 エンナが吃驚したように目を見開く。そこからは、あまり恐怖は見えなくて。だから、アルマリアは少しほっとして、いつものように柔らかく微笑う。

 紅茶をありがとう、と言うときのように。

 生憎アルマリアの力ではリカルドはびくともしなかったが、眉根を寄せたクオルディスに腕を引っ張られると、さすがの近衛隊長もわずかによろめいてしまっていた。

 咎めるように睨みつけるリカルドの視線を全く意に介せず、クオルディスはじっとアルマリアを見据えた。

 アルマリアは首を傾げる。

 ……何か、今、彼の目に複雑な色が過った気がした。

(まぁ、非常時ですし)

 広がる浸食に侵された腕を見る。まるで絡み付くように、黒い影がアルマリアの白い肌に染み込んでいた。眉間に皺を寄せるが、これが獲物以外のものにつかなくて良かったと、微かに安堵する。


「アルマリア様」

「ありがとうございます。お願いしますね、リカルドさん、クオルディスさん」

「っアル、————」


 


 ————く、ひ、くふふふふ、

 

 おいで、吾が獲物




 闇が加速する。

(——ええ)

 アルマリアはぐっと奥歯を噛み締めた。

(ええ、——返り討ちに、して上げましょう)



 ——そして暗黒に呑み込まれる。





   *



 こつ、と踵の高い靴が白い石の道を叩く。

 ふわりと木苺のような香りが漂い、噎せ返るような薔薇の匂いが充満する。

 灰色のストールがたなびく。

 厚い布製の、妙に長いベールは、降り続ける雨に濡れていた。

 傘もささずに、彼女は歩く。踊るように。

「————せいぜい、苦しむがいい」

 赤い唇が、苦し気に歪んだ。



  *






 どすん、と尻餅をつく。濡れた地面を拳が滑る。ぬるぬるとしていて気持ち悪い。

 絡み付く闇を気にしながら、アルマリアは立ち上がろうとし、————


「あいたたたた……」


 ぴしりと動きを止めた。

 零れ落ちそうなまでに目を見開いて、彼を凝視する。


「ヴィ、ヴィルヘルム、様……?」


 茫然と呟けば、ヴィルヘルムは痛そうに腰をさすっていた手を上げ、にこやかに微笑んだ。


「ああアルマリア。貴女は大丈夫でしたか?」

「————な、」


 りぃん、と鳴る鈴の音すら気にならない。

 わなわなと唇が震え、ざぁっと彼女の顔色は青ざめた。


「何故あなたがここにいらっしゃるのですか————!?」


 ヴィルヘルムはにこにこと、ただ笑っていた。





「ッ、クオルディス殿! 何故妃殿下を……!」

「それをあのお方がお望みになられたからです。それより、あなた方は殿下をご心配なされるべきでは?」


 一見無表情なクオルディスの言葉に、エンナとリカルドは揃って「そんなことどうでもいいんです!」と喚いた。あきらかに主君に対する敬意とか情とか信用とか色んなものが欠落している臣下である。

 クオルディスは微妙に呆れたような面持ちになった。それを見て、エンナは思考する。

(……殿下はおそらく、アルマリア様とともにあの何だかよく分からない気持ち悪いことこの上ない闇に呑まれたんでしょう。ということはお二人は一緒、と見て……いいの? それとも一緒に呑み込まれても出る場所は違うとか? ていうかあれってまさか魔物の口だったりしないよね? ちょっとだったらどうしよう絶対胃袋の中であの馬鹿王子は死体漁りし始める——いやもしかしたら死体になりそうなアルマリア様を愛で始める!? あの変態的で変態的で変態的な愛で方で! いーやー! それ駄目! 絶対駄目! ありえない!)

 ああああああどうかこんな時くらいその阿呆な性癖はしまっときやがれあんの変態男! 

 大分口調も思考も入り乱れ、エンナは変態行為をする王子を勝手に想像して怒りをたぎらせた。


「リカルド!」

「うわぁっ! な、何だ」

「いきましょう今すぐ行きましょういいから行きましょうさもなくばアルマリア様があのド変態の魔の手に! 魔手に!」

「ド変態って殿下のことか…? でもさすがにこんなときに……というか何故」

「こんな時だからこそ死体を探し始めるんですよあのド変態野郎は! 早く! 早くアルマリア様をお助けしなくては……っ!」

 

 エンナの中ではこんな状況下でさえ魔物より王子の方が危険度の高い存在なのだった。

 ぐっ、と拳を握りしめる。

(アルマリア様、今エンナが助けに参りますからね! どうかそれまではご辛抱ください…!)

 あくまで「ヴィルヘルム王子」を危険視しての思いである。


「…あの、エンナ殿は何故そういう思考回路に……?」

「あれも私同様、殿下には苦労させられてきましたので……」


 そっとしておいてやってください、とリカルドがほろ苦く言った。そしてすぐさま眼差しが真剣味を帯びる。


「お聞かせ願えますか、クオルディス殿。何故、あなたは妃殿下のお言葉に従われた? どんなにそう妃殿下が望まれたとて、あの場にかの方をおいていくべきではなかった。少なくとも、私は傍にあらねばならなかった。——これでも、近衛隊なので」


 あの時、残ろうとしたリカルドは、クオルディスの思いがけない豪腕によって思いっきり先へと押しやられた。とんでもない失態だが、それはあとで諌められるべきで、今は彼らを探し彼らの安全を確保すべきだ。そして。

(この男……——)

 本当に妹のためにここまできたのか?

 アルマリアに対する態度が、何か、あまりにも忠実過ぎる気がする。

 と。


「私が妹の仇のためにきたのは本当ですよ」


 まるで心を読んだかのような答えが返ってきた。


「ただ、——アルマリア様がそうすべきだと仰った。たとえそれが私にとって望まぬことであっても、この血は逆らえない。それに、」


(血…?)

 一体、何のことだ。

 王家に対する、という意味ならば、それはヴィルヘルムにも向けられるはず。だが、彼のそれは自国の王子にではなく、嫁いできた可憐な姫君にのみ、向かっていた。

 訝るリカルドに、クオルディスは本日はじめての笑みを浮かべる。


「幸いなことにも、今は殿下がお傍にあらせられる。ならばきっと問題ないのでしょう」


 ……どうにも凶悪そうにしか見えない笑みだった。





    *


 真っ白な湯気が、陶器の器から立ち昇る。

 フォークすら持ったことがないのではなかろうかと疑ってしまうほど華奢な繊手がぱたりと本を閉じる。

 薄藍に染まる窓外を見て、彼女はその麗しいかんばせを微かに曇らせた。


「……あの子は、どうしているかしら」


 ぽつりと零れた呟きに、密やかな笑声が部屋中に広がる。


「————おや、貴女が追い出したのだろう? 今さらじゃないかね」



 いやに楽しそうなその声を無視して、彼女は無表情に白磁のカップから、抜けるような朱色の紅茶を口に含んだ。

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ひっそりこっそり実のない小話。(お返事は更新報告にて)
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