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百合

夜鬼食人譚

作者: 陽田城寺

 歴史文献曰く、夜鬼(よるおに)とはヤマト国に住まう鬼族の分派であり、褐色の肌と黒い髪を持つ、人とも魔ともつかない者たちの総称である。

 ヤマト国より疎外されたかのような小さな島に身を寄せ、土着信仰の根差す独自の文化の中で暮らす彼らは滅多に外部との関りを持たず、月に一度の連絡船で変わり映えのしない近況報告をするのみという。

 謎の多く、外部にも情報の洩れないような彼らが、しかしヤマトのみならず各国の歴史文献にたびたび名を遺しているのは、偏に暗殺者夜鬼の存在が理由であった。

 世界を征服せんとする偉大な為政者、大いなる発明を為す研究者、カリスマある傭兵隊長……、歴史の変換点にもなるような人間が現れた時、音もなく現れ、その命を奪い去っていく。

 暗殺者は夜鬼と自称した。それが部族夜鬼とどう関わっているのか、全ては謎に包まれている。


――――――――――――――――――――


 エレナ・ガーデンは聖職者にして夜鬼島視察団の団長に選ばれた生え抜きの実力者である。

 外国からの視察団とは名ばかりの武力制圧を行う、団長とは名ばかりの兵士長であるが。実力者というのも権力を抜きにしても風と水を操る優秀な魔法使いであるという意味合いだ。

 エレナは美しく、若い女性である。金糸のように編み込まれた髪に透き通るような白い肌、しかしその心はどこまでも義憤に燃えていた。

 ヤマトの国に守られ続けていながら、しかし部族の特徴に合う暗殺者が数百年以上にわたり各国の要人を暗殺し続けていたのだ。解決のために多少強引な手段に及ぼうとするのは当然のこと。

 本国の船より数十の兵を引き連れて島に上陸したエレナであったが、その光景には息を呑んだ。

 土地柄は風光明媚と呼ぶにふさわしく、自然の美しさが際立っていた。

 しかし、それは自然が過ぎた。整った美しさからかけ離れた、人の手の届かない暴力的な自然の姿。

 荒れ果てた海岸に伸びっぱなしの草木。港の跡地はひび割れたり、腐乱した木材が生物の棲家となり船を泊めることさえ躊躇われる。

「団長、これは……」

「……話は事実だった、のでしょうか」

 エレナはあらかじめヤマトの者と話をしていた。その人曰く、既に定期船も行きかっていないと。

 つまり既に夜鬼という部族は滅んだものとしてヤマトは扱っている。最初エレナは、夜鬼を守るためにそういった方便を言っているのだと思ったが、この惨状を見る限りそれは事実らしかった。

「ともかく調査です。人の子がいないかの確認をしましょう」

 団員に指示を飛ばし、各員それぞれに動き出す。自然に帰った島は歩くのも一苦労だが、戦闘用の準備をしてきた彼らはそれらに弱音も吐かず探索を始める。

 島は決して大きくないが、数十人で探索するにはそれなりの労苦であった。部族の襲撃を予想してチームを組んで行動するため時間もかかる。

 その中でエレナは率先して動いた。これが敵の罠だとしても切り抜ける自信と実力があった。一騎当千とまでは言わずとも、逃げ切ることはできる。

 だがそこは、既に文明ではなかった。文明の跡地、終わった人間の姿を示していた。

 蜘蛛の巣が張った家々に、いつから生き物が住み着いているか分からない井戸。田畑は既に機能を失くし、誰かが育てていた作物の類は別の植物にとってかわられていた。

 人の姿一つなく、人の終わりを感じさせる光景に背筋が凍る思いをした。調査をはじめるまでもなく、終わりの光景が広がっていたのだ。

 それでも生き残りや、人が生きていた痕跡は確認せねばならない。油断はせず、一行は手分けをして島中を散策する。


―――――――――――


 島の大半を占める山の頂上に、エレナが辿り着いた時にそれがあった。

 小さな――人一人が暮らすのが精いっぱいというほど小さな、小屋のような庵。そしてその横には盛り土と丁寧に文字が刻まれた石が立っていた。

 墓と庵。不気味でもあるそれは、けれどこの島で初めて見た、真新しい人の温かみのあるものだった。

 何より他の全てと比べ、荒廃した様子のない、生きたものだった。

「失礼します……」

「何者だ」

 反射的に尋ねたエレナは、返答があったことに大きく驚いた。

 庵の中、囲炉裏の傍に胡坐をかいているのは、黒い着物を着た、噂に違わぬ黒い髪と黒い肌の夜鬼の少女だった。

 いや、噂に違う点が一つ。夜鬼の肌は砂漠で暮らす者のように日に焼けた褐色の肌と言われていたが、その少女の肌は言葉通り『黒い』。瞳は不気味に赤く、まるで夜空に赤い月が輝くような風貌であった。

