そびえたつ人
季節は冬になろうとしていた。
はじめのうち、和香は夜十時まで取りあえず外にいることに決めていた。
学生の分際で然も高校生だという事が彼女にとってのそれ、だった。
取りあえず夜十時までは家の外。と。
自分でもそれがなぜか分からないでもないが、親への証でもあったんだろう。
自分は高校生だという誠意と実証。
わたしはどこへ行くか分からない。
でも、高校生なのだから、まだ帰る訳は・・・・。
いかない。と、きめた。
部活をしていないのも、理由なき理由になっている。
今日の夜に、見る夢は・・・・・。
今の関心ごとは他でもなくそのことで
それのみだった。
それが不思議なものでというのならば、その中の一つに
布団の暖かさすら省かれていた。
夢、という対象のみ。
女子高生の七不思議構成だ。
足元に子ネコでも居れば尚更よかったが
それは、適わなかった。
十時。
時計の針が回ったのをいいことに、踵を返したその時。
瞬間ってそんなものだと思う。
「え!?何?」
そこに、いたのは。
見たこともない同じ学校の制服と男性。
つまり、名前も顔もわからないが、先生ではないはずなので
危機感は持たなくて良かったと、とっさに思った。
ただ、それはいいのだ。
ぼぅっ とそこにいる。
つまり、突っ立っているのだ。ぼぅっ とそこに。
その人、というヒトが、そこに。ぼぅっ と。
まるでそびえるようだった。
無視して帰ろうと思った。
他人だし。
「おい、お前」
おい、
は、ないと思った。
馴れ馴れしくはないか?と、おもう。
この距離感のない呼び方。
然も、おい
という男の人に対して
いい気持ではないのはいささかなものだった。
声を出す。とは、返事をすることになる事の意味であるからして
沈黙を守れたし。
そのまま通過することにして。
ハイスピードで独断突破。
下を向いて突っ切る。
突っ切ったと思った。
「待て」
この一言を、無視すれば何の威力もないのは分かるが。
私は、聞き分けが良く損をしてしまう。
網に引っかかった魚になってしまったような気がしていた。
今現在、彼のこの一言で、私は前には進めないでいる。
のだが。
他人に呼び止められる根拠がない。
私には、何のことが起こるか説明がつかない。
理由もシチュエーションも関係性もまるで見えないのだ。
無いのだから。
でも、他人との出会いの始まりなんてそういうものかも知れない。
寒さが身に染みた。指が冷たい。
妥協。
避けては通れないお年頃だと、実感した。
この目の前の人を、何とかせねば私は帰れない現実。
取りあえず、は
「なんか用ですか」
スマートに場を逃れようと、ストレートに言ってみた。
でも、予感通りの反応で
見事に反応がない。
なら、話は早い。さあ、帰ろうか。
踵を返し、いざ家路へ。
と、その時
腕がもげるように痛かった。
「行かないでくれないか?」
?
「いいから、来てほしい。何も言うな」
こんな状況。あほかとうろたえた私を後から思い返すと面白かっただろう。
一瞬そんなことを思ったりした。
だがそれより早く
「走って」
と同時にとっさ、連れ立って共に走る羽目になっていた。
どういうことなのか?
わからないが、とにかく走った。
誰だか分からない、相手と手を握りあってひたすら走っていく・・・。
あとの事は知らない。
と、当時の私ならそう思うだろうと追憶する。
一、
どこまで走っただろうか。
息が上がって仕様もないのに、ただどうしようもなく、ただただ苦しかった。
「あなた、誰ですか!?」
喘ぎながら、振り向き、刹那、相手に問いかける。
とにかく、怖かった。
この状況から逃れないと、どうしようもないとどこか祈るように。
逃げるための抵抗だったし、今の私は窮地に立たされ、勢いに任せるしか考えていなかった。
なんて、簡単に連れてこられたんだろうと思うと、余りにも非力だし、
自分は無力だと思い知らされる。
でも、と一方で冷静に私は分析した。
誘拐?
そうではないだろう。
同じ制服の高校生・・・。
それよりも、相手により心配なのは、
強姦。
男にとっては簡単すぎる、女にとってはあまりにも酷いけど逃れようもない現実。を、
深刻に心配していた。
まるで捕獲されたハツカネズミだ。
おまけに周りに人がいない路地裏だ。
と、
「ちょっと、待って。何もしないから、絶対。」
!?
「俺、怪しくないから、そういう奴じゃない。取りあえず分かって。」
どういう???
「お願い、そういう事だから。」
そこまで言うと、
その人は、ほうっと全身の力を抜いて気力をチャージした。
「大丈夫。ごめんね。」
と、その人は言い放つと傍の塀ブロックに腰かけた。
年上なのかな?見た感じ、自分より大人びてもみえる。
胸いっぱい夜の精気を吸い込み軽く目を閉じ、よく見ると優しい空気を醸し出すその人は、
夜の精霊のように見え、どこかファンタスティクだった。
「取りあえず、場所を探そう。」
「私、困るんですけど。」
「すぐだから。」
「明日じゃ無理ですか?」
百歩譲って、譲歩した。
何故かって!?誰だか分からない相手と、こんな夜更けはそんな気にならない。
「明日、学校で。あなたが誰かもはっきりと。オッケー?」
もう、危険じゃないのが分かっているので、私も気が楽だった。
そんなことより、なだめるように、相手の目を覗きこんだ。
なんだか、変な夜だ。
彼は、と呼んでいいのか、相手はポエム的男子なのかも知れない。
と、今の私は思えてきている。
たとえ、後を付けたとしても、もうどうでもいいし、
明日が、あるので、家に帰って寝よう。
「今日は、いいよね?じゃ、おやすみ。」
なれ親しんだ別れ方をしてしまった。アドベンチックな夜になってしまったな。
そうして、私はなんとも表現しがたい不思議な一夜を過ごした。
二、
翌日。
ホームワーク終了のチャイムが鳴った。ここは学校・・・。
何の音沙汰もなく今日も無事終了した。平和な一日だった。
私は、というと、昨日の摩訶不思議な夜の余韻に浸りながら
のんびり掃き掃除なんかをし始めたりしている。
そう、私といえば、昨日の一件も気にはなるものの、何の変化もなくこのまま、帰ろうか、
どうしようかと考えてはいるが、どうしていいもんだかと、呑気に考えあぐねていたのだった。
今は平穏に過ぎた一日に心底満たされて、とにかくいい気分だ。
この何の変哲もない日常に身を委ねて家に帰りたい気がしてならないという事実。
とは言っても
と、授業の後の余韻で頭の切れ具合が良い状態を保持していた私は、懸念してもいた。
ゆるゆると昨日の事を思い返してみると、色々と疑問なのだ。
何故声をかけられたのか?という、前提の理由がはっきりしていない。それから、
何故なのか?
あの人は、何の、必要性を感じていたのだろうか??
