街中の聖女 7
握りしめた手が、熱を帯びる。
心臓がばくばくする。だけどこれは、あの婚礼の日に感じたようなものではなく。
(はやく、————はやく言わなくちゃ)
あれがやってくる。
私を、喰らいに。
「リュファーニアを『聖なる国』とお呼びするならば、エビリスは『魔性の国』です」
ぎょっとエンナが目を見張る。それを横目に苦笑してみせてから、アルマリアはやや早口に続けた。傍目には何の変わりもないように。
ヴィルヘルムから抜いた指で、エンナ、クオルディス、リカルドの順に彼らの手を握っては離していく。一瞬奇妙な感覚がしたのは、おそらく気のせいだろう。アルマリアは見掛けは淡々と、言葉を紡いだ。
「地形と、加護の問題でしょう。リュファーニアと違って、エビリスはあまり開けた国ではありませんし、何故かは知りませんが、昔からよく魔物が出るのです。こんな分かりやすい森だけではなく、祠や街の死角にも」
最も守られた場である王宮にさえも。
「……魔物は、もうほとんど滅びたと、聞きますが」
信じられないという表情でリカルドが茫然と呟く。だが彼はあの異質な音を聞いた。そしておそらく。
「先ほどから私にだけ響くこの音は、魔物が的として定めた人間に鳴らす、彼ら独特のマーキングかと思います。生憎、私は魔物ではないので、正確なところは知れないのですが」
きぃん、きぃんと響く耳障りな音に共鳴して、さらに恐ろしい、胃を引き裂くような狂声。
「そして、今私に狙いをつけたこの魔物はおそらく、——アンベラルサー」
リカルドの武人にしては理知的な目をひたと見据える。
「鈴を持った、人食いの熊のような姿をした魔物です」
彼は、あの狂声を聞いた。
……アルマリアが最後に握った手は、彼のものだったからだ。
アルマリアは唇を噛み締めた。もう、時間がない。あれは、直ぐ傍まで近づいてきている。
なんてこと。
なんてこと、と彼女は苛立ちにも似た感情に白く細い指を握りしめて赤く染め上げる。まさか、魔物の存在すら滅びたと認識している国で、本当に出るなんて。おかしい。こんなこと、あるはずがないのに。あってはならないのに。どうして。どうしてなの。
(私の……)
私のせい?
じわじわと抱いていたそれは、破裂するように膨れ上がる。罪悪感と失望。まさか、そんなことはないだろうと。否定しその考えをなくしてしまいたいのにそれは粘り強く彼女の頭にこびりつく。
アルマリアには、この美しく穢れを厭う『神聖な』王国で、こんなものが出たのは、自分のせいに思えてならなかった。彼女が異国の人間だからそう思うのではない。
アルマリアは、そういう性質なのだ。
昔から。
ずっと。
あの綺麗な綺麗な牢の中で、怯えていたように。
他国に移ったくらいでは、何の意味も成さなかったのだ。それほどに、この性質は厄介な、もの。
(————……いいえ、)
深く沈んでいった思考から無理矢理現在へと切り替える。今は落ち込んでいる場合ではない。
「殿下、」
「ヴィルヘルム、ですよ。姫?」
「……ヴィルヘルム、様。今直ぐこの森の北に走って下さい。エンナとクオルディスさん、リカルドさんと一緒に」
「————……は?」
こんな時でもいちいち訂正する夫の妙なこだわりに脱力しかけながら、きっぱりと願う。
眉を跳ね上げて変な顔をするのはヴィルヘルムだけではなかった。
「ひ、妃殿下? ちょっとお待ちください。まさかあなたは反対に逃げるなんて申されるわけでは……」
「あら。その通りです、よく分かりましたね」
これから言おうと思っていたのに。
吃驚して小首を傾げると、リカルドは真っ青になった。エンナなんて泡を吹いている。ぱたりと雨除けから雫が滴り落ちて、水たまりにひとつ、より大きな波紋を作った。けれどそれも広がれば広がる程天から降る雨が水たまりをその叩く。
アルマリアは唯一顔色の変わらないクオルディスに向き直った。
「ごめんなさい。あなたは妹さんの為にいらしたのに、要らないご迷惑をおかけして」