「あ、あなたこそ! 貴女が部族夜鬼か!?」

 戸惑うエレナは魔法が出せるように手で印を組むも、少女はどっしりと座ったまま、茶の入った湯呑を、囲炉裏の対面へ置いた。

「違うな。私は――夜鬼だ」

「……?」

 要領を得ない少女の言葉に困惑しながら、敵意も戦意もない、まして強そうでもない少女にひとまず

警戒を解いた。

 が、ここで違和感が一つ。

「言葉が、分かるのですか?」

「夜鬼に不可能はない。まあ、座ったらどうだ」

 言いながら少女は自分の分の湯呑をどこからか取り出し、囲炉裏においてある鍋から湯をすくった。奇妙な振舞いに困惑しながら、その少女の得体の知れなさに恐怖しながら、エレナは言われるがまま対面に座った。

「……この島の他の人は、部族はどうなりました?」

「皆死んだよ。夜鬼は、夜鬼を遺して消えた」

 恐らく、この少女だけが生き残ったということだろう。しかし同情する余裕もなく、少女が悲嘆にくれる様子もない。

 むしろ少女は老成しきっていた。山のように、最小限の動きしかしない少女は、その赤い瞳でエレナを見つめる。

「彼らは後悔をしなかった。それが定めであると、滅びを受け入れた」

「……なぜ」

「自然の摂理だ。夜鬼は強かった。しかし数は少ない。夜鬼に生贄を捧げることもしていた。繁栄のために捧げる生贄が部族を滅ぼしたのも皮肉な話だが……、彼らは最後には繁栄以上に夜鬼を崇めることに固執していた。……手段と目的を履き違えたのかもしれんな。過ぎた話だが」