私に、通りすがりの用事があったのか、目的の為なのか、どんな存在理由なんだろう??
などと、色々・・・。
その内、ようやく浮かび上がってきた糸口を紡ぎ始める。
私は、彼にとってあの場面で存在意義があったらしい故、接触されたらしいという事。
と、するとやっぱり、昨日の今日は尻切れトンボにはいかないのではないか・・・・?
私は、本当に会えるか分からないが、あの、そびえるような人に会うため、取りあえず校門に立っていようかと
考えを定めた。
やがて掃除の時間終了のチャイムが鳴り、教室を出る事にした。
それから後、ここは校門前だ。
かれこれ十分は過ぎただろう。
この、気恥ずかしいシチュエーション。何だかぎこちない気がしてならない。
早くこの場面をどうにかしたいと思いつつ、寒さに悶絶する。
後、五分したら帰るかな。
と、いい塩梅を見計らっていた、その時。
十中八九そのまま帰るつもりになっていたので、目を見開いて一点を凝視した。
彼は、現れた。
本当か?と思ったが。
また出会うとは思っていなかったのかも知れないし
どこかで、もう会わないのかと思えてきていたのかも知れなかった。
昨日の夜の彼と、何一つ変化のない彼の再登場によって、私の中で一気にフラッシュバックが起き
周囲一帯が、急変して昨日の夜になった。
改めて、見て思った事に
なんて、存在感のある人なんだろうと、漠然とそびえ立つその人を、今ここで学習した。
彼は、昨日の洗礼された夜の空気をまとっている。
それは、私の心を碧く染めた。
昼間とは言え
月夜に星がるんたった。な、気分だ。
帰り道。
とでもいうのだろうか。
名乗りあうこともせずに、連れ立って並んで歩いている。
気恥ずかしくて、校門での人目を気にしての成り行きだった。
別に、カップルでもお見合いでも、紹介でもなく。
そんなつもりはないと思っているが、然り。
詳しく言うと、昨日の夜の当事者は連れ立って歩くというより、
私について歩いてくる、という感じだった。
やっぱり年上なのだろうか、行動にも余裕を感じる。
が、優先権がまるでなさそうにも見えるし、
すべてを託してついてくる感じにも思えてくる。
又は、余裕のある故、譲って歩いてくれているようにも見えた。
ほんと、不可解。
何かにつけ、やる気のない人なのかも。
まるで、はっきりしない。
このままでいても、埒が明かないので、
不本意ながら、私から切り出した。
「昨日は、何の用だったんですか?」
貴方、誰?
と、本当は開口一番に聞きたかった。
彼は、暫く沈黙していたが、仕方なげに応じたようだった。
といっても、
「・・・・・・。」
これが返事だった。
ただ単に、立ち止まって私を見ていた。
そこそこ真面目な様子で。
「昨日は何の用だったんですか?」
「・・・・・。」
「年上かもしれませんよね、ごめんなさい。」
暫くの間、沈黙が続いた。
私達はお互い、無造作に立ち尽くしていた。
・・・・・なぜ、何も言わないの?
腹が立ってきた。
独り相撲はしたくないけど、ほんと、どうしたらいいか分からない。
なんか、困ってしまう。
そのまま、どうしようもなく途方に暮れてしまっていて、沈黙が続いた。
暫くして
「昨日は、ごめん。」
「・・・・・?」
「びっくりしただろ?」
突然、彼は言ってきた。
「ごめんね。でも、悪くないんだ。」
「悪くないって?」
「なんだろな、言わなきゃいけない事がありすぎて。見も知らない人に干渉されて気の毒だけど。」
?
「とりあえず、ついて来て。」
「なんで?」
「いいから。」
そう言って彼は、私の手をつないだ。
無理やり引っ張られ、錯覚で、ドリーミングな、ワンダーランドにでも連れていかれるみたいだ、
なんてことにはならないし、
やっぱり、見た目じゃ、相手がキュートなポエム的男子か何なのか、なんて、単純には分からない。
毎晩、遅くまで家に帰らない自分の主義を、今の私はほんの少し呪っていた。
三、
蔦の絡まる赤い屋根。昭和の歌謡曲が似合いそうな、とある喫茶店・・・・。
夕焼けが映えて美しい、そんな昼下がりの片隅だった。
私は、等の問題の彼、、、と向かい合って座るべく中に入っていた。
とりあえず、話を聞かなければならなくなってしまっている。
彼は、やる気のないキリンのような体制で座っていた。
私は、女子高生然り、行儀よく座って取りあえず水を飲む。フリをしているのに近い行為だっだ。
「カシオペア、っていうのか、ここ。」
と、取りあえず彼は言った。
「らしいね。」
暫し沈黙が続いた。
「話って?」
「ああ・・・・。」
又、再び沈黙が流れる。
やがて、彼は口を開いた。
おもむろに。
「あんたの名前だけど、知ってる。」
なんだ、唐突だな。
「え?」
「一年の、片桐和香、だろ・・・・?」
「はい。」
「俺は、二年の嘉田裕司という。」
「嘉田?嘉田さん・・・ですか。」
「何の用ですか?嘉田さん。」
「毎日、夜フラフラしてるだろ?」
「え?」
「夜、十時ごろまで。いつも。何してるんか知らないけど。」
見られてた・・・。
何故かショックだ。
緊張感も走った。
悪い予感がする。
「はい。」
「みてるやつ、いてて、やばいやつそうだから、忠告。」
やっぱり。
「どういう事?」
「いつも、通りかかって目に入るんだけど、あんたの事。変なのが狙ってるみたいだし、あんたに言っとかないと、大変だから。何かあったら、困るだろ?」
「なに、それ?」
「悪いやつも、世の中居るんだぜ?マジ怖くないの?あんな、夜中にその分際で。」
「怖いかも。」
私は、ちぢみ上がる思いだった。まるで拾われた子猫みたいに首をすくめる。
「もう、やめろよな。ハラハラしてたんだぜ。」
「ごめん、何かおごります。」
私は、この時ほど自分の軽はずみな行動を恥じた事はない、という人生に何度も訪れる感触を味わっていた。
穴があったら入りたい心境だが、目の前の、命拾いしたことに、今はただただ感謝するのみだった。
「ありがとうございました。忠告。」
小さな声でお礼を言っておいた。
「何だか、火照ってきたなぁ。」
帰り道。
あれから、遅くなったので送ってもらった。
て、言うか怖くて。
私は彼にぴったり張り付いている。
「怖いです。」
「ね、ね、どうしよう。」
「何か話してください!」
と、ずっとまくし立てている有様だった。
「黙って、ついてろ。」
と、頼れない言葉で彼は付きあってくれてはいたが。
雑な対応で、不安が拭い去れないでいる。
「明日も送ってください!」
と、勢いでもう何でも言えてしまえるのだった。
彼は、急に立ち止まって考え、
「いいけど。」
