(5)彼女は、俺と彼の関係にまだ気付かないらしい。
※この作品は「夏のホラー2022」参加作品です。怖さ控えめのホラーラブコメディですが、苦手な方はご注意ください。逆にホラー耐性があるかたには物足りないかもしれません。どうぞお許しください。
ようやっとこの時間軸まで追いついた。じんじん痛む頬と唇にあらかじめ用意しておいた氷をあて、ため息をつく。
「ほほほ、見事なまでにくらいおってからに」
「そりゃどうも」
昔の自分から受けた渾身の一撃は、わかっていなければ相当な痛手になっただろう。日頃から鍛えた上で、バレない程度に受け流していてもまだ痛むのだから。
「偽物じゃないんだがなあ」
「変に色気を見せるからじゃ」
「わざとじゃないですよ」
「それでも、あの女子にとっては信じられない態度だったのであろうよ」
目の前でころころと笑う相手に、俺は肩をすくめた。神さまは、今日も中西の親友の姿を借りているので、見ているだけでなんとも言えない気持ちになる。
「その姿を見せられるのは落ち着かないな」
「この娘は、妾たちとの相性がよい。器をなぞりやすいのじゃ。だが、この貌が嫌だと言うのであれば仕方がない。もともとそなたに見えていた世界に合わせて、出てきてやるとするかの」
「すみません。その姿のままでいてください」
「うむ、素直なことはよいことじゃな」
慌てて俺は、頭を下げた。
俺があの日見たもの。それは高校、大学を卒業し、社会人になった今になっても度々俺を苦しめる。正直、もう二度と見たくはない。
心のあり方の違いなのか。
はたまた心に秘めていた願いの違いなのか。
彼女がお参りしたときに引き込まれた世界は、端的に言って地獄だった。
内臓をぶちまけたような空間と、そこら中に立ち込めるすえた臭い。明らかに入ってはいけない場所に入り込んだのがわかった。逃げ出したくとも出口はなく、俺を監視するかのように巨大な目玉がぎょろぎょろと動き回っていた。彼女にしてみれば、ただの寂れた神社に閉じ込められただけでしかなかったようだが。
俺が見た異形――ヘドロのようにベタついた、黒色の姿形を絶え間なく変化させる液体物――も、彼女が「小狐」と言えば、俺の前でもその形に姿を変化させていた。彼女が「口裂け女」とという単語を出さなかったならば、代わりに何が登場したのかなんて俺は考えたくもない。
卵が先か鶏が先か。時間の流れは、いくら考えても俺にはわからない。
ただ、彼女が今の俺を愛してくれたからこそ、おまけである過去の俺もまた救われることになった。何かひとつでも違っていたなら、息絶えたあげく、なんらかの贄にされたり、異形としてあの地獄を永遠にさまようことになっていたかもしれない。
「おやおや、また黒ずんでおるの」
「放っておいてください」
とっさに隠そうとした左手を、信じられない力で捕まれる。女子高生をかたどった細腕から万力のような握力が出てくるのだから手に負えない。
窓から差し込む夕焼けを、薬指におさまった小さな輪が反射する。
俺と彼女を見守ると約束した神さまは、俺たちの左手の薬指にご神環をつけた。つけたばかりのときには透明でほとんど見えない指輪。妬み、嫉みなど、負の感情を貯めれば貯めるほど黒ずんでいく。まるでこちらのよどみを面白がるように。
未来の俺とは知らず、彼女が想いを寄せる先生を憎んだ過去の俺。
過去の俺と知っていても、当たり前の顔をして隣にいる自分を憎む今の俺。
どちらもがんじがらめで、それでもなお無意味な嫉妬をやめられない。
「そなたの中にあったアレを、羽虫として取り出せたのはほんに幸運であった。あの娘がおって、よかったのう。そうでなければ、アレに取り込まれて鬼となっていたであろうよ」
「そう、ですね」
彼女がいなければ、俺は神社から出られず神隠しとして行方不明となっていただろう。あるいは元の場所に戻れたところで、歪んだ願いを叶えた人間がまともに生きられるとは思えない。彼女には感謝している。
だからこそ思うのだ。こんな自分が、彼女を愛しても許されるのだろうかと。
「難しく考えずともよい。あの女子は、軽過ぎるのじゃ。このままではふわふわと何も考えずに、笑いながら天へと還ってしまう。そなたのように、重くて、面倒くさい、邪魔にしかならぬ錘のような業の深い男がいるくらいでちょうどよい」
「無茶苦茶な言い分ですね」
「だからこそ、ゆめゆめあの娘を裏切るでないぞ」
口ではそう言いながら、裏切りを期待するかのように紅い唇をにやりと歪ませる。本当に神さまというのは、性格が悪い。
「裏切るつもりはありません」
「そうじゃの、どのみち裏切れぬ。裏切るより先に薬指と魔羅が腐り落ちてしまうでの」
涼やかな笑い声が、教室の中をこだまする。
登録しても繋がらなかった電話番号。
探しても見つからなかった同じデザインの制服。
俺がどれだけショックだったか、彼女にはわからないだろう。高校を卒業した後も諦めきれず、散々探したのに。
大学在学中に、名字が変わってまさかと思った。もちろんこんなことがなければ、医師免許ではなく教員免許を取得することはなかっただろうが。
さらに教育実習で母校に足を踏み入れた際に、近くの高校の制服のデザインが一新されたと教えられたときの衝撃ときたら。
あの頃、俺は見知らぬ数学教師に嫉妬していた。今の俺は、過去の自分に嫉妬している。俺にとってはもうすでに通りすぎてしまった中西との青春を、これから中西は体験することになるからだ。過去の俺と一緒に。
中西、お前は俺を入学以来ずっと追いかけていると言ったが、俺の方こそお前を探し続けてきたんだ。少しはおあずけされる気持ちを味わってみろ。
「それでおあずけにあうのは、結局そなたの方ではないかえ?」
「卒業までの辛抱ですので」
「18で成人とはいえ、高校卒業後にすぐ結婚しては、娘も叩かれるであろうの」
「大学卒業……まだ5年以上先か……」
「まったく、童貞を拗らせると面倒なことになるの」
本当にその通りだ。スーツのポケットにぱんぱんに詰められた飴をいくつか取り出す。
「……おひとつどうぞ」
「ならば、もらうとするかの」
口の中に放り込んだ飴は、ねっとりと甘い。いつか味わう中西の甘さを思い浮かべながら、俺はこの夏を追いかけていく。
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