「……貴女は何なのですか?」

「夜鬼は夜鬼だ。……ん、ああ、いや、伝わらないか。島の外の者と話したことがなくてな、悪気はない」

 二人の間に行き違いがあることをようやく感じ、少女は宙に目を向けて、考えを巡らせ、ようやく理解しやすい言葉を見つけた。

「そも夜鬼は部族の名ではない。夜鬼とは私の名前だ」

「……というと?」

「私は崇められる信仰の対象であり、この島の部族の長だった。……分かりやすく言えば、彼らの神だ」

 一切の誇張なく少女は――夜鬼は言った。これが嘘ならば大した役者だが、そもそも彼女に感情の類はなさそうで、一切調子を変えることなく淡々と説明しているだけである。

 それを、エレナは息を呑みながら聞いていた。

「なら、聞きますが、この島から暗殺者が出ていることは知っていますか? これまで数百年以上、他国の権力者を殺していた、その悪事を」

「それは全て夜鬼の為したことだ。……ん、む……。夜鬼は個であり全体であるが、島の外に出るのは私の役目だ。外で殺したのは全て私の為したことだ。知っているとも」

「……! では貴女が、暗殺を!? 一体どれほど以前から……!」

「夜鬼は神だ。そも夜鬼の部族も魔族だ。驚くほどのことでもないだろう。一番過去のものとなると、二千年ほど前になるだろうか」

 ただ驚いていた。エレナは驚いていたが――これ以上会話する必要もない。

 その罪は確定した。調査団本来の役割を果たす時が来たのだ。

 立ち上がったエレナは手で印を組みながら呪文を詠唱する。印で素早く夜鬼との間に風の壁を作り、呪文を唱えて放つ大魔法で跡形もなく消し去る算段だ。

 しかし夜鬼は、あっさりとその風の壁を破り、エレナを押し倒した。

「夜鬼は害意には敏感だ。何故そのような敵意を向ける?」

「ほざけ殺人鬼が! これまでどれほどの命を奪ってきた!?」

 少女の細腕はエレナの腕の肉に食い込むほど指をしめつけ、放さない。小さな体からは想像もできないほどの怪力も、夜鬼が神であるということを信じれば合点はいく。

「夜鬼を殺そうとしたものが言うことか。同害復讐を認める者が、自衛の殺しを認めないのか?」

「自衛、だと?」

「そうだ。夜鬼はただ夜鬼の身を守ったに過ぎない。降りかかる火の粉を未然に消しただけだ。夜鬼が殺さなければ、世界は戦火に包まれただろう」

「だからと言って、全く関係ない貴女達が……!」

「やがて巻き込まれる。それが分かっていたからこそ夜鬼は動いた。夜鬼はただ夜鬼のために」

 エレナにも理屈は理解できる。だが誰もそれを納得できるはずがない。人間を超えた存在の理論など。

 そして何より夜鬼は無感情的過ぎた。ただ自衛のためだけ、ただ生きるためだけに生きている存在でしかない。彼女には自分の欲望というものがまるでないようだった。

「……だが、そういうことなら安心していい」

 夜鬼は突然脱力し、エレナの拘束を解いた。困惑するエレナを尻目に、囲炉裏の傍に座り直した夜鬼はぼんやりとつぶやく。

「私はもう誰も殺す必要がない。今までは夜鬼を戦火から守るために殺したまで。夜鬼のいない今となっては、夜鬼はただ静かに暮らすだけだ」

「……それは本当?」

「夜鬼が嘘を吐く必要はない。……戦う気なら応戦するが、何もなかったとして帰ってくれれば、私はこのままここで朽ち果てよう」

 エレナは返答に困った。

 確かに夜鬼が嘘を吐く様子は見られない。エレナが夜鬼を殺すことも不可能そうに思えた。

 彼女が悪事を働かないならば、放置しても問題がないのかもしれない。しかし、罪には罰を与えねばならない。

 少し悩み、離れた兵と合流して夜鬼を討つことにした。

 なれば、今は夜鬼を欺いてこの場を離れるべきだ。

「わかりました。ここであったことは見なかったことにしましょう」

 そう、踵を返した瞬間。

「見損ないましたよ、団長」

 同様にこの庵を発見した兵が、その一部始終を見ていたのだろう、手には既に武器を持ち、エレナごと夜鬼を爆死させる準備も整っている。

「まっ、ちがっ……!」

「まあ、こうなるだろうな」

 悟ったように呟く夜鬼は、エレナの首根っこを引っ掴みながら空いた方の手で囲炉裏を粉砕する。

 その途端、山は内部へと亀裂を走らせ、島が大きく揺れ始める。

 足元もおぼつかないほどの大地震に、地割れ。

 庵も墓も、この島の殆どが崩れ去っていく。

「何を……!?」

「あとは運否天賦だ。祈れ、聖職者ならな」

 言いながら夜鬼とエレナは割れた地面へと吸い込まれるように落ちて行った。


―――――――――――――――――――――――――


 そこは空洞、としか呼べない場所であった。

 上は瓦礫が埋まり陽の光も差さない。地は僅かに濡れて湿っている。

 ドーム状になっているらしい空間は、しかし唯一の出口であるはずの天井すら埋まってしまっていた。

 夜鬼島の地下、である。

「人望がないな」

 目が覚めたことを伝えてもいないのに、エレナが目を覚ますと夜鬼は呟いた。暗黒の空間において、反響する声が、夜鬼がどこにいるのかも判然とさせない。

 そう広くはない空間であるが、その全容をエレナが把握することはできない。

「一体、何を考えていた?」

「どうせ、お前もお前以外も私を殺しにかかるだろう。まとめて一網打尽にしただけだ」

「でも私は生きている」

「お前は私が死ぬ必要があると思うか?」

 話を変えた夜鬼は、先ほど交わした質問を改めてした。

 援軍も見込めない、一方的にエレナが危険な状況でそのような質問をされても、エレナに答えようはない。

「…………」

「沈黙か。良い答えだ。私を許せないが死にたくはない、傲慢で自分勝手な答えだ。私がお前の立場なら、死ぬ必要はないと言ってやるが」

「……何がしたい。何が言いたい?」

 今更エレナは恐怖しない。死ぬことは確かに恐ろしいが、敵に屈すること、信念を貫けないことこそが恐怖すべきことなのだ。

 自分らしく生きるために、死んでしまうことはある。生きるだけなら手段は多々あるが、仁義を守ることはそううまくいかない。

 して、夜鬼の結論はそれと真逆だった。

「私はただ生きていたい。依り代に命を移し、移し、移し、移し……どれだけの供物を捧げさせ、依り代の肉体を奪い取り、年月を生きてきたか。三十七の人間の体を移り変わった。一万六千七十四の年を生き、その数だけ供物を受け取った。人の命の短さを知っている。長く生きてきたとも思う。お前らが想像もできないほど長く、飽きるほど生きた。そう思うだろう。だがな、だがまだまだだ。まだ私は生きていたい。自由が欲しい、安息が欲しい。変わり映えのない毎日だろうと、茶をすすり、日が昇っては落ち、月と星の輝きを眺めるだけで私は満足なのだ。朽ち果てるものか。私は生きていたいのだ!」

