街中の聖女 4
「あら」
雨が降ってきた。
アルマリアはぽつ、ぽつと勢いを増す雨粒が降る空を仰いだ。
ぽつ、ぽつ。
ざぁ、と。
瞬く彼女の瞼に、睫毛に、雫が降っては弾け跳ねる。
ぎしっ、と固まっていたエンナが慌てたように駆け寄ってきて、自分の上着を頭に被せようとするのを、アルマリアは苦笑して断った。
故国ではよく雨が降った。
ふと窓の外を見ていればいつの間にか雨の筋が出来て、庭にいればそれは彼女を濡れ鼠にする。
アルマリアは、それが決して嫌いではなかった。
だから。
「大丈夫、慣れていますから」
不思議そうな顔をするエンナが可笑しくて堪らなかった。
リカルドはアルマリアが言った言葉を理解出来なかった。
というか信じたくなかった。
「ま、————ひ、姫、待ってくださ」
「リカルド、妃殿下、だ」
「えぇい煩いですね何細かいこと言ってんですか————ていいんですか! あなたの伴侶でしょうが!」
「駄目だし出来なさそうだから諦めているんんだろう」
はぁ、とヴィルヘルムがため息を吐く。
リカルドは戦慄した。
(こ、この周囲に迷惑をかけまくりしかしそれをまったく気にもとめずまるで爽やかに笑っている傍若無人王子が! 諦め!? )
そりゃあ変死体が出てもおかしくなかろうよ!
そんなリカルドの心の叫びには気づかず、彼はまるで普通のヒトのように、首を抑える。こき、と鳴らして、優雅に雨の中というに足音ひとつたてずにアルマリアへと近づく。
「アルマリア」
「はい」
ふわり、と春の花のように柔らかに、清艶に、美しく彼女は微笑む。
不覚にもリカルドはどきりとした。
何か侵し難い色をたたえた瞳は否を唱えさせぬ真綿のような威力があった。つまり。
「もしかしたら私はあなたを守れないかもしれません。それでも構いませんか?」
「まぁ、ヴィルヘルム様」
雪のように白い手が赤い唇を押さえる。
困ったように。
「当たり前ではありませんか。そこまでずうずうしくありません」
こうなるのは当然のことなのだろう、とリカルドは半笑いした。
……クビに、なったらあの変態王子、一生恨んでやる。
*
雨を洗い落とし、湯浴みをしたばかりで湿った黒髪を丁寧に拭い、清潔な夜着を押し付ける。
新たな主はやっぱり苦笑して、少し申し分けなさそうに着替えを頼んでくる。エンナは、喜んで、と微笑み、無駄のない手つきで着替えさせ、終ると茶器を出して紅茶をいれる。こぽぽぽぽ、という微かな音に、アルマリアが心地よさそうに耳を澄ました。
「どうぞ」
かちゃ、と湯気立つカップを置く。アルマリアは嬉しそうに微笑い、おっとりと礼を言った。
つくづく、珍しい王族だ、とエンナは思う。
大抵の王家の血を引くもの、また上級貴族の類いはいちいち使用人に礼を言ったりしない。ふわふわと頭の緩い表情で貴族同士で談笑し、茶器を運ぶ侍女など見えてもいない。のだろう。多分。
例外といえばあの変態王子ぐらいのものだった。
(……ううん、)
もしや、エビリスでは普通のことなのだろうか。
リュファーニアの貴族が侍女を見ないように。
エビリスの王族は侍女に微笑むのか。
(……どうなんだろう)
女癖の悪い男の貴族は女の使用人を誑かしたあげく無惨に捨てたりする。それは逆も言えることだが、大抵は女が騙されることの方が多い。いや、拒否できないことの方が、と言った方が正しかろうか。そういう輩はたまに見境がなくなり、自分より上の身分だろうが関係なく襲うことがある。けれどこの姫君は決して捕まらないだろう。あの高潔で無垢で清艶な微笑で躱すのだろう。
すごい、なぁ。
本当にそんなことがあったわけでもないのに、エンナはぼんやり感心した。
だって。
少なくとも。
もしエンナが彼女だったとしたら。
危険極まりない森に入るなんてこと、言えないだろうから。
なかなか離れないエンナの視線を訝しく思いつつ、なんとなく諌めることも出来ずに、アルマリアはまんじりとした面持ちで紅茶をすすった。
仄かの林檎の匂い。口当たりはまろやかで、丁度いい温度。なるほど、エンナは紅茶をいれるのが上手い。国歴学の教師が言っていた通りである。
ほぅ、と息をつき。眼を閉じて残像を掘り返す。
赤く染まった無惨な腹。
淀んだ眼差し。
落ち窪んだ眼窩。
ぞわりと背筋を這いずる、あの感覚。
「————……どうして」
呟く。
エンナには聞こえないほどの小さな声で。
どうして。
どうして聖王国にいるの。
——————どうして。
それは確信と呼ぶには拙く、けれど裏返すにも難しい、こめかみを痛めつけるような。
どうか当たらないでほしいと願うような、予感。
暗い森に思いを馳せる。
明日赴く森は果たして、あの森と似ているだろうか。