元奴隷が愛される
世界が平等じゃ無いことはよく分かっている。豊かな人がいて貧しい人がいて、権力を持つ人がいて虐げられる人がいて、幸せになる人がいて苦しむ人がいて、つまり僕は奴隷だった。極貧な家庭に生まれた僕は物心が付く年齢になると奴隷商に売られて、労働力のあるモノとして行商人に買われた。それからの僕の仕事はひたすらに荷運びで、薬草から食べ物まで様々な売り物がぎっしり入った木箱をひたすら馬車に積んで降ろしての日々だった。あるときに病気に罹った。咳が止まらなくて発熱した身体はふらふらで荷物を運ぶどころかまともに歩くことすら難しくなった。僕は労働力として買われた奴隷なので労働力を失えばただの無価値のゴミだった。だから捨てられた。その頃にはもう起き上がることすら出来なくて、雨の降る知らない街の石畳の上に転がって悪寒の止まらない身体を少しでも温めるために猫みたいに身体を丸めてじっと横になっていた。猫はもふもふで暖かそうで羨ましいけど僕は寒くて仕方ない。道行く人の視線も冷たい。誰も手を差し伸べないのは僕がゴミだから仕方ない。そのうち病気で死ぬか凍死するか馬車に轢かれるか。いずれにせよ僕に待っているのは死だった。
じっと待っていた。
死神の手を。
じっと待っていた。
やがて頬に手が触れた。
死神の手は意外にも暖かくて柔らかくて、僕が薄らと目を開けると、そこにはしゃがんで僕の顔を心配そうに覗き込む長い銀髪のお姉さんがいた。一瞬悪魔みたいに二本角が生えてるとぼやけた視界で思ったけど、よく見ればそれは狼系の獣人特有の獣耳だった。お姉さんはわずかに目を開けた僕を見て安堵したように目を細めて、優しく僕の頬を撫でてくれた。
これが僕と師匠の最初の出会いだった。
僕はお姉さん拾われて家で手厚い看病を受けた。高価な筈の薬を惜しげも無く飲ませて貰って暖かい布団に寝かせて貰って汗で濡れたシーツや服も何度も替えてくれた。そんなお姉さんの献身的なお世話のおかげで僕はすっかりと元気になった。
「今日からお前は私の弟子だ」
元気になって早々お姉さんが僕に言ったので僕は
お姉さんの弟子になった。最初は意味が分からなかったけどお姉さんに連れられて一緒に街を歩いたときに、道行く人が八百屋のおばちゃんが武具屋のおじさんが薬屋のお兄さんが皆がお姉さんを褒め称えるので、お姉さんが外界から襲撃してくるモンスターから街を守る凄腕の剣士である事を知った。僕はお姉さんを師匠と呼んで剣術を教えて貰いながら身の回りのお世話をすることで家において貰えることになった。理不尽な暴力が無くて雨風凌げる暖かなお家があって更に一人で生きていくための術を教えてくれる、師匠との暮らしは僕にとってこれ以上無いほどの幸福だった。
一年が経つと僕の剣術はそこそこの向上を魅せ、初等モンスターに指定されるスライム程度なら倒せる程となった。そうなると倒したモンスターの素材を売って多少の稼ぎを作ることが可能になる。これに僕は安堵していた。生活費については有り難いことに師匠が全てを受け持ってくれているから師匠との暮らしでお金に困ったことなど一度も無かったけれど、それとは別に私欲な出費が発生する予定があった。師匠の誕生日が迫っていたのだ。凄腕の剣士である師匠はきっと報酬で得た莫大な財産があるだろうから僕のほんの僅かな稼ぎで買える物など貰ったところで嬉しくないかもしれないけれど、それでも命の恩人でありその後の面倒まで見て貰っている師匠には、感謝の想いとして何かを渡したかった。
元奴隷の自分などがサプライズで師匠を喜ばせるなどと自惚れた考えは端から捨てて、僕は素直に師匠に欲しいものを尋ねた。お昼のおやつタイムと称して師匠と一緒にお茶と菓子を楽しんでいるときだった。
「僕の買える物はたかだか知れていますが……あるでしょうか、師匠が喜ぶもの」
何とも情けないことを言ったと思うけれど、それに対して師匠は口に付けていたカップをテーブルに置いて、剣術の稽古を付けてくれている時のようなとても真剣な表情で僕を見つめた。空気が変わった。何かとんでもない事を言われる気がして僕は気持ちを引き締めた。唾を飲み込んだ。
そして師匠が、口を開いた。
「ペットに、して欲しい」
その言葉は全く予想外で理解するのに数秒の思考の反芻が必要だった。それで単語は理解できたけど、その意味までは理解できなくて僕は思わず聞き返す。
