散々5
油断した。完璧に油断した。昨日の水事件や階段事件、カラスと幽霊との対決があったが、きっとカラスの負傷で幽霊は動けないのだろうと高をくくったのがいけなかった。とにかく、千穂は油断した。
それは大島の言葉から始まった。というか、全部大島のせいだと千穂は後々考え直した。
「いやー、今日も中村は暗かったね」
うん、とお弁当も食べ終わり、ポテトチップスに手を伸ばす優実が頷く。
「私、彼は眼鏡をコンタクトに変えて猫背を治せばなかなかな好青年になるんじゃないかって思ってるんだけど」
「えー?マジ?」
うーんと優実は額に指をあてて考え込む。必死に想像しているようだ。
隣の席は空だ。武尊はいない。なぜって、大島が言ったからだ。
『今日は食堂に行こうぜ!頼むよ!』
大島はそう武尊に頭を下げた。それがあんまりにもかわいそうな気がして、千穂は言ってしまったのだ。
『ちょっとくらいなら、平気だよ』
それに武尊が舌打ちした気がしたけれど、無視した。だって、昨日は昼食時は何もなかったし、この真昼間に命を危険にさらされるまでのことはされないと思うのだ。掃除棚とか避けていれば。
『半には戻る』
そう言い残して、武尊は自分より長身の大島を引きずって教室から出て行った。その後ろをしれっとついていく佐々木が不思議だった。
と、そんなこんなで武尊は食堂だ。そろそろ半だと思っていると、カツン、と金属音がした。三人の意識はそこに行く。
「へ?」
一番最初に声を上げたのは優実だった。
「これは」
良くないわね。とあかりは周囲を見渡した。まだ、騒ぎにはなっていない。しかし、それも時間の問題だろう。どうやって誤魔化すか。
千穂の黒鞄が、宙に浮き始めていたのだ。ちなみに、千穂には白いふわふわとした布っ切れのようなものが鞄を持って宙に浮いているのが見えた。
―でも、幽霊じゃない
バスケのゴールが落ちてきた時の気配とは違うものだし、もっと弱い気配だ。と考えながらも、鞄が浮いていくのを唖然と見つめることしかできない。
動けないでいると、他にも気づく生徒が現れてざわめきが起きる。そして女子生徒が悲鳴を上げ始める。その悲鳴に千穂がパニックを起こしそうになったとき、じゅっと音を立てて白い布は消えた。
ドスンと音が鳴り、千穂の鞄が落ちる。とりあえず拾おうと席を立つと、衝撃が千穂を襲う。それは壱華が抱き着いてきた衝撃だった。壱華はばっと体を離すと千穂の顔を覗き込んだ。
「今の何?大丈夫だった?」
―武尊から教室出たから千穂のこと頼むって連絡入ってて。と言う壱華の言葉はどこか遠く聞こえた。しかし、壱華が退治してくれたのだということは分かった。千穂は乾いた笑顔で頷いた。
「うん。平気だったよ」
しかし、ざわめきが引かない。悲鳴まで起きてしまった。その悲鳴が聞こえてしまったのか下の階から斉藤が教室までやってきた。
「どうした?何の騒ぎだ?」
「なんでもありません」
そうとっさに答えたのはあかりだった。なぜそう答えたかは分からないが、今何が起きていたかは知らせないほうがいいと思ったのだ。
「何もなかったわよね?」
あかりは笑顔で教室を見渡した。その笑顔が怖いのはなぜだろう。しかし、ここは従うべきだと誰もが理解した。
「何もなかったです」
誰かがそう続く。そうすれば、なにもなかったとぼそぼそと続く。そこでびしっと優実が手を上げた。
「数学の中村先生が、もしコンタクトに変えて、猫背じゃなかったらかっこいいんじゃないかって想像したら予想以上で悲鳴上げました!次からは脳内だけで上げることにします」
「・・・・・そうしてくれ」
それはどう考えても嘘なのだが、この年頃の子供はよく分からないとぼやきながら斉藤は職員室に戻っていった。