しょうがない、と思ってくれたみたいで、救われた思いだった。
有り難さを噛みしめ、たちまち安堵した帰り道・・・。
ほっとしたとたん、気が抜けた。と、急に疲れで眠くなってきた。
「・・・・眠たい。」
「へ?」
脱力して棒立ちの私にびっくりしてる、嘉田さんだった。
高二、かぁ・・・。
暫く、ボディガードしてもらうべく見知らぬ人と無理やり仲良くしようとしている。
なんて、勝手な私。
それに、付き合ってくれる天からの助けであるこの人は
私よりも二回りも大きくて、ほんと良く出来た人、のようだ、と思った。
ただただ、感謝しかない。
ありがたや。
「おい、いくぞ?」
「はい、お願いします!」
こんな、夜は早く寝て過ぎ去ってしまえばいい。
明日から、感謝で一杯の日々が、少し疲れるかもしれなかった。
月が凛としてる。
四、
後日。
それからというもの、そういう事で、毎日の放課後が始まった。
例の嘉田さんは優しく、ほとんど義務的に、付き合ってくれている、というスタンスだった。
風の寒さに身がすくむ冬の一画。
まるで、デートだと言われればそのものに見えるだろうけど、私自身もうただ怖くて、それだけで兎にも角にも精一杯なのだった。
とりあえずは、毎日、私達は校門で待ち合わせをすることになり、
気恥ずかしさは、すっかりどっかに飛んで行ったようだったが、早く言えば、公認カップルみたいで、慣れてしまったのだった。
寒さのせいで手が氷みたいになっていく。
悪いなぁ、と思いつつシッカリガードがついてくれてると思うと安心感がまるで違うのが
何よりの救いだ。
ありがたや。
そして、付き合ってもらってる彼が何故か信用が置けそうだと思える事も、私事乍とてもラッキーかもしれなく。
一年先輩あってか、彼には後からついてくる余裕があったから、
このことも、色々気にせずいられるし、安心感から付き合ってもらいやすく、ありがたかったので、助かった。
そんなこんなで、、、、。
コンビニ一つ寄り道せず、絡んでくる相手が来ませんようにと一心に、念じながらひたすら真っ直ぐ家路を急ぐ、毎日の放課後・・・。
人気の多い大通りを黙々と足早に帰る日々を送っていた。
そもそも、、、、、。
聞きたいのだ。
その、私を狙っていた人たち?一から十までとことん知りたい。
どんな人たちなんだろう?何が目的で?兎に角知りたい。すごく気になる。
だって、今はこうして安心できる日常を謳歌している訳だけど、私はあわよくば悲運に飲み込まれ、取り返しのつかない今を後悔の渦で生きているだろうし、さもなくば死んでしまっているかもしれないのだから。
運良くも、あの時、彼に呼び止められても無視してあのままいつまでも同じ夜を日常と思っていたら・・・?そう思うと本当に心底恐ろしくて凍り付くのだった。
彼は、間一髪。私を助けてくれたのだった。
それは、私の命や人生を丸ごと救ってくれた訳で、彼の事はもう、恩人としか見れなくなっている。
それとは、他にもう一つ、思い当たる節があるのだ。
嘉田さんは、知ってたのだ。
私の名前、片桐和香というフルネームを。
何故なんだろう?そもそも、赤の他人同士のはずが、何故知ってるの?
段々、分からなくなってきた。
この人の事、私、実は分からないんだな。
そういう彼自身は、今日も黙って三歩後をついて来てくれている。
何処か楽そうな歩き方。コンパスが長いせいか、せかせか歩く私とはどこか余裕に差があるのが一目瞭然。とても分かりやすい。
無表情、無頓着、無関心、って感じ。いつも何考えてるんだろう。なんだか良く分からないけど。
でも、付き合ってくれてるのは嫌そうじゃないみたいで、全然そんな感じは受けなかったし、気軽に付き合ってくれてるみたいだったし、私もその方が良かったので、ほっとした。
「じゃ。」
唐突に彼が言ったのが聞こえ、我に返る。
終点みたいだ。
「有り難う」
取りあえず、別れるためにお礼を言う時が今日もやってきたようだ。
さよなら。
この人に言いたい事、
色々考えては何も話せない日々が悶々と過ぎていく。
夕方近日にて、
今日も月はまだ見えてこない。
人の事ってどこまで知らないでいるものなのだろうか。
そこに、合理的な距離感はあるのかな?
お互い知らないでいるのも、知っていくのも自由だ、とも思えてくるのだ。曖昧に。
こうして、日々歩いていると。とても、思えてくる。
それは、新鮮な空気を帯びて二人の距離感を浮かび上がらせるようだ。
鮮明に淡く光る碧い空気をまとった彼と、私と、夕方と、帰り道と。
その人、嘉田さんは、不思議な人だった。
私の事、どうして知ってるの?
何故、何も言わないのだろう。
私達はどんな人間同士でこんな風に付き合ってるのか、まるで見えて来ない。
でも、この信頼関係はどう形状すればいいのだろう。
嘉田さんは、まるで知らない人だけど、貴方にとって私は誰ですか?
五、
「知らないって、それ良く無くない?」
びっくり顔の、女友達、紗季ちゃん。
五時間目。後一時間で今日も帰れる、昼下がりの美術室。まったりタイム。
絵具パレット片手に画用紙と格闘中の二人。おしゃべりタイムにもってこいのひと時だった。
「なんで、和香の名前知りもしない他人が知ってるのよ?怪しくない!?私だったら疑って、近づかないよ!変な奴かも!?」
いつも、親身の親友紗季ちゃん。一番の味方。ごもっともです。
確かに、一理ある。鋭く突っ込んでくれてありがとう。嬉しいかも。
「でも、ボディガードほしいし。」
と、何気に返答を試みてみる。
「うーん、あたしは部活あって見に行けないしなぁ~。」
「ありがと。気にしてくれるだけでも、嬉しい。」
「照れるじゃん。てか、名前聞いとけ!」
「ん~、そうなんだけどなぁ~・・・。」
今日も、校門で会うことになっている。
結構、私の人生の大半を占領しかねない場面になりつつある、日々の恒例行事となっている。
紗季ちゃんには、知らない人とひょんな事から付き合うようになった、とだけ報告していて、それ以上は言っていなかった。
あんまり事が大ごとになると困るし、、、というのもあって。
要するに言いにくい事でもあるからだ。
何故、相手は女友達。慎重にゆかねばならない。
多方面において。
その張本人、彼、なんだけど・・・・。
イマイチはっきりしないのは、私がいつまでも聞かないからで、彼が悪いという訳ではないのだ。
年上男子って、年下女子をほったらかし同然に接するとかいうのがあるのだろうか?
「名前、知ってるよ。」それだけ言われてそれ以降何も言ってくれないのは何故だろう?
黙ってついてくる、私はなんだかんだ言っても年下女子の典型なんだろうか?
