Chapter4 「米子15歳 激闘 そして卒業」
Chapter4 「米子15歳 激闘 そして卒業」
予想を遥かに超える速さだった。褐色の塊がクングンと近づく。
『ダーン!』
米子が発砲した。弾丸はヒグマの左前足に当たったが突進は止まらなかった。米子はヒグマのタフさ驚愕し、あまりの恐怖に体が震え、危うく失禁しそうになった。限界を超えた恐怖により脳内に大量のノルアドレナリンが分泌され、防御本能による超戦闘モードになった。いわゆる火事場の馬鹿力だ。米子は全身の筋肉を使って銃を持ったまま横にダイブしてギリギリでヒグマを躱した。目が捉えた映像を脳が瞬時に解析して最適な防御行動をとるための信号を筋肉に送った。感情や思考が介入する余地の無い格闘訓練で鍛えられた反射行動だった。転んだまま慌てて周囲を見回すと30m離れた岩の塊にクラックを2つ見つけた。奥のクラックは漆崎所長が隠れていたものだった。米子は跳ねるように立ち上がると銃を持ったまま全力で奥のクラックを目指して走った。ヒグマが向きを変えて突進してきた。米子は奥のクラックには間に合わないと判断して手前のクラックに目標を変えて走った。クラックの入り口は幅30cmと狭く奥行きは不明だった。米子はクラックに取り付くと体を横向きにしてクラックに自分の体を捻じ込んだ。腕と顔を岩肌で強く擦ったが痛みは感じなかった。クラックの中は掃除ロッカーほどの狭い空間だった。ヒグマが岩に突進してくる。距離は10m、ヒグマの姿が大きくなる。米子がクラックの中からG3A3を突き出して狙いを付ける。ヒグマが立ち上がり、その顔がサイトをはみ出す。ヒグマが大きく口を開けて咆哮を上げる。
『グオーーーーーーーーー!』
『ダン!』 『ダン!』 『ダ~ン!』
米子は無心で発砲した。ヒグマの頭に弾が命中して肉片が飛び散るのが見えた。
『ドウッ!』
ヒグマの体が岩にぶつかり、クラックに覆いかぶさるようにして手を突っ込んだ。米子が慌ててしゃがむとヒグマの腕が頭の上を掠め、狭い空間が真っ暗になった。米子はしばらく動けなかった。時間が止まったように思えた。
むせ返るような獣臭が暗く狭い空間に漂った。米子が恐る恐る入り口に手を伸ばすとゴワゴワして温かいものに触れた。ヒグマの腹だった。手探りで腰のサバイバルナイフを抜いて突き出すとゴワゴワした腹に刺さった。反撃を予想したが、不思議とヒグマに反応は無かった。米子はヒグマが銃撃で死んだと思い、安堵で体中の力が抜けて大きく擦り剥いた腕と頬に初めて痛みを感じた。ズボンのカーゴポケットからオイルライターを取り出して火を着けると自分がいるのが狭い空間だという事がわかった。
《沢村3年生、大丈夫か?》
胸ポケットのトランシーバーから声がした。米子は狭い暗闇の中で岩肌に肘を擦りながらトランシーバーを取り出してトークスイッチを押した。
《こちら沢村3年生、大丈夫です。岩の割れ目に逃げ込みました。ヒグマは死亡した模様です。入り口を体で塞がれています、どうぞ》
《富岡了解、これより救出する。その場で待機しろ》
《沢村3年生了解です》
「沢村3年生、大丈夫か?」
「今熊をどける」
外から教官達の声が聞こえた。『ドスッ』いう音とともに暗闇の中に光が差し込み、明るくなった。米子はクラックから這い出した。横を見ると巨大なヒグマが仰向けにひっくり返っていた。
「沢村3年生、怪我はないか?」
富岡教官が訊いた。
「大丈夫です。漆崎所長は大丈夫ですか?」
米子は立ち上がりながら訊いた。
「私は大丈夫だ。沢村君、ありがとう。君は実に勇敢だ。おかげで助かった」
白髪混じりの頭の漆崎所長が言った。
「沢村3年生、ヒグマは頭に3発喰らって絶命している。脳を撃ち抜いたようだ。見事な射撃だ」
坂本教官が言った。米子は地面に横たわるヒグマを改めてじっくりと見た。その巨大さに驚くとともに突進の恐怖が蘇って思わずフラついてしまった。今更ながら膝が震えた。
「大丈夫か?」
富岡教官が言った。
「大丈夫です。でも思い出すと怖くて・・・・・・」
米子は本音を漏らした。
「無理もない。かなり大きなオスの個体だ。400Kgはあるだろう。どけるのに3人掛りだった。それに狂暴だった。こんなのに突進されたら誰だってトラウマになる。訓練所に戻ったらカウンセリング受けるんだ。訓練は中止してもいいぞ」