 初めて夜鬼がエレナに見せた感情だった。ギラギラと赤い瞳は比喩抜きに輝き、人魂のように二つの輝きがエレナを睨みつけるように見ていた。

 呆れるほど長い時を飽きるほど生きていて、なお夜鬼は生きていたいと叫ぶ。

「この空間はそのために作った。お前らのような外敵が来た時に避難場所としてだ」

 作為的な場所なのはそのためだろう。既に夜鬼は目を閉じたのか、空間は再び暗黒に包まれた。

 しかしここは、島の中。それでは脱出することは殆ど不可能だろう。

「避難して、どうなるんですか?」

「雨が降れば水が得られる。ここに土は無限にある。土と水で夜鬼の体は構成できるのだ。つまり、爪が剥がれ腕がもげるまで壁を殴り続け、雨を待てば、十年はあれば海に出るだろう」

「……私はその間に餓死する、ということか」

 島を破壊し、その残骸から年月をかけて脱出する。夜鬼の全てが死んだ後に生還するという、今までの罪も存在も真っ新にできる巧みな考えであった。

 同じ場所に落ちたエレナもそれだけの月日を飲まず食わずでは生きられない。エレナ達を攻撃した者も島の崩落でただでは済まないだろう。仮に生きていたとしても、敵に与したエレナと最後の生き残りは間違いなく死んだ、という報告をするだろう。

 何もかも夜鬼の計画通り、というわけだ。

 だが、夜鬼の計画にはもう一段階ある。

「生きて脱出したいか?」

「…………」

 エレナの信念は、仁義は、気持ちは。

「可能だ。お前が協力すれば、私とお前で、生きながらこの島を脱出できる。お前が協力しなくとも、私だけなら時間をかけて一人で脱出できる。これは救いの手だ」

「どうやって? 私の魔力では島の岩盤を打ち砕くことはできない。貴女の力でもそれが可能とは思えない」

「単純に掘り進む時間の短縮だ。雨を待たず、お前が水を魔法で生み出せるなら、それで私は掘り続けられる」

 比較的湿った空間であるここなら、それほど魔力を使わずに水を出現させられる。であれば夜鬼は回復するというが。

「……いえ、私の魔力量では、十年分の雨水なんて到底無理。休んでも、飲まず食わずで衰弱していけば魔力も回復しなくなる」

「食って飲めばいいのだろう?」

 夜鬼の言葉の後、轟音が響いた。ぱらぱらと土煙が上がるが、天蓋は崩れそうにない。そこまで計算して作られた空間なのだろうが。

 びちゃ、とエレナの頬に何かがぶつけられた。生暖かい液体と柔らかい何かを、手探りで確認して、エレナは目を見開いた。

「こ、これは……!」

「食え。そうすれば魔力は回復するぞ。なにせ神体だ。普通の食事よりも精がつく」

「食えるか! こんなもの……食ってしまったら……」

「だろうな」

 夜鬼は分かっていた。と言わんばかりの反応だ。

「お前の考えは立派だ。私を活かしておけない気持ちも伝わっている。そんな奴が私を食ってまで生き延びようとはしないだろう。では、私は雨が降るのを待とう」

 それきり、暗黒の沈黙が続いた。

 一日経った。雨は降らない。

 二日経った。雨は降らない。エレナは地面に舌をつけ、その湿り気を吸った。

 三日経った。雨は降らない。エレナは夜鬼の腕の切断面の血を僅かに舐めた。誰もいないかのような空間に、確かに夜鬼がいることを知っているが、彼女がその光景を見ていないように僅かに祈っていた。

 四日、雨が降った。エレナは立ち上がって空へ、餌を求める魚類のように口を開けて天を仰いだ。夜鬼も同じようにしているのだろうかと考えもしたが、ただ天からの恵みを受け取ることに集中し、やがて忘れた。

 長い時間は彼女に様々なことを思わせた。国に残した研究の途中も、自らの出世も今となっては失われたことだった。調査団の団員が無事であるかどうかなと、今となってはどうでもいいことだ。

 横になる時間が増えていた。

 五日目には横になったまま動かなくなっていた。元々ほとんど動いていなかったが、雨がやんだ後は意気消沈したまま微動だにしなくなっていた。

 そんな折、また轟音があって、エレナに千切れた腕がぶつけられた。

「次に雨が降る頃にはお前は死んでいるだろう。決めろ、信念と共に死ぬか、全てを捨てて私と生きるか」

 温かな肉。生の、切り立てほやほやのお肉。血が滴る、お肉。

「う、うぅ……」

 枯れた体でも涙がにじむ。何も考えられない、考える余裕もない。いや、やけに思い起こされるものはある。仕事終わりの一杯だとか、一番好きだった食べ物とか、おいしそうなことを思い出す。