それと入れ違うように武尊たちが戻ってくる。空気に何かあったと三人は悟るが、どう言葉にすればいいかと逡巡する。そこに叫び声一つ。
「武尊のバカ!半過ぎてる!」
そう叫びながら千穂はずるずると床に座り込んだ。手は壱華と繋がれている。
「あの時計、少し早いんだよ」
「それでも絶対武尊のせいだー!」
千穂はうわーんと壱華に泣きつきながら文句を並べる。
「私は大島のせいだと思うわ」
「私も大島に一票」
「え?俺のせい?」
あかりと優実が冷静にそもそもの原因を分析する。何も知らない大島は驚くしかない。しかし、だからと言って許す二人ではない。うん、と力強く頷いた。
「ごめん。次からまた教室で食べる」
武尊は屈んで千穂と目線を合わせてそう言った。武尊に食堂に行って良いと言ったのは千穂だったが、それをすっぽかして馬鹿だの言ってくるということはそれだけ怖かったということだ。武尊は自分が折れることにした。
「そうして~」
ひくひくと泣く千穂の背を壱華がよしよしと撫でる。今の現象と武尊の関係が分らないクラスメイト達は首をかしげるしかなかったが、あやされる千穂とあやす壱華という構図にどこかほっこりとしてしまって、教室にあった混乱や恐怖の感情は薄れて行った。
※
「またぁ??」
ああ~と唸りながら樹はソファに座り込んだ。頭痛でもするのか頭を抱えている。
「うん。幽霊は出てこなかったよ」
「それはそうかもしれないけど!」
樹はがばりと背もたれから身を起こした。
「鞄が浮いちゃうとか!それ見られたとか!」
どう言い訳するのさ!!
ああもう!と叫んで樹はまた背もたれにもたれかかった。
「なんか、大丈夫そうだったよ」
武尊がそうフォローを入れる。
「なんで?」
「あかりが今日のことは忘れろって圧力かけてたし、優実も先生かわしてくれたし」
「二人とも心強いよね!」
千穂はにこにこと笑う。それに釘を刺さねばと武尊は言った。
「千穂は何で鞄を抑えなかったのかを教えてほしいんだけどね」
あと、手品の練習だとかなんだとか誤魔化しようもっとあったでしょう、と武尊はぼやいた。
「・・・・・・・はい、ごめんなさい」
そうだ、上に引っ張られたのなら上から押さえつけるのだってありだったのだ。それを千穂は見ているしかなかった。もう少し、自力でどうにかできるようになった方がいいかと千穂は思った。
「まあ、あかりの圧力だけじゃ足りないんだったら俺も圧力かけるし、心配しなくていいよ」
「ありがとう」
「頼んだわ」
はあ、と壱華もため息をついた。
「本当、どうなってるのかしら。あんなにおしゃべりだった小鬼も見かけたと思ったらすぐ逃げちゃうし」
「言いたくないことがあるんだろうね」
そうだろうと、武尊は碧の両腕を上下に動かして遊ぶ。
「俺は、何も知らないよー」
「首謀者のくせに」
「え?全部碧のせい?」
武尊の言葉に樹が反応する。
「まさかー。俺が千穂に悪いことなんてすると思う?武尊の使い魔なのに?」
「俺、使い魔が何なのかすらよく分かってないんだけど」
「そりゃ、便利な召使みたいなものだよ」
「召使は主人に隠し事をするものなの?」
「隠し事のない生き物なんているの?」
「―口だけは達者だな」
武尊はあきらめて碧から手を放した。
「まあいい。全部終わった後、事が事だったら切る」
「その時は仕方ないね」
主人に消す宣言をされて、碧は器用に肩をすくめて見せた。
―肝が据わってるよなー
飄飄としていて扱いにくい。これで使い魔だとよく言えたものだと樹は思う。自分はもっと神獣たちとは仲がいい。友達のような関係だ。それが、武尊と碧はどこかピリピリしているというか、一線を引いているというか。樹はやっぱり頭を抱えるしかなかった。




