第2話 一袋に込められた想い
店長は嘘つきだ、コボルトは犬の魔物だって言ったじゃないか。
あんなに大きな犬なんて居るものか。
あんなに恐ろしい顔の犬なんて居るものか。
あんなに爪の大きな犬なんて居るものか。
あんなに牙の大きな犬なんて居るものか。
あんなに…。
「ひっ……」
今…こっちを…見た?店内の淡い灯りを反射して瞳が鈍く光ったのが分かる。
「……え?」
その瞳に宿した光は一粒の雫となって地面へと落ちた。
泣いて…いる?いや、そんなはずは無い。あれはきっと涎が落ちたに違いない。私を見て…涎を垂らしたに違いない。
魔物がドアに近付き、カシ…カシ…と、金属が擦り合わされる様な音が静かな店内に鳴り響く。その度にドアノブがカタ…カタ…と揺れるのを見て背筋に冷たさを感じた。
逃げなきゃ!そう思うのに足が動かない。足に力が入らない。
腰が抜けてへたり込んでしまった私は机の下に身を隠すのが精一杯だった。
入って来ませんように!入って来ませんように!
私の頭の中はその願いで一杯だ。神様が居るのならこんなささやかな願いくらいはどうか聞き入れてはもらえないだろうか。
…カシ…カシ…カチャ、キィィィ。
入って…来た?ドアが開く音がこんなに大きく聞こえるなんて、そして自分の心臓の音がこんなにも大きく聞こえるなんて。
ダメ、心臓の音があいつに聞こえてしまう。落ち着かないと、落ち着かないと。
体の外にまで聞こえてるんじゃないかと思う程に自分の心臓の音がうるさくなる。
この緊張だけで心臓が破裂して私は死んでしまうんじゃないだろうか。
…いや、生きたまま食われるくらいならその方がマシなのかもしれない。
カツ…カツ…と聞こえるこの音は、あいつの爪が店の床を叩く音?
…あ、もう…ダメ…だ。
こんなの私の心の許容量を遥かに超えている。
「ひっ…ひぐ…ひっ…う、うぇぇ…うわぁぁぁ。やだ…もうやだよぉ…」
もう見つかる見つからないなんてどうでも良かった。
ただ子供の様に泣き、私の瞳からは大粒の涙が止めどなく流れていた。
その後魔物がどうなったかなんて私には分からない。
だって、その後の記憶なんて無いから。
……… …… …
…… …
「…アラ……!キアラくん!キアラくん!聞こえるかい!?キアラくん!」
んあ?この声は…店長?寝起きの様な微睡みの中で店長の声が聞こえた。
「あ、キアラくん!良かった、目を開けた」
んん?どうやら私は本当に寝起きだった様だ。しかし何故寝起きに店長が居るのだ?何故この店長は乙女の寝顔を凝視しておったのだ?
どうにもハッキリとしない頭を冷やしてくれたのは私のお尻から伝わってきたヒンヤリとした水気…いや、それにしても少し匂うな…この水。
………え?待って…これ、私の?
「きゃああああああ!」
この歳にしてお寝小!?そんな、そんな、しかも店長が見てるしここお店だし!
「どうしたんだいキアラくん!やはり何かあったのかい!?」
ナウ!ナウでしょ!?今一大事でしょ!?
え?待って!何が………あ。
「そ……だ、あいつ!あいつは!?何で私生きてるの!?」
私はあのコボルトに見つかって…それで…気を失った上に失禁して店長が来るまでこの醜態を晒していた。という事になるのだろう。
客は…まだ居ない。窓からは…見えない位置。良し、最悪の事態だけは免れたはずだ。
「あいつ?誰か来たのかい?」
「コボルト!コボルトが店に!」
そうだ、そして私はあいつに見つかったはずなのだ。しかし自分の体を確認しても特に外傷は見当たらない。
人には害を与えない魔物だったのか?本当に甘い物が好きなだけ?いや…そんな馬鹿な、あの爪は、あの牙は、生きてる獲物を切り裂いて食らう以外の用途など無いはずだ。
今思い出しても寒気がして体がガタガタと震えだす。
私は自分の体の震えを押さえ込む様にして体をギュッと縮めた。
「そうか、分かった、詳しい話は後だ。その…とりあえずシャワー使いなさい」
「ひゃああああ!こっちも一大事だったぁ!」
命の危機も然ることながら今は乙女の危機でもあったのだ。
終わった事はひとまず置いておいて今は乙女としての体裁を保つべきだ。
私はなんとか体を起こすとフラフラとお店のシャワー室へと向かう。良かった、お店にシャワー室があって本当に良かった。
「床は俺が掃除しておこう。ゆっくり入っておいで」
「ひゃあ!それはダメぇ!!」
店長は親切で言ってるつもりでしょうけども!それは泣きっ面に蜂というものですからね!自分の粗相は自分で片付けます!