 一日ぶりの血は、まだ温かくて、気持ち悪いけれど、少しずつ嚥下する。吐息が漏れそうになるのをこらえて、血が出なくなるまで飲む。

 そして、その肉に歯を立てた。

 人の肉は人の肉だ。神であろうと、土と水で出来ていようと、その感触は本物だった。

 吐き気があった。拒絶感も。とても食えたものではない。餓死が迫っていても、覚悟せねば食えない代物だった。

 死にたくないから食うものではない。生きるという強い覚悟をせねば食えないものだった。

 己の信念もなく、生きるために生きるという夜鬼の姿勢こそ――今エレナがすべきもの。

 エレナは、自分より年若い肉体の腕にかじりついた。骨しか残さないように、ただ食いつくした。関節も指も咀嚼して、爪と骨を吐き出して。

「…………気持ちが整理できたなら、水を出せ。いつでもいいが」

「……今、やる。早く、脱出しましょう」

 言葉のあと、そっとエレナに寄り添う小さな体があった。抱擁するように水を受ける体に腕が生えていく。こうして吸収される土も、また脱出するために掘り進めることができる。

 その後は、生半可ではないが円滑に事が運んだ。朝昼晩に二度ずつ、魔法による夜鬼の回復と切断された腕の食事。

 ドーム状だった空間に横穴ができ、そこからさらに掘り進み続ける。

 そして地下に来て二十五日目。

「酒飲みたい」

「もうすぐだ! ここからは休みなく行くぞ!」

 拳が岩に埋まる。千切り取る。吸収する。回復する。

 その繰り返しの途中、壁は一人で罅が入り始める。

「……終わったか! 脱出できるぞ!」

 しかし、ことここに至ってようやくエレナは気付いた。

 この空間に海水が流れ込むならば、脱出など到底不可能である。勢いのまま流れる水に流され、ドームで溺死するのではないか。

「……どうやってこれを」

 言うや否や、夜鬼はエレナを締め落とした。


―――――――――――――――――――――


 そして次に気が付いた時は海上であった。

 いかだに乗せられたエレナは、ただ周りを確認して、夜鬼がそばに座っている以外、ただ一面海しかないことに困惑した。

「今度は、何?」

「無事脱出できた。後はどこかに漂着するだけだ。どこかの島まで、このいかだを私が泳いで引っ張ることもできる。ご苦労だった」

「……ともかく、脱出はできたのですか。はぁ。はぁぁぁぁ……」

 深い、深い溜息であった。久しぶりの太陽の光は目を焼くほどに眩しいが、それ以上に心的疲労がとにかく激しい。

 今の彼女には、もう何もない。調査団は全滅したか、生きて帰ったのか。どの道裏切り者として扱われるし、故郷に残るものもない。

 そしてそれは夜鬼も同じ。故郷も、彼女を慕う部族も消え去った。

 何もない女が二人。

「……酒飲みたい」

「どこか行先を言え。話はそれからだ」

「西。あの国なら確か市民権だの住民権だのを実力で勝ち取れるはず」

「ふむ」

 風と水を操るエレナがいればこそ、オンボロのいかだでも順調に進むことはできる。

 それよりもそのあとのことが問題なのだが――

「これから、どうするの?」

「夜鬼はお前を必要としている。私は島の外のことをほとんど知らないからな。いてくれると助かる」

「リターンは?」

「お前は夜鬼が必要だ。夜鬼の血と肉を食べた以上、お前は夜鬼の巫女だ。お前が望むなら私は人を殺すし、お前が望むなら私は人を殺さない」

「夜鬼の巫女?」

「なに、これまでと変わりはないだろう。我が血を定期的に摂取する必要はあるが」

「……ゲェ」

 エレナはつい、海に向かって今まで摂っていた肉や血をいくらか戻す。もう食べる必要もないと思っていたが、それをするのはなかなか我慢できたものではない。

 が、軽い雰囲気で夜鬼は笑う。彼女が見せることのない数少ない表情の一つだった。

「ともあれ、これからも頼むぞ、巫女よ。……お前、名前は?」

「私の名前? ……あぁ、言ってませんでしたか。私は……」

 二人の女はゆらり揺られて移動する。その前途や、いかに。

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