取り合い7
「わっ!」
ぎゅるぎゅると黒い渦が千穂の体に吸い込まれる勢いに、千穂自身が驚きバランスを崩しかける。後ろにのけぞって落ちそうになるところを漆が風でどうにか支えた。
「目の離せない奴だな」
「本当にそう」
漆の言葉に武尊は頷いた。
ぐるぐると、ぎゅるぎゅると渦巻き千穂の体に消えていく。それに合わせて幽霊も少しずつ小さくなっていった。
―負の面だけ吸い取ってるんだ。
そう、様子を見守る三人は思った。小さく小さくなっていき、その大きさは壱華と変わらない大きさになった。最後の渦がその体から離れる。その風に、ばさりと長い髪が美しく揺れた。さらさらと背を流れる。
「ねえ、もう傷ないんじゃない?」
床におろされた千穂は、躊躇なく幽霊に近づいた。熊が動かないよう、武尊は視線で牽制する。幽霊はそろりと顔を上げた。まだ手で顔を覆っている。しかし、自分の身に何か起きていることは分かったようだ。何が起きたのか確認するように、幽霊はそろりと顔に指を這わせた。
「嘘だ」
指先には滑らかな感触が伝わってきた。あの、固い感触ではない。
「どうして」
「私が呑み込んじゃったからね!」
「じゃあ、どうしてあなたの顔はきれいなままなの?」
あの傷を吸い込んだんじゃないの?千穂は、その問いに首を傾げ、自分の顔に触れた。
「うーん、よく分からないけど、大丈夫みたい」
にかっと笑って見せる。すると、ぽろぽろと幽霊は涙を流し始めた。アーモンド形の、きれいな目から涙を流す。
「もう大丈夫だよ。きれいになったから」
千穂はよしよしと幽霊の頭を撫でた。すると、我慢しきれなくなったのか嗚咽が漏れ始める。
「もう、大丈夫だから」
だから、泣かなくていいんだよ?千穂は座り込んで幽霊と目線を合わせた。少し明るい、茶色の目をしてい
た。目が合うと、幽霊は口を開いた。
「ごめ、なさい。あなたのこと、食べようなんて思って」
ひくりひくりと肩が揺れる。
「これでお母さんが言ってた傷もなくなったよ。もう逝けるよね?」
そう言えば、ふわふわと白い光が幽霊を包み始める。
「私が、迷惑かけた人たちは、大丈夫かしら」
幽霊は、今まで襲ってきた少女たちのことを心配し始めた。
「大丈夫。あんたが顔を食ったと思った女子も、今はきれいな顔に戻ったよ」
武尊は磯崎茜を思い出してそう言った。壱華もうんと頷く。
「あなたの話も、時間が経てばみんな忘れちゃうから大丈夫よ」
「そう、それだったら」
いいの。目が、壱華と武尊と合う。幽霊はまだ涙を流してはいたけれど、思いつめた様子はなかった。
「ごめんなさい。そしてありがとう」
「気を付けて」
そう声をかければ、幽霊はふわりと笑った。光が強くなる。それに合わせて、幽霊の体も薄れて行った。
「さようなら」
光が強くなり、一層強く光ったあと、そこには何も残らなかった。
「成仏したの?」
「ええ、うまくいったみたい」
武尊の問いに壱華が頷いて答える。武尊はやれやれとため息をつくと、熊の方へ向き直った。
「それで、千穂のことはあきらめてくれるの?」
「お前がここに来れた時点で俺たちの負けは決まっていた」
熊は不服そうに唸りながら剣に視線を移す。
「今ので、強くなりやがった」
言われれば、少し重くなった気がしなくもない。武尊はひょいひょいと右手で剣を持ち上げてみたが、苦になる重さではなかった。
「じゃあ、千穂は返してもらうよ」
「ああ、かまわない」
「ね!武尊は強いって言ったでしょ!」
その声は突然割り込んできた。
「碧?!」
武尊は自分の肩に飛びついてきたぬいぐるみに驚きの表情が隠せない。碧は、ぽんぽんと飛び乗った肩をたたいた。
「すごいでしょ?強いでしょ?約束通り、俺たちの情報網になってもらうよ」
「ああ、そういう約束だったな」
「どういう約束だって?」
武尊は肩に乗っている碧を睨んだ。
「あ!碧!私のこと食べていいって言ったでしょ!」
千穂がぷんすかと音がしそうな顔で歩み寄ってきた。
「だって、こいつら仲間になんかならないって言うからさ」
千穂のこと食べていいけど、武尊に見つかっておじゃんになったら俺たちの仲間になってねって約束だったの。と碧は続けた。
「待って、俺、また試されたの?」
「だって、実際に会わないと武尊の強さって伝わらないんだもん」
「だったらさっさと会わせればよかったでしょう」
「それじゃつまらなくて」
「碧~」
その頭握りつぶしてやろうかとも思ったが、効果があるのか分からなかったし、ぬいぐるみ自体は千穂の大切なものだろうから壊すわけにもいかなかった。武尊はどろどろと声を低く這わせることしかできなかった。
「さ、反対派も協力派になったわけだし、今日は帰ろう!」
碧がぽんぽんと手をたたく。音などしないはずなのに、聞こえる気がするのはなぜなのか。武尊はその声の明るさにため息をつくしかなかった。
「二人に、終わったって連絡するわね?」
「うん、お願い」
壱華の提案に武尊は頷いた。壱華がポケットから携帯を取り出して連絡を試みる。
「心配してるかな」
千穂も隣から壱華の携帯を覗き込む。
「心配してるわよ」
今一体何時だと思ってるの?と壱華は少々不機嫌だった。
「まさか本当に成仏させるとはな」
漆は感心したように千穂を見ていた。
「まだ千穂を狙う気?」
「いや、もういい。私には片付けられないものだ」
漆はそれだけ言うと背からばさりと翼を出した。
「私は帰るぞ」
「あ!漆、ありがとう!!」
千穂が飛んだ漆にバイバイと手を振った。それを一瞥して漆は消えた。
「じゃあ、私たちも帰りましょう?」
壱華が携帯をしまいながら言った。それにうんと千穂は頷く。笑顔で熊の方に振り返った。
「じゃあ、何か困った時はお願いね!」
「・・・・・・ああ」
熊は渋々といった体で是と返した。それに満足すると、千穂はパタパタと体育館を出ていく。そのあとを壱華と武尊が追う。その背を睨みつけながら熊は言った。
「化け物どもめ」
その声は三人には届かなかった。