そもそも、聞けなくなってからどの位時間がたったのだろう。
相変わらず、今日も会話がないまま別れるのだろう。
感謝はしてるのだけれど、なんか釈然としてこないでいた。
それなら、と。
よし!今日こそは。
気持ち新たに教室の空気を胸いっぱい吸い込んでみる。
猪突猛進。
放課後、勝負に出る覚悟で挑もう。
嘉田さん、今何受けてるかな?
同じ学校にいるんだよね、何か変な感じでもあるんだな。
取りあえず、放課後。
アイスでもダブり買いして一緒に食べようかな。
当の嘉田さん本人は、
日々、私の中で勝手に、正義のミカタになりつつあるのも事実だったりするし。
正義のヒーロー、嘉田様様、
今日も、宜しくお願い致します。
「で、おごってくれる訳ね。有り難うさん。」
帰り道。
嘉田さんは一通りよく聞いてくれた後、笑ってそう言っていた。
「大事な事ですから、外せません。」
と、すかさず私は強調する。
「答えてくれますか?」
と、速攻歩み出てみる。
「名前ねぇ。何で知ったっけかな?」
彼自身はというと、単純にすっとぼけてる様で、どうも明後日の方向を見ているかのようで。
「まー、どっかで見たんじゃない?」
明後日の方から返事が返ってきたりした。
えっ?そんなもん!?
「あっそうですか。」
拍子抜けた返事を返す。
今一納得し難いけど、そういうもんですか!?
無理に自分を納得させようと、もがいてみた。
「どっかで、何となく、ですか?」
すると、彼はいともあさっりと
「ま、そんなもん。」
満更、嘘でもなさそうなんだけど。
何か今一腑に落ちないまま、これで自分を納得させようと無理矢理自分を当てはめた私なのだった。
それから、ありありと染み出てきた気持ちを改めて実感する。
「いつも有り難うございます。ほんとに。」
心から、言葉にしてみた。
嘉田さんは、ふふっと少し喜んで笑ってくれた。
「いつでも。」
有り難い言葉、いとも簡単に言い放ってくれた嘉田さんだった。
そして、嘉田さんは温かくて優しかったので、訳もなく嬉しくなったのだった。
私は温かい人が、何時までも温かくいられますように祈りを込めた。
この人がずっとこんな風でいてくれたら、どんなにかいいかと思う。
優しく温かいこの人は、唯々救いだ。
存在だけで。生きているだけで、十分なほどの救いだ。
嘉田裕司とは、そんな存在感のする、人だった。
正義の味方、とかそれ以前の話だ。
六、
それから、というもの。
ありがたいことに、季節は平穏に過ぎて行き、あっという間に冬休みが
待ち遠しくなってきたりもしていた。
寒さの増す季節となり、日々実感する様にもなり、二学期も終わりに差し掛かって来るようになった。
十二月、年の暮れ。
私は、いつも、嘉田さんには感謝を忘れない日々を生きていた。
お陰様で、謳歌させてもらってもいる。
その一方で、相変わらず、常々私は臆病だった。
そして、結局、分からないことを放置していたことに、最近改めて気づかされた。
どうも朧気乍ら覚えている事に、今更ながら驚いている。
その・・・分からないで、放置していたこと、とは・・・?
それは、今回この成り行きになった事の始まりだった。
この件での中枢核となる一番大きな問題なので、今まで放置していた事には、結構私もいい加減な人間だと気づき、呆れてしまうのだった。
ちょっと情けないかも知れない。
つまり。
私は誰に何の目的で狙われていたのか?
今はどうするつもりで居るのか?
その相手はこれからどういうつもりで居るのか?
を、知らないで居るのは非常に宜しくないという現実だった。
そう、結構テレビや警察を使っても可笑しくないくらいの物騒な境遇に何の疑いもしないで、今まで私は何をのんきに生きているのだろう。
そう言えば、嘉田さんも、何も言わないし、変だと思う。
無関心なのか気にならないのかまるで分らない。
嘉田さんの事もそういえば何も知らないけど、このまま知らないで行くとそのうちどうなるのだろうか?
私は自分の愚かさを改めて痛感していた。
何も知らないで一体何をどうして行けばいいというのかを、全然知らない。
のんきに、現実を直視しないで甘えていたのではないのか?
でも、と私は思ったのだ。
それでは、いけない事がはっきりと分かったのだ。今の私は現実が見えた瞬間に立ち会っている。
ここから一歩、どちらに踏み出すかは極めて重要な選択肢だ。
そう、現実を直視する世界へ。
正しく踏み出そう。
「今日もよろしくお願いします。」
放課後。
「じゃ、」
と言って前を歩きだすいつもの嘉田さんがいる。
この人、成り行きだけの付き合いを、人の良さから受け入れているだけなのかな?
何も、必要なことは言ってこないし、終始無言に近いのだけど。
「すみません、改めて話を聞いてほしいので、どこかでお茶してくれませんか?」
唐突に、聞いてみると、
「おーけー。」
気の抜けた、いとも簡単な返事を返された。
「カシオペア。前も来たね。」
喫茶店で、彼は言った。私も、ちゃんと覚えてる。
帰り道といえば何かと目につく赤煉瓦の喫茶店。前来た時は昼下がり時だった。
一瞬の沈黙が室内音楽と共に流れていく。
嘉田さんは、休憩しているキリンの様に見えた。向かい合ってコーヒーを頼んでいた。
カップルの様だと思うのは私だけだろう。嘉田さんは決してそうは思っていないはずだ。
相変わらず、いつもの様に自分から切り出す羽目になりそうだと私は睨んだ。
彼ははたして受け身がモットーなのだろうか?
「今更言うのもなんですが、すごく大事なこと、忘れていたんです。」
「?」
嘉田さん、貴方は何者ですか?私のことをどう思って付き合ってるのですか?
何となく、いつも思っている事だったけど、今は言えない。
「この間の、誰かに狙われてるって私に言われましたよね?あれは、どういう意味ですか?」
「詳しく知りたくて。」
でも、暫く忘れてました。なんて事はなかなか言えなかったので隠しておいた。
事の重大さ、ということに無頓着だった私はまだ子供すぎるのだろうか?