富岡教官が言った。
「訓練は続行します。知床岳に登頂して知床岬を目指します」
米子が言った。
「無理をしなくていいぞ。お前はサバイバル訓練以上の経験をした」
富岡教官が言った。
「続行させて下さい。ここで中止するのは悔しいです!」
米子が大きな声で言った。
「沢村3年生は真面目だな。まあ、我々のテントでコーヒーでも飲んでいけ」
漆崎所長が言った。
「ありがとうございます。リュックを取ってきます」
米子は駆け足でリュックとヒグマに投げつけた懐中電灯を取りに行った。
米子は焚火を囲みながら車座になって教官達と話していた。手にはコーヒーの入ったマグカップを持っている。
「もう夕方だ、今夜は沢村3年生もここで野営していくといい。顔と腕の擦り傷は消毒するんだ。規則で食事を与える訳にはいかないが、コーヒーなら何杯飲んでいいぞ。何しろ君は我々の命の恩人だ」
富岡教官が言った。
「ありがとうございます。明朝6時に出発します」
「君の噂は聞いている。学科も実技もズバ抜けて優秀だそうだな。さっきのヒグマとの闘いを見て君の優秀さを確信したよ。今度所長室に遊びに来なさい。コンビニ製品だがケーキと『あんみつ』を食べさせてあげよう。他の訓練生には内緒だぞ」
漆崎所長が笑顔で言った。訓練生にとってケーキや和菓子はめったに口する事ができない貴重なものだった。
「楽しみです。ところで、このあたりには他にもヒグマがいるのですか?」
米子が訊いた。
「知床半島はヒグマの巣だ。いつ遭遇してもおかしくない。我々は明後日ここを引き払って訓練所に帰る。羅臼から車で帰るから大丈夫だ。君たち訓練生は半島の先端まで行ったら、ご苦労だが宮野教官達と合流して一緒に相伯魚港まで徒歩で戻ってもらう。相伯魚港から先は道が無いんだ。そこからは車で訓練所に帰る事になる」
漆崎所長がいった。
「知床半島は凄い所ですね。過去に事故は無かったのでしょうか?」
米子が訊いた。
「聞いてないのか? この総合サバイバル訓練で過去2名が行方不明なっている。未だに見つかっていない。他に体力の消耗による死亡と思われる者が3名だが遺体がヒグマに喰い散らかされていた。死んでから喰われたのかヒグマに襲われて死亡したのかは不明だ。滑落死した者も2名いる。訓練中にケガや極度の疲労で棄権した者は数え切れない。今回も5名の内、すでに棄権者が2名出ている。この先は知床連山の岩場と原生林しかない。日本一の秘境と言ってもいい。気を付けて行くんだ」
富岡教官が言った。
「棄権したら卒業できないのでしょうか? 退所しなければならないのでしょうか?」
米子が訊いた。
「評価には響くが、この訓練に失敗したからといって卒業出来ないわけではない。退所にもならない。だが死んだら卒業はできん」
「了解しました。しかし死者が出るような訓練が認められているのが不思議です」
米子が疑問を口にした。
「我々の役目は鍛え抜かれた優秀な卒業生を組織に送り出す事だ。訓練生の命を守る事では無い。死者が出るのは織り込み済だ。君達は製品なのだ。君達が死んでも悲しむ者はいない。訓練所は治外法権だ。君達の死が公的機関に通報される事はない。秘密裏に処理される」
富岡教官が言った。場が重苦しい雰囲気になった。
「しかし沢村3年生がG3A3を選択したのが幸いしたな。今度からは我々も訓練生もこの訓練では7.62mm口径のライフルを携行することにしよう。銃と弾は重くなるが仕方ない。ヒグマ対応のチームを組んで12.7mmのバレットを持たせてもいいかも知れないな。ヒグマがあんなに恐ろしいとは思わなかった」
坂本教官が話を変えるように言った。
「私も遠くからは見た事はあったが、熊除けの鈴をつければ大丈夫だと思っていた。遭遇してもマニュアル通りに対応すれば問題ないと思っていたが、実際は違ったな。とにかく足が速かった。あれじゃ狙いが付けられん。沢村3年生はよく命中させる事ができたな? 拳銃もライフルも訓練所の成績1位だけの事はあるな」
富岡教官が言った。
「訓練のおかげです。今後は対ヒグマのシミュレーションも実施したほうがいいかもしれません」
米子が言った。
「我々は猟師を養成しているわけじゃ無い。工作員の養成しているんだ。だが総合サバイバル訓練の前には実施した方がいいかもしれんな」
