未了義
掌篇の第八輯。
松渓寺などと名を聞くと、山深い渓谷を見下ろし、岩山に聳る大磐の垂直面に、障壁画によくありそうな、棚引く霞のような松が枝が横様に伸びる、厳かな古寺を聯想させる。実際、何ら意外性もなく、まさしくそのとおりの古刹であった。
その寺で、経蔵の奥から平安の末、源平の確執の時代に、空海の『般若心経秘鍵』を筆写した巻子本が見つかったという話を聞いて、早速、観に行った。
愛車のデューセンバーグはエラリー・クイーンが載っていたという設定になっているフル・レストアの太古の自動車で、道は舗装されているとは言え、山岳のワインディングを走るにはキツイものがあった。エンジンが唸り、エグゾースト・ノートが喘ぎのようでもある。葉巻は旨いが。
書は龍神のごとく風格のある雄勁な楷書で、隅寺心経の文字に似ていた。
同書にこんな一節が在る。原文を正確に憶えていないので、僕の解釈で記すと、或る人が、
「般若は、初時の声聞乗である『阿含経』に次ぐ、第二時の縁覚乗で、二乗のうち(この二乗を小乗という)であって未了義(未だ完うしていない教え)であり、どうして華嚴や法相・唯識などの菩薩乗(大乗)を網羅し得ようか」
と言った(実際にそう言った人がいたのか、又は問う人がいるであろうという推測かは、僕には解釈し切れていない)ことに対し、空海は応え、
「如来の説法は一字に五乗の義を含んでいて」
五乗とは人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の五つで、つまり、遺漏なく全網羅していると言っているのだ。
そして、空海は加えて、
「亀卦爻蓍(占い。亀卜と易筮)が亀の甲の亀裂や五十本の筮竹が万象を含んで尽きることがないのと同じだ」
と言っている。
そして、心経の最後の部分、陀羅尼のところ「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」について、初めの「羯諦」は声聞の行果を顕わし、二の「羯諦」は縁覚の行果を挙げ、三の「波羅羯諦」は諸々の大乗の行果を指し、四の「波羅僧羯諦」は真言密教の行果を明かし、五の「菩提薩婆訶」はそれら諸乗の究竟菩提の義を説くという。句義はこのように無量の義を持ち、これを総持という。劫を歴ても、尽くし難い、と言っている。
「一字に千理を含み、」とは、このように凄いというか、深い意味なのだ。
願わくば、小説の一文字も、そのように甚深なものであって欲しいものだ。一文字が晢學であり、藝術であり、科學であり、真言(マントラ、陀羅尼)である小説。そのためには、書く人の力も必要だが、読む者の力も必要であろう。
だが、まあ、真兮くんみたいに、「未了義? 当たり前だの馬之助さ。
結構、結構、まことに結構、大いにまことに結構、現實は問題集じゃない、解答篇など附録されてない。答などない。何者でもない。非空、未空、絶空、狂裂自在の狂奔裂。
これこそが千理、萬理、億理、兆理、京理、垓・秭・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数の理を含むというものぞ。ありふれた、ただの道端の石っころさ」
という人もいる。
はい、いつもと同じ。おあとがよろしいようで。ちゃんちゃん。