嘉田さんも、知っていたのだろうか?私が如何に考えなしの子供だという事に。
怖かった。彼の反応が。
私を、どう思うのだろう。
「あれね。」
「はい、」
一瞬、急に大人ぶった態度で、知りたい?などと、意味深な面持ちで言われないかと、恐れていた。
「あれはね。いい年のオジサン。」
「・・・え?」
「酒で酔ってここら辺にいてるよ。いつも。」
「今もですか?」
「最近は、真夜中の事は俺もよく知らないな。」
「・・・・・・。」
「忘れていくんじゃない?それとも、なんとかしたい?」
「はい。」
「じゃ、どうする?警察に言っとく?」
「警察・・・・。狙われていましたって、ですか?」
「あれから、日がたってるから無理があると思うけど・・・。」
「そうですね・・・・。」
「・・・・・・もう狙ってこないでしょうか?」
「うーん・・・。」
「・・・・このまま、付き合って下さい・・・・。」
「はい、わかりました。」
彼は、ニコッと笑ってくれた。
この笑顔に救われた、私は
ただただ、単純に嬉しくなった。
「じゃ、」
と言って、彼は定位置で手を挙げた。
「ありがとうございます。」
と、わたしも、定位置で頭を下げた。
そして、夕暮れ時の中背中を見送る。
ありがたいとか幸せだとか
そんな儚い思いがどうか消えてしまわないように
いつまでも、夕闇に消えていく背中を見送っていた。
嘉田さん、こんな形でも出会えて良かったと思う。
不思議な縁だよね。
七、
そうして冬休みがやってきた。
嘉田さんとは、二週間会えない事になる。
この歳になると、クリスマスも、お正月も、どうでもいい話だし、
残るは、宿題の山を、どう処理するかだけ、が課題の二週間なのだからして。
冬休みが始まると同日に、クリスマスがあり、年賀状の投函締切日でもあるのだけど
高校生の私には無縁の存在で何も関係がないし。
もういくつ寝たら、お正月だといえど、
お年玉、なんて今更もらわなくていいし、御節もめんどくさい。
冬休みは、何かと、めんどくさいし、恒例行事なんて小学生で終わっていいと思っている。
そして、大掃除どうしようか?と頭をもたげたけれど、春休みで良いことに決めてしまったのだった。
「宿題の山が~!!」
暇つぶしの電話の向こうから、紗季ちゃんがぼやいている。
「一緒にやっちやって!!じゃないと、絶対無理みたいだし!!和香に助けてもらうからね!!。」
「どうぞ、おいでなすってって。いつでもいいからね。いつも、暇だから。」
私はこの冬休み中いつでも、暇そうだった。
何か予定を入れていかないと、ほんと面白くも何ともない、二週間だ。
私は、心と体が毎日健全を維持するべく、予定を膨らました。
何をしよう?どこへ行こうか?
ごろんと自室に寝転んで、気ままに想像していく。
私は、まだ高一だし、勉強も、今年の復習と宿題くらいだし。
冬休みが終わったら、あっという間に春休みが来て、進級。
嘉田さんは三年に進級か。受験生なのかな。
いつまで、一緒にいられるのだろう?
帰り道、デートみたいで、お見合いのようなぎこちない二人連れを、
これからも、継続していくのだろうか?終わりがいつか来るのだろうか?
いつか、終わるのだけど、いつまで続くのだろう?
気が付けば、冬休みの予定から、想像がずれてしまっていた。
いい人だな、と思うけど。
帰り道が、なんとなく好きだったのだ。
仕方なく、付き合ってくれる、安心できる優しい人なのかな。
嘉田さんの、キリンの様にゆったり歩く後ろ姿も、ニコッと笑ってくれる仕草も、
話し方も、声も、まとっている暖かな空気も、すべてが嘉田さんだった。
一年先輩なのか、自分まで落ち着いていられる。
あの人の、笑顔が又、みれますように。
早く、冬休み終わりますように。
偶然、街中で私服の嘉田さんに出会えたらいいな。私生活の嘉田さんも知りたいなぁ。
電話番号も、住所も知らないし、このまますれ違って会わなくなる日が来るかも知れなかった。
このまま・・・・・。
このまま・・・・・?
・・・・・・・・このままでいいの?
心の奥から突き動かす何かがあった。
声?
このままじゃいやだ。
心の声が、率直に告げる。
このままじゃ、いやってどうすればいいの?
すると、声は、急に小さくなり、泡のように消えた。
私は、とたんに、取り残される。
そして、独りになって、思った事。
このままじゃ、いやだけど、どうすればいいのだろう?
部屋の中が、夕闇に照らされている。
もうすぐ、凛とした月が見えてくるようだった。
冬休み、早く終わって、又嘉田さんに会いたい。
二週間、もどかしくなりそうだ。
八、
それは、唐突にやってきた。暗がり始めた冬の真っただ中。帰り道。
冬休みは、あっけなく過ぎ去り、平穏な日常のいつもの時間帯だった。
あれから私は、無事紗季ちゃんと宿題の山を片付け、ほとんど一緒に日々を過ごし、宿題でやっと終わった冬休みだったと、振り返った。
そして、今は、無事提出もできたという事で、スッキリと気分も良かった。
嘉田さんと私はというと、相変わらずして二人一列に並んで歩いている。
横に並ばないところが、ちょっと不自然なぎこちない行為だと思うけれど、まあ、百歩譲って仕方ないのかな。
何となく、ぎこちなくもなる、いつもの帰り道だった。
と、その時、
はじめは中年かな、と、思ったけども、それよりも年上だろうか?
見た感じ、六十代位の男の人が、私達の間に歩いて入ってきた。
ちょっと歩きにくいな、と、思った瞬間だった。
私はその人に、強引に腕をつかまれ引っ張られた。
いきなりのことで、私は頭がついていかず、されるがままに従った。
その、見知らぬ人は、掴んだ腕を離す気配もなく、強引にどこかへ私を連れて行こうとした。
どうしよう!?
と思ったその時。
「待て。連れて行くな。」
嘉田さんが、止めに入ったのだった。
「あんた、あの時の・・・?」
あの時?
その男の人は、無言で、でも私の腕は離さないで居る。
「嘉田さん、あの時って、何の事?」
その時、又引っ張られ走らされ人気のない、路地裏の方へ・・・。
あの時の、何だろう?嘉田さんの、一言が引っ掛かっていた。
掴まれた腕は、強引で痛かった、同時に走らされてもいる。でも、向かっているのは人気のない
暗い路地裏だった。
こんな見知らぬ人に引っ張られて連れてこられて私、どうなるの!?
嘉田さん、お願い。
強姦か、わいせつか、分からないけど、そんなのいやだ。
窮地に立たされている。もがけばもがくほど無理みたいだった。
あきらめながら、私は嘉田さんに必死になって祈っていた。
と、その時、
ドカッ。
ガスッ。
鈍い音がした、と、同時に、手の力が解け、目の前の男性は
ドサッ。
と、前のめりに倒れてしまった。
何が、あったのだろう?
窮地に立たされていたはずが急に何も見えてこない状態に陥り、おろおろしていた。
と、
嘉田さん?