坂本教官が言った。
「沢村3年生、君は技術だけなく、度胸があって勇敢だ。期待しているぞ」
漆崎所長が言った。
「違います。度胸はありません。勇敢でもありません。ですが常に冷静でありたいと思っています。今回は恐怖に負けそうになりましたが、冷静さは任務達成の為に必須な資質だと思っています」
米子がはっきりと言った。
「なるほど。勇敢さより冷静さか。工作員に求められるのはそうかも知れんな。やはり君は優秀だ」
漆崎所長が感心するよう言った。
「沢村3年生は今回の経験で逞しくなったはずだ。実感はあるか?」
富岡教官が訊いた。
「はい、度胸がついたような気がします」
米子が答える。
「卒業したらテロリストやヤクザと対峙して闘う事もあるだろうが、その時は今日の事を思い出しなさい。ヒグマに比べたらテロリストやヤクザなんて子猫みたいなもんだ。きみはそのヒグマに勝ったんだ。何者にも恐れる事は無い」
漆崎所長が言った。
「了解しました。今日は所長や教官方とお話が出来て有意義でした。明日がありますので寝たいと思います」
米子が言った。米子の言う通り、訓練生が訓練以外で教官と話す事は滅多にない事であった。
「ああ、ご苦労だった。ゆっくり寝てくれ」
漆崎所長が言った。
「失礼します」
米子は立ち上がる帽子を脱いで深く頭を下げた。
米子はG3A3ライフルを簡易分解して銃身内部と機関部をクリーニングロッドに巻いた布で掃除した。銃の掃除と整備は毎日の必須事項だった。森の中のなので完全分解は出来なかったが発砲した後のメンテナンスは絶対だった。戦闘中の整備不良による銃のアクシデントは文字通り命取りとなるのだ。
米子は顔と腕の擦り傷に消毒液を塗るとテントから離れた場所に寝袋を置いて潜り込んだ。予定外の体力を使ってしまった事に不安を感じた。総合サバイバル訓練はここからが本番なのだ。知床連山を踏破してまったく人気の無い手付かず原生林を抜けて知床岬を目指さなければならない。そもそも知床岬への陸路は無く、特別保護区のため立ち入り禁止になっている。ヒグマの恐怖が頭を過ったが、極度に疲れた体はいつしか眠りに落ちていった。
米子はリュックとG3A3ライフルを点検すると6:00丁度に出発した。教官達はまだテントの中で寝ているようだった。木々が低くなり、知床山地に入ったことが実感できた。湿地のような場所と尾根を幾つも超えて西に進む。ガレ場や沢も多く、所々に残雪もあって確実に米子の体力を奪っていった。一旦登った1182mの鵜鳴別岳を反対側に下り、教官達のキャンプから6時間歩いてようやく知床岳の山頂が近づいて来た。標高こそ1253mと高くはないが整備された登山道が無く、山頂付近は急峻な山肌を登るしか手段のないため過酷な登山だった。灰色と黄土色が混ざる傾斜地では登山者と会う事も無かった。米子はやっとの思いで知床岳の山頂に立つことができたが山頂の景色を楽しむ事無く、すぐに下山する必要があった。知床岳は知床半島の先端寄りの真ん中に位置している。知床岳から北北東に10kmほど縦走すれば知床岬であるが幾つもの尾根を越え、原生林の中を藪漕ぎしなら進む必要があった。相泊まで戻って海沿いの岩場を進むコースもあったが、途中で何カ所も岩場にへばりついついてトラバースする必要があり、戻る事による時間的なロスもあったので米子は知床山地を縦走するコースを選択にした。時刻は16時。米子は縦走ルートを歩き始めた。18時に標高920mの知床沼に到着すると知床沼の畔で野営をする事にした。米子は沼の水に浸したタオルで全身を拭いた。何日分かの汗と汚れを落とせた事が嬉しかったがそれ以上に飲み水を補給できた事が嬉しかった。
知床半島は日本列島の東寄りにあるため日の出の時刻が早い。米子は4時に起床して5時に知床沼を出発すると知床岬を目指して山の中をひたすら北北東に進んだ。方位磁石とGPSだけが頼りだった。藪を掻き分け、岩を乗り越え、沢に降りては何度も崖を登り、直線距離で8Kmのルートを13時間掛けて移動した。過酷なルートは1時間に600mの前進しか許さなかった。途中に最後の演習用の敵拠点を発見し、模擬爆弾のセットに成功した。米子はマシンのようにひたすら動き続けた。陸上自衛隊の『多用途ヘリコプターUH-1』が低空を飛行するのを何回も目撃して不思議に思った。知床灯台が目に入り、ゴールが目前となった。汗で濡れた顔に冷えた夜気が当たり、体からは湯気が立っていた。木々の枝で腕と顔に切り傷を作り、岩場で何度も転倒して打撲だらけの満身創痍の状態ですっかり暗くなった知床岬に着くと平坦な場所に教官の緑色のテントが3つ並んでいた。