「もう!店長はデリカシーが無いですよ!私だって年頃の乙女なんですからね!」
私はフラつく足に力を入れ、近くのテーブルからテーブルクロスを引き抜き、ソレで床を綺麗に拭き取ると自分のスカートもろともいっしょくたに洗濯籠へ。
私の体と一緒に洗ってしまいましょう。シャワー室に入りやっと一安心です。
「乙女とはいったい…」
扉ごしに聞こえてくる店長の声、全く失礼しちゃいますね。
「何か言いましたか?」
「いや…思ってたより元気そうで安心したと言ったんだよ」
まぁ、そういうことにしておきましょうか。
「そうですか?あ、私の部屋から着替え持ってきてもらって良いですか?」
「備品庫の空きスペースを自分の部屋って呼ぶの止めてくれないかな?」
「下着は上の引き出しの中にあるので適当に持ってきてください」
「全く…俺を父親かなんかと勘違いしてる子を乙女扱いするなんて無理があるだろう」
「何か言いましたか?」
「……元気そうで良かったよ…はぁ」
「ため息を吐くと幸せが逃げますよ?」
「聞こえてるじゃないか…」
ええ、聞こえていますとも。
少しくらい虚勢を張らないと足に力が入らないんですよ。
本当にやっと一安心だ。シャワーの音が心地好い。
静か過ぎるとあの爪の音が聞こえてきそうで怖い。
…。
「店長、居ますか?」
「居るよ、着替えは置いてある」
「そう…ですか」
「今日は店お休みにするから、落ち着くまでシャワー使うと良い」
「…え?」
「今日はもう無理だろ?君の空元気くらい分かる。それでも空元気も元気の内さ、言ったろ?思ってたより元気そうで安心したって」
「…ありがとう…ございます」
全く、本当にナイスミドルですこと。なんでこれで独身なんでしょうね。
……… …… …
体を洗い終えた私を待っていたのは椅子に座った店長の姿だった。
あんなに怖かったこの場所もいつもの見慣れた風景に戻り、ようやく心が落ち着いた。
…が、今度は別の意味で怖い。さっきまで優しい顔をしていた店長の顔が怖い。
「キアラくん、君も座りなさい」
あ、これは怒られるやつだ。
「えと…ごめんなさい?」
「本当に君は!何の為に早く帰らせたと思ってるんだ!」
「ぅぅ~、分かってます。私が悪いのです」
「まぁ、君が反省しているのは分かっているつもりだ。あまり強く言うつもりは無い」
あらチョロい。やっぱり店長は怒ってても店長ですね。
「キアラくんの両親にはもう伝えてあるから、こってり怒られてきなさい」
「ひいぃ!そう来ましたか!」
「…君の事を一番心配しているのは両親なんだ、伝えない訳にはいかないだろう」
「…あ」
そうだった、私は母さんの制止を無視して飛び出したんだ。
…素直に怒られよう。
「まぁ、分かったなら良いさ。…ところで、これは君のかい?」
そう言って店長が取り出したのはクッキーの入った袋だった。
あの綺麗にラッピングされた袋は知っている。パン屋さんで作っているちょっと大きめなクッキーだ、厚みが有るのに歯応えは柔らかく、子供から大人に至るまで人気がある。
「いえ、最近は買った覚えが無いですね。それに、そのクッキーって…」
「君が倒れていた近くのテーブルの上に置いてあったんだ…」
え?だって、あのクッキーは確か、魔物が…。
投稿日以外にも閲覧者が来てくれているようで嬉しい限りでございます。
さっそく間が開いてしまいましたがちゃんと書いております。今度は浮気せずにこの話を書き上げます。
何卒見捨てない方向でどうか、どうか!