少しばかり、息が上がっている嘉田さんが、真剣な形相で目の前に立ちはだかっていた。
どうやら、男性を殴ったらしい。肩で息をしている。
男性は、倒れたまま、起き上がれないみたいだった。
「警察に突き出そう。」
やがて、吐く息を整えた後、嘉田さんは独り言を言うみたいに静かにそう言った。
あの時、何と言おうとしたのか、嘉田さんが言いたかったことを私は察知していた。
そして私の、ずっと気に掛かっていた問いに、嘉田さんは予感通りこう言ったのだ。
「あの時の。酔っぱらいのオッサン。」
「怖かった。」
「うん。」
「ありがとう。」
「うん。」
そう言って、スマホを取り出すと、嘉田さんは警察に電話を掛けてくれていた。
早くしないと、倒れていた目の前の変質者が、又起き上がって何かしでかすのだろうか。と思えると気が気でない。
このまま穏便に事が運ばれる様、ひたすら無事を祈っていると、やがてパトカーのサイレンが聞こえてきて、やっとほっと出来たのだった。
そうこうしている内に、私が、胸をなでおろす頃を見計らってか、珍しく嘉田さんから話しかけてきた。
「昔、両親が離婚しそうになって。」
「え?」
彼は、唐突だった。
「その時、施設に入れられそうになったんだった。」
「・・・・・・うん。」
「あの時、止めてくれた人が、当時の俺とそんなに歳変わらなくて。」
「・・・・・・ふうん?」
「ありがたかったんだ。あの時あの子がそこにいなかったら、俺今どうしてたんだろう。て、思う。」
「そうなの?」
「出会えて良かった。」
「え?」
「なんでもないけど。」
「・・・・・・うん。」
どこか遠くを見ている嘉田さん。知らなかった。
「・・・・・・・・施設に、入らなくて、良かったね。嘉田さんの人生は嘉田さんのものだもんね。お父さんや、お母さんのものじゃないよ。ご両親も、ほんとの幸せに気付かづにこの先ずっと生きてくなんてしなくていいんじゃないかな。ほんとは分かってた事なんだよね。気づかないだけだったんだよね。きっと。」
なにげに、話をし始めていると、その瞬間、穴が開いたようにまじまじと見つめられた。
何の事か分からず、見つめ返していると、長い間時間がそこだけ切り取られたように世界が静止してしまった。
「なんか、言った?私。」
「・・・・・・・・・・・・・うん。」
それから、暫く
なんだろう?
「あの時と、又おんなじこと、言ってる。」
「あの時?」
嘉田さんは、大事そうについ昨日の事の様に、ぽつりぽつりと話して聞かせてくれた。
「あの時、施設に入れられそうになった俺と両親の前で偶然出会った、小さな女の子。俺たちを見て、どんな状況か、一目見ただけで呑み込めてしまったんだろうな。きっと。絶対別れるな、家族とは、幸せになるために出会って一緒に生きる道を選んでいるもんなんだって、間違いはあるけどそれはほんとじゃないって、言ってた。」
「・・・・・?」
「一生懸命だったな。全身全霊で泣き喚いてて。俺たちの状況が、すごく悲しくて仕方なくて、自分の事みたいに、辛そうだった。」
「・・・・・うん。」
「もう泣くな、自分の事くらい自分で決めるって。って、俺言ったんだった。両親もそう思ってたみたいだった。自分たちの幸せくらい守れるから。って、俺たち、約束したんだ。あの時。」
「・・・・うん。」
「それから、俺の両親の一人一人に確認してたっけな。俺が生まれたときはきっと二人ともすごく幸せだったはずだってね。俺、その言葉がすごく嬉くて、その言葉に救われたんだ。目の前にいるその女の子は、天使かと思った。」
「・・・・・天使?」
「よく言うだろ?運命を左右されるような時に天使が現れるって。」
「そうだったっけ?」
「両親は、俺が生まれた時に戻りたいから、必ず三人で幸せになるって、誓ったんだよ。あの時の、お前に。」
「私・・・・?」
「そう。あんた、変わってないな。抜けてそうでしっかりしようとするところも。いつも、もがいてそうで、進んで無さそうな所も。あのときも、そんな感じだった。お前の中では、あの時、俺たち家族が変わっていくのに気づかないまま、家族の大切さを只只、訴えかけていてくれていた様だった。いつか、恩返ししたくて、名前聞き返したんだ。片桐和香。って、その女の子が言ってた。」
「意外と近くで、又、こんな風に出会えるなんて。出会いがあるなんて、思わなかった。良かった。あれから、何となくいつも探していたんだ。もう、何年になるか分からないけど、ずっと。俺の人生を変えた運命を左右することだったから。」
真剣な、噛み締めるような、丁寧に話をする嘉田さんの口調・・・。
「そんな事、あったの?私、記憶にない・・・・。」
うん、そうだね、と、彼は頷いて、大事そうに、愛おしむ様に、その瞳で私を捉えた。
「ありがとう。」
心からのお礼を、一つ一つかみしめながら、丁寧に丁寧に言ってくれた。
それはまるで、何年も蓄積された積もりに積もった思いを、やっと報われた思いで言葉に出来た様な。
ずっと、言いたかった言葉・・・・。彼にとっては、とても大切な一言を、大事そうに、言ってくれたのだった。
「私、忘れてるみたいだけど、いいの?」
「いいよ。」
彼は目を閉じて、嬉しそうに言った。
「こうして、会えたから。」
知らなかった。けど、
どうやら、そんな事があったらしい。
「天使なんかじゃなかった、普通の子だった。」
嘉田さんは、笑って最後に私にこう言い残して、
「じゃ。又いつか。」
と、踵を返そうとした。
それから。
二人はお互い終始無言なまま別れていくのだろうか。
終わり。と思ったら本当にそれでこそおしまいな、そんな別れ際だった。
このままじゃ、いやだ。
「待ってください。」
私の声に振り向かず、歩を進める嘉田さんが、小さくなっていくのが寂しかった。
彼は心から、もう何も思い残すことなく、本気で別れて行くのだろうか。
そう、私達は、恋人同士でも相思相愛でもなかったのだ。
でも・・・。
行かないでいてほしい。
と、言っても無理そうだと、予感がしている。
「行かないで。」
これから先も。いつも。どんな時も。
「貴方が行ってしまったら、私はどうすればいいの?」
嘉田さんが、立ち止まって、振り返るのと同時に私は涙があふれていた。
じっと、立ち止まって微動だにしない、嘉田さん。
「ずっと、いたいのに。」
「・・・・?」
「もう、独りになりたくない。」
「・・・・・・・・・。」
「これからも。」
泣きながら、無茶だと知っていても言ってしまいたかった私の本心を、嘉田さんはずっと冷静に聞き続けてくれていた。
それから、私の涙の音に、静かに耳を傾け、落ち着いて傍に佇んでくれていた。
ずっと。
何秒、いや、何分の間、そうしていたのだろう。雨のような涙の雫が私の顔を滝の様に濡らし続け、私は心から疲れ果ててしまったのだけれど。
彼は、いつまでもそんな私を観ていた。凝視する程まじまじと、とでも形容するかのように、とても信じがたい事の様に、いつまでも凝視しつづけていた。