「沢村3年生、ただいま到着しました!」
米子が直立不動の姿勢で言った。テントのフロントドアパネルから懐中電灯を持った宮野格闘教官と若宮射撃教官が姿を現した。
「ご苦労。ヒト キュウ フタ マル(19:20)、沢村3年生のゴールを認める」
宮野教官が腕時計を見ながら言った。
「ありがとうございます」
米子が言った。
「今晩はそのテントを使え。明朝6時に相泊港に向けて出発する。東側の海岸ルートを行くからロープとハーネスを準備しておけ。相泊港から先は車だ。訓練所に帰ればシャワーを浴びられるぞ」
「了解しました」
「テントの中に握り飯とお茶があるから食べろ」
「ありがとうございます。他の訓練はどこにいるのでしょうか?」
今回の総合サバイバル訓練には5名が参加しているが、ゴール地点には他の訓練生の姿は無かった。
「沢村3年生以外は全員棄権となった。中川3年生と金子3年生が衰弱でリタイヤ、細川3年生が登山中の転倒で骨折した。この3名は本日陸自のヘリに回収されて千歳の病院に運ばれた。あと、牧田3年生がヒグマに襲われて死亡した。今年は予想以上にヒグマの活動が活発だった」
宮野教官が言った。米子は何度か牧田と休憩室で話した事があった。神奈川県出身で捨て子の境遇だったが明るい性格の少女だった。
「沢村3年生は優秀だな。今年は初めて知床岬をゴールにしたんだ。去年までは知床岳がゴールだった。やはり今回は厳しかったようだな。ゴールしたのは沢村3年生だけだ」
若宮教官が言った。
テントの中にはハーネスとピッケルと小型ポットとラップに包まれた握り飯が2つ置いてあった。米子は小型ポットのお茶をマグカップに注いで喉を潤すと握り飯のラップを剥がした。右手に持った握り飯を見つめる。ボールのように丸く白い握り飯が輝いているように見えた。一口齧ると白米の甘味が口いっぱい広がった。3日ぶりの食事だった。3日前に食べたのは運よく罠に掛かった『エゾリス』と『カミキリ虫の幼虫』だった。米子は貪るように握り飯を食べた。中に焼いた鮭の切り身が入っていた。世の中にこんなに美味しい物があったのか思うほど美味だった。不覚にも涙を流しそうになった。2つ目の梅の入った握り飯もあっという間に胃に収める。梅の酸っぱい味に口の中がキューンと痛くなった。
米子は初秋に15歳となり、さらに厳しい訓練を受けた。射撃、格闘、暗殺術のどれもがトップの成績だった。翌年の3月に2級工作員の試験に合格し、訓練所を卒業する事になった。4月からは東京の高校に通う事が決まっていた。入所時は6名だった同級生も卒業時は3名に減っていた。1人は訓練中に精神疾患になり、もう1人は事故による怪我で退所となった。そして残る1人は総合サバイバル訓練でヒグマに襲われて死亡したのだ。訓練生達は通学していた中学校の制服で卒業式典に参加した。中学校の卒業式は2日前に終えていた。米子は漆崎教官から卒業証明書を受け取ると大きく頭を下げた。
「沢村訓練生、ご苦労だった。よく頑張ったな。2年後、私は退所してこの近くの牧場を引き継いで牧場経営をしようと思っている。落ち着いたら一度遊びに来なさい。美味しい牛乳を飲ませてあげよう」
漆崎所長が言った。
「了解しました」
米子が微かに微笑みを浮かべて言った。
米子は卒業式典の後、グランドに出た。北海道の春は遅く、訓練所はまだ晩冬の中にあった。3年近くを過ごした訓練所のグランドは訓練もなく静かだった。米子は雲一つない晴れた青空を見上げて大きく伸びをした。
外伝『米子ZERO』終了
ご愛読ありがとうございました
訓練所を卒業した米子。厳しい訓練所を卒業したことへの安堵と工作員としての将来への不安を抱える15の春。ここからJK アサシンの物語が始まる。
ご感想、ご意見を頂けると嬉しく思います。
南田 惟
米子ZERO、お楽しみいただけましたでしょうか? 第5部も鋭意執筆中です。