街中の聖女 1
「素晴らしいですわ、妃殿下」
ふくよかな頬を上気させ興奮気味に唾を飛ばす芸術学の教師に、アルマリアは気のない様子で。はぁ。と呟いた。
ひたすらこの国の歴史————それこそ国起こりから始まる国歴学では寝ないよう必死になり、宮廷舞踊ではリュファーニア特有の滑らかかつ速いステップを失敗しないように必死になり、帝王学で仰天するような講義を聞き、漸く一息つけそうな芸術学になったと思ったら、いきなり絵を描かせられた。
「そう、でしょうか」
しかもヴィルヘルムの肖像。
アルマリアはうろ覚えの表情をぺたぺたと筆で修正しながら、こっくりと首を傾げた。——まったく似てない気がするのだけれど。
「そうですとも!見事な筆致でございます。わたくし、感動致しました…!まさかこんなところでこのような才能と出会えるとは……っ」
くっ、とハンカチで目元を押さえる教師。
「……」
そうですか、と適当極まりない相づちを打って、アルマリアは講義の終了を待った。
あてがわれた部屋に戻り、髪を縛る髪飾りを取ろうとして、それがエンナが結いつけてくれたものだと寸でのところで思い出し、慌てて手を引っ込める。ふぅ、と小さく息をついてからふわりと彼女は背後を振り返った。
「城下に下りたいのだけれど、いかがかしら?」
音もなく佇んでいたエンナは、冷や汗をかきながら一も二もなく頷いた。
いい加減うんざりしているだろうアルマリアの美しい微笑は妙な覇気を滲み出していて、——つまり一侍女に逆らえるはずもなかったのだった。
*
深い緑のドレスは、町娘のような質素さで、およそ姫君が着るようなものには見えない。複雑に結い上げていた髪も今は肩のあたりで緩く縛り、花飾りを一つ二つ、ちょこんとつけているだけである。
それでも多分に上品な見目の彼女は、機嫌良さそうに軒並み連なる店を眺め歩いていた。敷き詰められたクリーム色や赤茶色の、不揃いな石畳を灰色の靴で踏みしめていく。
「あ、アルマリア様。いったいどこにおゆきになれたいのです?」
「あら、私はここに来たばかりなのですよ? 案内して下さいな、エンナ」
ふふふふ、といかにも品良く笑い、精緻なレースが除く扇状に広がった濃緑の袖を口元にあてる。えぇえっ! とエンナは目を剥いて驚いた。アルマリアはにこにこした。にこにこにこにこ。
こくん、と可愛らしく無言で小首を傾げた姫君に、エンナはついに根負けした。
「わ、分かりました。このエンナ、誠心誠意、真心お込めして案内させていただく所存にございます!」
高らかに宣言する侍女にアルマリアは目をきらきらさせた。なんて格好良い侍女なのかしら。
「では、まず…ここを左に曲がったところの、エルストリッド五番街に向かいましょう。あそこは宝飾店や扇子屋や、お菓子のお店がたくさんありますし………、っと」
人差し指を立ててエンナが言ったとき、丁度死角になっていた位置にいた女性と、彼女の肩がぶつかり合った。軽い衝撃に、両方が微かによろめく。アルマリアは目をしばたたかせて、エンナの身体を軽く支えたあと、ぱっと女性の顔を窺いみた。
「申し訳在りません、大丈夫ですか?」
侍女の不手際——とまでいかないが、似たようなものだろう——を主人が請け負うのは当然のことである。だが、アルマリアは特に深く考えずにそう謝っていた。生来そういう性分なのだった。つまり、さっさと謝るに限る主義。
「……ええ、大丈夫です。私の方こそすみません」
小さな、硝子を擦り合わせたような高めの声で女性が呟く。長布で目元が隠れているせいで、いまいちどんな表情をしているのか窺えなかったが、鮮やかな紅唇は穏やかな笑みを形作っていた。
アルマリアはほっと胸をなで下ろし、もう一度謝罪してから「それでは」とまた歩き出した。
ふわりと野薔薇と木苺の匂いが鼻先を掠める。その匂いの、微かな違和感にぴくりと眉を動かせるが、アルマリアは首を振ってその感覚を霧散させた。……きっと、気のせいだわ。
ゆっくりした歩調で進む彼女の横を、エンナがぱたぱたと追いかけた。
ちなみにエンナは「すみませんすみませんすみません!」と女性とアルマリア両方に謝り倒しだった。