光明⑤
捕縛されているが故に倒れることすらできずに棒立ちになっている魔物の足元に降り立つと、ルインがひとっ飛びで魔法陣から離れ、フレデリックのいるところへと行く。
「やったぜ、本当に倒した……っておい、お前、大丈夫かっ!?」
フレデリックは呆然とマンムートを見、それからルインに乗っているアイラを見てギョッとした。
「……ちょっとやばいかも……」
アイラは震える声でそう言いながら、もはや痛みすらもなく、全身の感覚が失われつつあった。ただ、寒い。指先から体が冷え、鳥肌が立っていた。歯の根が合わないほどカチカチ言わせながら、ルインに掴まっていることもままならず、横様に滑り落ちた。
「おい、意識を保て。おい!」
雪原に落ちそうになったアイラをフレデリックが受け止め、身を揺さぶられたが、アイラはされるがままだった。顔面からあふれる血を止める手立てはなく、唇はカサカサに乾き、喉の奥が焼け付いていて喋ることすら億劫だった。
「アイラ! 急いでバベルまで戻るからそれまでしっかりしていろ!」
「無理だ……この出血量。とてもじゃないがバベルまで保たない」
「ならどうする! もう魔法薬もないんだぞ!」
ルインとフレデリックが言い争っている声が聞こえる。見えているはずの右目での視界もぼやけてきて、二人の声もだんだん遠ざかっていき、不愉快な耳鳴りだけが大きくなっていった。
ーーああ……あたし……ここで死ぬのかな。
シーカーと出会ってから、ここまで「死」を間近に感じたのは初めてだった。
小さい時にはいつだってシーカーとルインがアイラを守ってくれていたし、力を得てからはさほど窮地に陥ることはなかった。痛みも寒さも、久々に、それこそ八歳の時に平野で餓死寸前まで追い込まれていた時以来だった。
アイラは己の人生を振り返る。
まあ、いい人生だったんじゃないかなと思う。一度は諦めた人生だったが、おかげさまで楽しく面白く生きられた。
ただ惜しむらくは……。
(……せっかく強敵を倒したんだから、一口くらい食べてみたかったなぁ)
ルインとフレデリックと勝利を分かち合い、「雪原の覇者」なんて大層な二つ名を持つあの魔物を、串焼きにでもして食べたかった。これだけの巨体ならばさぞかし食べ応えがあるだろう。派手に焚き火をして、バベルで知り合った冒険者やピエネ湖で釣りをしていた冒険者と一緒に食べてもいい。お祭り騒ぎも悪くない。
アイラは薄れゆく意識の中でそんなことを考えながら、最後にありったけの力を振り絞ってルインに手を伸ばし、その柔らかな毛並みに指を這わせた。
◇
フレデリックは、抱き止めたアイラの体が急速に冷たくなっていくことに恐れを感じていた。出血量は尋常ではなく、呼吸は乱れて浅い。このままではまず間違いなく死ぬ。
「おい……おい!」
目を閉じたアイラは、もはや呼びかけに応じてくれなかった。
出会って二日くらいしか経っていないが、フレデリックはアイラにこの上もなく深い感謝の念を抱いていた。略奪者として目の前に現れた自分を非難することなく、妹を探すのを手伝ってくれた。危険を顧みずに湖に飛び込み、本当に見つけ出してくれた。誰もが恐れる「雪原の覇者」を、討伐してみせた。彼女の内に秘めているまぶしいまでのまっすぐな信念に、フレデリックはあっという間に魅了されていた。アイラの体をかき抱き、フレデリックは妹を見つけ出すと心に誓ったあの日以来の強烈なまでの激情に身を焦がす。
「死なせない、絶対に……!」
そうして右手でアイラの左顔面を覆い、静かに呪文を唱え出す。
それは、ここ五年、口に出していなかった聖なる語句。
バベルにいた頃には当たり前のように唱えていた呪文。
女神への絶対的な忠誠と清い心の持ち主のみが紡ぎ出す、限られた人間しか使えない神秘の魔法ーー治癒魔法。
己の罪深さ故に使うのを恐れていたその魔法を、何のためらいもなく口にした。
この魔法が成功しなければ、彼女は死ぬしかないだろう。
今はただ、アイラを助けたい。
彼女はこんなところで死んでいい人物ではない。
だからフレデリックは、全身全霊をかけて治癒魔法を発動する。
それは、捕縛魔法陣に比べれば派手さに欠ける静かな魔法だった。
フレデリックの唇から紡がれる聖句に呼応するかのように、かざされた右手の掌から銀色の光が溢れてアイラの頬を優しく撫でる。幾度か繰り返すうちに、徐々に流れ出る血が止まり、ゆっくりと皮膚が、抉り飛ばされた眼球が、再生していく。
横で見ていたルインが感嘆の声を上げた。
「おぉ……治っていく!」
フレデリックはその声を聞きながらも治療に専念した。
失われた肉を、皮膚を、血を再生させ、元通りにする。それは一口に「治癒魔法」と言っても膨大な魔力を消費し、神経を摩耗させる行為だった。フレデリックは己の全てをかけても彼女を救うと心に誓っていた。
幾度そうしてアイラの頬を撫でただろう。
いつしか完全に血が止まり、痛々しいまでに崩されていた彼女の顔は、元通りの美しさを取り戻していた。
ルインがアイラの顔に鼻先を寄せ、必死に彼女の名前を呼んだ。
「アイラ……アイラ!」
胸が大きく動き、深い呼吸をひとつ。目はかたく紡がれたままだったが、容体が落ち着いたことは明らかだった。
傷口は完璧にふさがっていた。
フレデリックは顔中にこびりついてしまっている血をそっと指先で拭い去り、ルインは優しく頬を舐めた。
「……助かったのか」
「ああ」
ルインは炎のように赤い目をあげて、フレデリックを見つめた。
「恩に着る。アイラと、お前と、それからお前の妹も乗せてやるから、急いでバベルまで戻ろう」
「……ああ」
ルインの言葉に頷いたフレデリックは、腰を上げた。
マンムートが倒れた後のルーメンガルドの地は雲が去って吹雪が止み、青空が広がっていた。