「ペット、というのは……」
「私を愛玩動物として扱って欲しいと言うことだ」
師匠は表情を変えずいつも通り迷い無き凜々しい声色で言った。僕はますます困惑する。師匠は獣人だ。それが自ら愛玩動物に志願するというのは僕が自ら奴隷になるのを求めるような、わざわざ身分が下がるのを求めるような、そんな奇妙さがある。変だ。
僕が未だ頭に疑問符を浮かべていることを唇を結んだまま何も言葉を発することの出来ないも僕の表情から感じ取ってくれたらしい師匠は説明してくれた。
「私は銀狼種の血が流れる獣人だ」
「はい」
「遠い先祖は人に使役されていた。そのためか、私たち犬系統の獣人は誰もが“飼われたい欲求”を持っている」
「そう、なんですね」
初めて聞いた知識に僕は内心驚いている。この世界には獣人が多いからまだまだ僕の知らないその獣人特有の性質や習性があるのだろうか。
「この欲求は本来であればパートナーに満たして貰うものだが……私には……そういう雄が……いない」
師匠が顔を逸らして言った。
師匠が余りに強すぎて何だか近寄りがたい雰囲気を放っているのは僕にも分かる。その姿を一匹狼みたいで格好良いっていう人もいるし、街の女性達の間で何やらファンクラブなるものが存在するという噂すらある。神聖視して誰も近づかない。だから、実際はとても優しくて面倒見が良いことは僕だけが知っている。
「そのパートナーの役は、僕で良いのでしょうか」
「お前だから良いんだ。私はお前のことをよく知っているから、安心して任せられる」
「でも」
「不安に思う必要はない。これは変態的な嗜好を満たすための行為ではない。一般的な生理欲求の解消方法だ。だから、頼む」
師匠が真っ直ぐ僕を見つめて言った。
“でも”の言葉の意味は僕に師匠のパートナーなんて見合わないんじゃないか、という不安だったけれど……。ともかくとして、師匠にここまで言われてしまったらやる気が出ない訳がない。思っていたのとは違ったけれど、師匠のために僕に出来る事があるなら何だってしたい。
「私を飼ってくれるか?」
師匠は僕の命の恩人だから。
「分かりました。師匠を飼います」
こうして次の日、僕はペットになった師匠と一日を過ごすことになる。事前に決めた約束事として、とりあえずは誕生日の一日だけ、ということになった。師匠が唯一使えるらしい魔法を唱えると獣人の師匠の姿は光に包まれ、あっという間に銀色の艶のある毛並みが美しい一頭の狼に姿を変えた。狼になっても容姿は端麗で、横に並ぶと僕のお腹辺りに頭が来るほどの大きさで威容を纏っている。僕は事前に言われていた通りにその首に赤い首輪を付けてあげた。そうして師匠はペットになった。
朝食の時間。いつもだったら同じテーブルに向かい合って座って僕が師匠の素晴らしい手腕の料理に感想を言って師匠が嬉しそうに「だろう。もっと食べろ」とスプーンを僕の口に突っ込んでくるところだけれど、今朝は、事前に作ってくれていた師匠の料理を僕だけがテーブルに座って食べて、師匠は僕が料理を取り分けて床の上に置いた皿に口元を突っ込んで食べていた。師匠を他意無く見下ろして「今日も美味しいです」と試しに言ってみると、師匠は、黒い宝石みたいな両の瞳で僕を見上げて「わんっ!」と短く鳴いてくれた。
いつもだったら食事の後は僕の剣術を鍛えてくれるけれど、今日の師匠は狼なので稽古の代わりに一緒に公園に行って、ボール遊びをした。僕が投げて師匠が取ってくるという単純な動作を繰り返すだけだったけれど師匠は尻尾を振っていてとても楽しそうだった。帰り道に宝石商の出している露店の前を通り過ぎようとしたところで、宝石を物色していたふくよかな体型の貴族のおばさんに気付かれて、話しかけられた。
「あら貴方。いつ頃からか知らないけれど、フェリル様の付き人になった子供よね」
「はい、そうです」
「麗しのフェリル様の姿が見えないようだけれど」
「今日は僕一人です」
「あらそう。だったら丁度良い機会だから言わせてもらおうかしらね。貴方、フェリル様から離れてくださらない?」
「ええと……」
「察しの悪いガキね。あの方は、元奴隷の汚らしい卑しい身分の貴方が傍にいて良いような存在じゃ無いの。貴方が傍にいることで高潔で孤高なるフェリル様の美しさに一点の泥が付いてしまうの。分かる?」
「……」
