街中の聖女 3
くたりとよろめいていたエンナだったが、静かに手を組み合わせる主の姿にようやく己を取り戻した。
「あ、アルマリア様……」
おろおろと呼びかけて、自分も同様に冥福を祈ろうとしてが、何故だか傍まで近づけない。
何か、踏み入ってはいけない領域が、石畳三つ向こうで展開しているようだった。
やがてゆっくりと濃緑のドレスが縦に流れる。白く細い指が袖の中に隠される。
アルマリアの背後ではヴィルヘルムが目を閉じていた。エンナは瞬いた。なんて珍しい。
————この国の人間は、誰とも知れず殺された相手に黙祷することは少ない。
平民や商人ならともかく、貴族——上級階級にいる人間は、不慮に弑された人間を厭うのだ。
ただの事故ならまだしも、このような原因不明の事件の被害者は、葬式の時まで祈られることはない。いや、葬式の時でさえ祈られないこともある。
庶民のエンナとしては眉をしかめたくなるような下らぬ陋習だ。気をつけていなかったからだとか、神に許されぬ死に方だというからだそうだが……そんなもの、当人のせいだけではないだろう。
けれど、そんな悪習を知らぬ異国の姫は躊躇いもなく膝をつき、そして元主でありにっくき幼馴染みである変態王子は黙祷している。
……違う。
そういえば、この男は、昔から死体を溺愛しているが、だからこそ————なのかなんなのか、死者に対して敬意を払わなかったことはない。ただ、ある時期を堺にそれを隠すようになっただけだ。
エンナは何だか嫌な気持ちになった。相変わらず好きにはなれないが、嫌いにもなれない。幼馴染みとはそういうもので、大抵相手のことを知り尽くしてしまうから、よっぽどのことがない限り大嫌いにはなれない。ああ忌々しい。せめて一国の王子として、死体を溺愛するあまり自分の近衛隊を『検死隊』などに様変わりさせてしまうような暴挙は控えてほしい。本当にアルマリア様つきになれて良かった。
「————なに?」
リカルドが深刻そうに報告した内容に、ヴィルヘルムがきつい声で問う。アルマリアの両耳を押さえて。
…………。
「ちょっと王子! 何なさっているんですかレディに対して!」
「……エンナ、君がいると話が面倒臭くなるからちょっと向こうに行っててくれないかな」
「んななななななっ——」
「まぁヴィルヘルム様。エンナはとても素晴らしいのですよ? 分かっていらっしゃるのでしょう? そんなことおっしゃらないでください」
「あ、アルマリア様……!」
「アルマリアがそうおっしゃるなら」
なんて素晴らしい主なんだ!
エンナは感動で涙が出そうになった。まさかあの実は傍若無人主を諌めてくれる人間がいるとは。
「———ところでヴィルヘルム様、隊長様」
ふと、硝子細工の鈴を転がしたような、耳に心地よい声が呟く。
水を溜めたような透徹とした眼差しは、両方に呼びかけたにもかかわらず一人だけを射抜いている。
「それでは、明日その森に行かれるのですか?」
「ええ、そのつもりですが……」
「……あの、妃殿下。私めに敬称などいりませぬので」
訝しげなヴィルヘルムに、困惑しつつ冷や汗をかくリカルド。エンナは軽くリカルドに同情した。彼とも所謂腐れ縁、つまり幼馴染みで、裏返せばそれは王子とも幼馴染みだということである。ヴィルヘルムの性格は熟知しているし、またどれだけ彼に振り回されたことか。リカルドはエンナ以上にヴィルヘルムの傍にいることが多かった——というか今もそれは継続されているので多いというべきか——ので、エンナより被害度は大きい。
「では、隊長殿、と」
「いえ、あの」
「……お嫌ですか。それではお名前をお聞きして良いでしょうか?」
幾分くだけた口調でアルマリアが首を傾げると、リカルドはばっと近衛式の敬礼をして慌てたように名乗る。
「はっ。えぇと私はリカルド・デューヒェンと申します。妃殿下にお名前を捧げられること、光栄の極みにございます」
「えぇと、私はアルマリアです。どうぞよろしくお願いしますね、——リカルド、さん」
「はっ」
リカルドが深く腰を折る。周りの隊員たちも隊長に倣うように腰を低くする。アルマリアは困ったように微笑した。おそらく彼らがただ挨拶しているわけではないと、理解しているからこその苦笑だろう。警邏隊の人間はどうすればいいのか分からなさそうに手持ち無沙汰に彼女たちを見ている。
エンナは主同様苦笑しかけて、ヴィルヘルムがうんざりした表情なことに気づき、つい「ざまぁみろ」と思ってしまった。
ぽつ、と何かが鼻先を濡らした。まばたいて空を見上げる。決して暗くはなかったそこには、暗雲が低く垂れ込めていた。徐々に湿気を帯びて来る空気に思わず眉をしかめる。降られそうだ。
「——では、」
アルマリアはたおやかに微笑っていた。
いつものごとく。
大昔から語り継がれる神の愛し子のように。
美しく。
「私もおともします」
……珍しいことにヴィルヘルムが目を剥いて、リカルドが泡を吹いた。
もちろんエンナはさっさと現実逃避し、幼馴染み二人の珍しい光景を堪能していた。
*
分かっていらっしゃるのでしょう、という妻の言葉に彼は心中でひっそりと苦笑していた。
彼女は、ただ従順なわけでも、「お姫様」なわけでもない。見透かすような、だが映すだけで何も受け入れはしないような、深く透明な眼。
相変わらず彼女のその眼を見るとうっかり囚われそうになる。
(死体だったら本当に文句なしなんだが……)
聡く美しくそして世を知らぬ白雪姫。
そんな彼女が、まさかかようなことを言い出すとは。
自分としたことがひっくり返りそうになった。
「……姫? 何、を、おっしゃいました?」
「ええ、ですから」
ぽん、と繊手が叩き合わされる。絹をよりあわせたような滑らかな白。
「私も、その加害者の気配がある————きなくさい、森へいきますね」
市井の言葉をゆうゆうと操りながら、アルマリアは何でもないことのように言った。
*
手弱女の如く微笑しながら、アルマリアは己の冷静な部分が警鐘を打つのを自覚する。
噎せ返るような甘い花の匂い。野の実の匂い。そして、この死体。
ぽつ、と。
一粒、雨が石畳を濡らした。