やがて、
「ありがとう。」
信じられないように、彼は小さく呟いた。
そして、彼は続けたのだった。
「僕は、バイトがある。そろそろ復帰しないといけない。」
「じゃ、もうさよなら、なの?」
「・・・・・・見に来るくらい、いいけど。普通の人は、着いていけないかもしれないバイト。それでもいいのなら。」
「うん、見に行く。だから・・・。」
「おーけー。だから・・・?」
「これからも、一緒にいたいの。」
どこか、小さな子供が、拗ねたような言い方に変わってしまっていた。
「・・・・・・・・分かった。」
彼は、再び、おーけー、と、言った後、どこかいつくしむ様に私の涙をずっと見つめ続けてくれていた。
私は、ずっと彼の視線を感じながら、不覚にも涙を流し続け、やがてそれは喜びの涙へと化していったのだった。
私が泣き止むまでの数十分間の間、私達はずっとその場所に佇んでいた。
朧月が優しく心を癒す、冬休み明け。
今日は、心身共に疲れ果ててしまった。早く帰って休もう。
九、
後日、、、、、、。
あれから、暫くの時間が経過して、幾日が過ぎ去っていった。
嘉田さんとは、バイトがあると言われて以来、ぱったり会っていない。
私はと言えば、あの日の、嘉田さんの記憶の中にある、幼いころの私と、その時の嘉田さんの気持ちが、私の中にいつまでも燻っていた。
そういえば、最近夢を見たような気もする。
嘉田さんの話のせいだろうか、知らない男の子の夢。
昔の、私のまだ世界中の幸せを一心に受けて神様に愛されてやまない頃の記憶と、
目の前の、この世の不幸を一身に背負ってどうしようも無く寂しそうにしている知らない男の子が出てきた夢、だった。
私が、その時強烈に思った事は、自分の有り余る地球から貰っている幸せのエネルギーを、目の前の寂し気な男の子に全部あげてしまわないといけないと、痛感していた事だった。
その男の子は、絶体絶命の危機に瀕していた。
私しかいない。
今、この私が何もしないでいる訳にはどうしてもいかない。
自分が今ここに居ないといけない意味が、痛いくらいに良く分かっていたようだった。
運命が、引き合わせている、幼い二人。
私は、祈った。
神様、どうか助けてください。
目の前のこの人の為なら何でもします。
私の幸せを、この人に全部あげますので、どうか助けてあげられます様に。
私は、全身全霊の力で、見えない神様に祈っていた。
そんな、心の切れ端が夢に出てきた。
過去の記憶の、断片かも知れない。
日々、朝が来て、昼が来て、夜になっていく。
学校に行って、帰る日が、淡々と、続く。
もう会えないまま、日が過ぎて行くと思えてならないその頃、
私は、ふと一枚の紙きれを取り出した。
西区鴉丸ビル四階。
彼のバイト先だ。
あの時。
私は、みだりにも泣き出し、失態を見せひけらかした挙句、嘉田さんを困らせやしなかったのだろうか?
彼は、優しい人だから・・・、、、でも、果たしてそれでいいのか?
このままずるずる嘉田さんの優しさに甘んじていたくはなかった。
バイト先に、行かないで居る理由にもなっていた。
私は、そんな存在でいたくない。
嘉田さんにとっての、存在意義とは、何か?
今の私は、もっと鮮明で確かな人物でありたいと思っていた。
彼の人の良さに甘んじて、ただただ楽しくて幸せならそれで満足できてOKなのか?
私はそれを、自己満足と呼ぶ類のものだと思うし、それでは自分さえ良ければいいだけの人に成り下がってしまうと思えてならない。
そういう人も、この世には沢山いるだろうし、それはいい事でも悪い事でもないのだからそれでもいいかもしれないけども。
それでは、満足に理解できない自分がいた。
今では、はっきりと自覚している。
彼と、彼の間に在るもの。その存在価値の位置が定まらないで居る事に、気持ちが定まらない。
それが、私をいつまでも躊躇させて、嘉田さんに会わせないで居るのだった。
それでも、知りたいことが、後から後からいくらでも実在する。
私は、紙切れを大事に広げて見た。
西区鴉丸ビル四階。
お邪魔にならないだろうか?と思うと、行く気が引けるし、このまま忘れていくのも嫌だった。
神様を、今更信じられにくくはなったとはいえ、神様ならどういうだろう。
彼に会いに行きなさい。と、言ってくれるだろうか。
あの頃の私なら、何と言うのだろう。
会いなさい、と言うのだろうか。
会いたい、と思った。
正直に、なりなさい、と言われたような気がした。
子供の頃に戻って、あの時の私に聞いてみたい。
その頃の私と彼と神様なら、どんな結論を出して私に何を命ずるのだろう?
もし、行ったら。
何か、変わるだろうか?
何が、どうなるのだろうか?
あの頃から、又、二人の道のりが歩めて、関係も変わればいいのに。
私だけじゃなく、嘉田さんも気持ちに変革が起きれば、優しいだけじゃなくなればいいのに。
気持ちが、先走る。
西区、鴉丸ビル四階・・・・。
期待と、躊躇の混同の波。
もし、希望を、持ち直したら、それは行動に移すことを意味していた。
どうしよう、行ってみようか。
何がどうなるか、なんて、何もしないと見えて来ない。
明日。
行ってみよう。
学校の帰り、寄り道しようか。
お邪魔かもしれないけど、彼を忘れたくない思いが私を後押しした。
もしかして、神様が、何か言っているのかも知れない。
知りたいこと。彼といると分かってくることのように思えること。
確かめたいこと。大事な事。
そうしながら、私は、浮かんでくる沢山の事柄を、思い浮かべては、鴉丸ビルに思いを馳せつつ、
あの男の子に又、会いたいと思い、幼い記憶を辿り、祈るように眠りに落ちていった。
十、
翌日、霧雨のような小雨が降り続く、冬の一角。
学校の帰り道、私は寒さで体を小さく縮ませ乍、傘を被せるようにして鴉丸ビルを捜し歩いた。
大分探し回り、途方に暮れてきたので、今日はこのへんで一旦あきらめようと思っていたその矢先だった。
その道幅は狭く、やがて向かい側に駅が見えたころ、目の前にそれは存在していた。
どうやら四階建ての、駅近ビルらしかった。
見つけた時の高揚感は、一瞬にして期待に変わった。
駆け寄って、開きドアを押し開け、一気に中に入るとレトロな階段を駆け上がる。
人気のない、しんとした冬の重さをまとった空気がビル全体を包んでいた。
ほんとにこんな所にいるのだろうか?
戸惑う気持ちで一杯だった。人気のないビルには入っていくだけでも勇気がいるし、ちょっと物騒な気配がしないでもない。
そう思いながら、最上階に来た。四階だ。
そこには、ドアノブの付いた重そうなドアがある部屋が一つだけそこにあった。
ここ・・・・?
半信半疑で、ドアノブをひねって開けてみた。
そこには、何人かがいた。
その中に、その人もいた。
そこには、音楽で使われる楽器を目の前に座っている人、立っている人達が四人ぐらい存在していた。
何をしているのだろう?