「全くどんな小賢しい手を使ったのか知らないけれど、フェリル様の懐に潜り込むとは、なんて卑怯なガキなのかしら。というか、そもそもね……」
おばさんの僕を責め立てる言葉は止まらない。
これは、よくある事だ。今までだって何度も経験している。仕方の無い話だ。僕が人間以下の畜生同然の惨めな存在であったのは事実なのだから。
こういうときはただ黙って俯いているに限る。相手の気が済むのを待つのだ。
でも、今日はその必要が無かった。隣で一緒に話を聞いていた師匠が姿勢を低くして毛を逆立てて歯茎を剥き出しにして、おばさんに激しく吠え立てたのである。その姿はとても恐ろしくて、そして意外でもあった。師匠がここまで感情を剥き出しにしている姿は初めて見た。師匠が僕のために怒ってくれているのだと思うと、とても嬉しかった。
師匠の敵意を真正面から浴びたおばさんはすっかり怯えてしまって、慌てた様子で逃げていった。
「ありがとうございます」
僕が言うと、師匠は“気にするな”とばかりに手を舐めてくれた。
その後は家に戻って、師匠の足が土で汚れていたので一緒に浴室に入って洗ってあげて、上がったら一緒に日の光を浴びながら床に並んで寝転んで、そのうちに昼食を食べて、お腹をもふもふさせてもらって、夕飯を食べて、首回りをもふもふさせてもらって、ベッドで一緒に寝た。
次の日の朝、僕は頭を撫でられる感触で目が覚めた。身体を起こすと目の前には、同じく身体を起こした人の姿の師匠がいた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「……昨日はどうでしたか? 僕は上手くやれていましたか?」
気になっていたことを真っ先に尋ねると、師匠は口元を綻ばせ目を輝かせ僕の両手をがしと掴むと、珍しく興奮したように言った。
「最っっ高だった!」
どうやら僕はちゃんと師匠の“飼われたい欲求”を満たすことに成功したらしい。
「弟子のお前に見下ろされるというのは少しぞくぞくするものがあったし、狼の手足の不便さの為にお前に身の回りの世話をして貰うというのは心地の良い背徳感があったし、お前に身体を好き放題撫でられるのは正直言って気持ちが良かったというか少し嫌らしい気持ちになった」
ちょっと早口で寝起きの僕は聞き流してしまったけれど、ほくほく顔の師匠が幸せそうで僕も嬉しい。
「お役に立てて良かったです」
「うん。それで、相談があるんだが」
興奮を抑えて真面目な声色の師匠。
何だろう。師匠の助けになれるなら何だってするけれど……。
「これからも、不定期にこういう日を設けてくれないだろうか」
「あ、はい。そんなことで良ければ喜んで」
「本当か! ありがとう!」
師匠は今までに見てきた中でも一番と言っても良いくらい口角を上げて喜んでいた。
良かった。
師匠の喜ぶ顔が見れて僕も幸せだ。
最近ちょっと困ったことがある。
師匠がペットになり過ぎている。
一週間のうち3日くらいは狼だ。
そうでない日はちゃんと獣人で過ごす日なのかと思ったら、最近は獣人の姿のまま自ら首輪を嵌めて頭をすり寄せてきてペットを主張し、いわゆる愛玩的扱い―頭を撫でたり耳や顎の下をくすぐったり身体を洗ったり抱きしめたり―を求める始末である。更に最近は“大人の獣人の私”と遊ぶためのおもちゃが必要だと言って、何故か魔動マッサージ器を買ってきたり鞭を買ってきたりしている。その道具でどうやって遊ぶのか僕には全く分からない。今だってベッドの端に腰掛けて難しい魔導書の手引きという分厚い本を読んでいる僕の膝の上に当たり前のように頭を乗せて幸せそうに昼寝している。
こうなると流石に僕も思わずにはいられない。
師匠は最初から自分を飼ってくれるパートナーを求めていて、そこにたまたま死にかけの僕を見つけて、いずれは自分の欲望を満たす飼い主にしてしまおうという下心で僕を拾ったのではないかと。つまり僕はそういう、何というか、ふしだらな思いで拾われたのでは無いかと。じゃあ、それで救われた僕の人生って一体……。
そんな答えの無い自問をしていると不意に僕を見上げる師匠と目が合う。獣人の姿のまま、カッコいい剣士としてのプライドを一切捨て、人の矜持さえも完全に忘れ、
「わんっ!」
と耳をぴこぴこさせて師匠が言う。
……まあ。可愛いから、良いか。
何だか良くない沼に足を突っ込んでいる気がしながらも、僕は純粋な欲求に従って師匠の頭を撫でた。