「何をおっしゃいます。僕は好きできているのです。貴女様がお気になされることではありません」
ぴしゃりと切り返され、面食らいながらも「でも、ごめんなさい」と呟く。この方、こういうひとだったかしら。もっと暑苦しい人柄だと思っていたのだけれど。と、そこまで考えて彼がここまで随行出来た経緯を思い出す。……いえ、こんなひとだった気もするわ。
雨足は強くなっている。暗い緑の葉はしっとりと濡れ、先から大粒の雫を零している。涙のようだ。
——涙。
ふと、アルマリアはエビリスの王妃の顔を思い出した。彼女の、綺麗で苛烈な瞳を。
「そんなことよりアルマリア様! 駄目ですよ何だかよく分かりませんが逃げなければいけないのなら一緒に逃げましょう!」
必死な表情に、再び、苦笑が漏れる。優しい侍女。もしエビリスであったなら、魔物に目をつけられた人間は真っ先に忌避されるだろう。特に、それが毎度のことであるならば。
「いいえ。魔物は、『餌』に対して、そう性急に事を運ぶことはあまりないのです。どうしてだかはやっぱり分からないのですが。ですが他の『餌』以外の人間は彼らにとって道にひっそりはえる雑草と同じです。踏みつぶしてしまうか、深く考えずに食べてしまうでしょう。ですから」
ですから、とアルマリアは微笑む。
「ですからリカルドさん、どうかヴィルヘルム様方を連れて、お逃げ願います」
「————……!」
針を呑み込んだような顔だ。
まるで一生の別れのような表情。大袈裟だ。この国は魔物に免疫がないからそうなのかもしれないけれど。
「リカルドさん、お願いします。私はエビリスの人間なので、こういうことは慣れております。ですがあなた方は違いのでしょう? ならばあなたは早く、この国のお世継ぎ様をお守りするべきでしょう」
「————出来ません!」
鼓膜が震えるような大喝だ。びりびりと耳が揺れる。これは、近衛隊の人間も鍛えられていることだろう。すごいわ。アルマリアは怖いと思いつつズレた風に感嘆してしまった。が、彼女自身ズレたことに気づいてはいない。
「お願いします。私は大丈夫ですから」
「こんな王子はほっといても生きてます! 大丈夫です! 一番不安なのは貴女様なのですよ妃殿下!」
「おいちょっと待て。さりげなく酷いことを言ってないかおまえ」
「殿下、事実でしょう。そんなことどうでもいいのです! 私もリカルドに同意ですよアルマリア様!」
「おまえたちな……」
「————何故、アルマリア様は一緒に逃げられないのです?」
喚き立てる武官も侍女も突っ込む王子ともども無視して、クオルディスが思案気な面持ちでアルマリアを見た。
ゆっくりと深呼吸する。
「目をつけられた人間は、そのマーキングのせいで彼ら自身の鼻にしかきかない独特の匂いを放つのだそうです。そうなればどんなに逃げても逃げ切ることは出来ません。王宮にだって追いかけてきます」
クオルディスが藍色の目の片方を瞼の向こうで丸くした。どうにも気取ったように見えるのは彼自身の奇妙な空気のせいか。
「そんなに……————?」
だから早く逃げて、とどんどん大きくなる音と笑声に祈るように指を握り込む。
「……アルマリア、駄目ですよ」
不意に心臓が止まりそうになった。
困ったような、穏やかで優しい声だった。あの狂った笑声を一瞬、かき消すほど。
ヴィルヘルムは声のままの柔らかな眼差しでアルマリアを射る。……どうしてか、アルマリアは彼のこの表情に、この声に、この眼差しに弱かった。気張っていた気持ちが緩んでしまう。このままのどやかにお茶が出来そうと錯覚してしまうくらいには。
ふわりと頭を優しく叩かれる。ぽん、ぽんと撫でるように。
「それは駄目です」
「何故で……——」
問いかけた時。
ずくん、と額のあたりに激痛が奔った。
金属音が幅を狭める。喰らい尽くすような獣の笑い声。
刹那、闇色の影がアルマリアの背後から駆けた。
まるで視界の全てを覆い隠すように、伸びて。