急に広がった光景に頭が追い付かないでいた。
人気のない、物音も無さそうなレトロなビルの最上階。
彼等は音楽と向き合ってるのではないのか。
そんな思いが、段々湧いてきて思考が定まってくると、その時。
「ごめん、外して。」
と、彼が言って、仲間から抜け出し、私の方にやってきた。
急に場違いな事をしてしまった罪悪感に駆られた私は、消極的になった。
「余計なとこ来たみたい。」
そうすると、嘉田さんは、そんな私の気持ちを打ち消すかのように強気で言ってくれた。
「ずっと、待ってた!」
嘉田さんは、私の気持ちを見事吹き飛ばし、ふっきれたような笑顔だった。
「来てくれて、ありがとう。」
太陽の様に明るい声だった。
それは、からからに乾いた、真夏の太陽の様に私の心を軽くしてくれた。
来てよかった。
会えてよかった。
「嘉田さん、これからも又、お願いします。」
期待が胸を逸らす。
「こちらこそ。」
それが、嘉田さんの返事だった。
ここに来て、良かった。
私がほっと胸を撫でおろしていると、嘉田さんが、私の背中を押して他の人たちの方に連れていかされた。
「俺の連れ。片桐って言う人。」
そう、紹介してくれた。
「後で、説明するけどほんとに会えてよかった。すぐ終わるから、待ってて。」
嘉田さんはそう言って、私が、何の事か状況を全部把握出来ていない状態だと見て取ったらしいが、彼は取り合えず仲間たちのところに独りで行き、話したり音を合わせたりし始めた。
なんだろう?おんがく?
私は、朧気に彼たちの奏でる音を聴くともなしに聴き、その場所にずっと突っ立っていた。
リズム。身を委ねていると、何気に小気味いい。耳に残る、軽快な音の波しぶき。
私は、このまま音楽に乗って、今置かれている現状に確かな安定感を感じたくなりつつも、嘉田さんと出会えたことと、今の自分とをゆるゆると心の中で紡ぎ合わせていった。
知りたかった、嘉田さんのこと。
少しずつでも、もっと知りたいと思っていた事。
ある時をきっかけに、急に身近になったと思ったら、離れていった私の気持ちと嘉田さんとの距離。
でも、今日の一言で、解けていた繋がりが又、出来て来そうになった。
嬉しかった。
また、逢えた事、繋がりが出来た事が、嬉しかった。
そうだ、私は今まで嘉田さんの何を知っていると思っていたのだろう。
嘉田さんは、私の事をこんなにも良く知っているのに、私は自分から離れて行こうとしていた。
離れていく理由なんてないのに。
私は、嘉田さんの気持ちをどう思っていたのだろう?
きっと、何も思っていなかったのかもしれない。
私は、もしかして自己中心的だったのだろうか?
嘉田さんの気持ちは?
私は、どこにも見つけようとしないでいた。
でも、独りで考えていた空白の時間は、決っして無駄ではない大事な事を意味していたと思う。
それは、嘉田さんの気持ちに気づくきっかけになったかもしれない。
それまでは、いままでの自分に原因があったのではないのだろうか?
それでも、嘉田さんは信じて待っていてくれた。
それが、この空白の時間のすべての答えだった。
「ありがとう。嘉田さん。」
缶コーヒーを、おごってもらってしまった。
「つけといていいよ。」
冗談交じりに弾むような声で、機嫌よく嘉田さんは言う。
「暗くなったし、送るよ。話もしたい。」
嘉田さんは、丁重にボディガードの続きを買って出てくれていた。
話・・・・。
「音楽の事?」
「うん・・・。」
何から話そうかな?と、真面目に迷いながら嘉田さんは話し始めた。
「まず、初めに。俺たち応募して一次選考は突破したんだけど。」
「うん。」
「二次選考は、落ちた。」
「うん。二次選考?」
「オーディションね。」
「・・・・うん。」
「でも、気に掛けて見てくれていた人がいて、お呼びがかかったんだ。ちゃんと、やってみないかってね。」
「うん。」
「上京して。」
「上京?」
「うん。東京に来るように言われた。」
「・・・・・・・・・東京。」
遠い。
「行くの?東京。」
「うん。学校出たら行ってくる。」
「学校・・・。あと一年後か・・・。」
「そう、一年後。」
「私は・・・・?」
「?」
「私も、二年後、来ていいの?」
「おいで。」
嘉田さんの言葉に迷いはなかった。
それから、泣きそうになった私の頭の上から優しい声が降りてくる。
「待ってるから。」
どこをどう歩いたかなんて、もう定かでなくなっていた。
「ずっと、待ってる。」
私は私でなくなり、あまりの絶望感と期待感でそのままどうしていたか見事に忘れてしまった。
でも、
「待ってる。」
嘉田さんの声だけは、いつまでも耳の奥に鮮明に色濃く残り続けた。
・・・・・・・・ずっと、待ってる。
大丈夫。大丈夫だから。
私は、自分を自分で癒すように労わる様に呪文のごとく繰り返し唱えた。
ずっと、待ってる。
その言葉が子守歌の様に、いつの間にか私は祈る様に眠りに落ちた。
十一、
あれから、一年。
晴れの日も雨の日も雪の降る日も、私たちは笑いあって一緒に過ごした。
見つめあう時も、冗談を交わす時も、優しさと幸せの中に私たちは身を委ね合って、労わり合って、時は流れて行った。
まるで、世界から切り離された様なそこだけが特別な日々だった。
それでも、時間は容赦なく流れていく。時間だけはどんなに無理をしようと、だれも、止めることは出来なかった。
私達は、それでも幸せだった。飽くことのないくらい、慈しむように大切な今を刻々と生きていった。
三月。
彼が、いよいよ上京した時、私は取り残されていく。
辛くて寂しくてどうしようもなかったけれど、月日は簡単に、そんな私を追い越していった。
気持ちと逆行して、季節は移ろい、虫の音がしたかと思うと、桜が咲き、やがて雨が降り続き日照りが続き、気が付けば、半年を超すのも容易かった。
私は、進路希望の欄に東京での大学を希望した。バイトしながら独り暮らしをしようと思う。
やがて、二年目の冬が来て、春が来るだろう。
時々、電話で話す、嘉田さんは忙しそうだった。
彼の傍でいつか支えになれる日をずっと待っている日々がいつまで続くのかと、待ち遠しくもあった。
そして、三月下旬。
大学合格の通知とともに、上京出来ることが決まった。
「やっと、会えるね。」
「うん。」
上京当日、私はスマホから聞こえる嘉田さんの声に酔いしれながら、幸せいっぱいの空気を胸いっぱいに吸い込み、行きかう人々で混雑する中、プラットホームの内側に、暫くの間佇んでいた。
ふと、見上げると桜の蕾が咲きかけている。
完。