散々4
壱華は放課後の廊下を歩いていた。空は暗く陰り、部活動生ももう帰った者が多いだろう。
―今日も誰か襲われたりするのかしら
なんてことを考えながら歩く。今日はひとまず三年生の教室のある階から順々に下っていくことにした。樹の話によれば幽霊話は初等部では聞かないらしいし、中等部がどうなのか気にはかかるが、一応幽霊は高等部で動き回っているということにして、やはり見回りは高等部を調べることにする。もちろん千穂はあの後無事に家に届けて啓太と樹に任せてある。札はポケットに準備済みだ。武尊は自分の教室で待機している。
「やっぱり何度歩き回ってもこの時間帯って気持ち悪いわね」
夕日はわずかに空を橙に染め、ほとんどは藍色に包まれている。外を走る車のライトがどことなくまぶしい。
―この階にはいないっと
調理室の階も歩き回ったが、何も起きなかった。壱華はさらに下に向かう。自分や千穂、武尊の教室がある階だ。
―この階には出なさそうね
なんて言ったって武尊が居る階だ。幽霊も武尊は避けるだろう。消されかけたのだ。そう思いながらゆっくりと廊下を歩く。当然学生鞄は千穂を送った際に部屋に置いてきた。手ぶらでぶらぶらと歩く。その時、ヒヤリと空気が変わった。
―嘘でしょう?
一度失敗した獲物を狙うのか?しかし、確かにその冷たい霊気に体が強張る。
するりと何かが首に巻き付いてきた。視線を下ろすと、それはきれいな白い女の腕だった。
―何よ、やっぱりきれいにしてるじゃない。
「あなた、美味しそう」
なるほど、幽霊はどうやら人間を食べて傷を癒すつもりのようだ。しかし、壱華だっていつまでもビビっているわけじゃない。
「お久しぶりね。いいえ、昨日ぶりかしら」
「ええ、そうね」
幽霊はぴったりと冷たい体を壱華に押し付けながら答えた。
「どうして、千穂を狙ったの?」
「あの子、美味しそうだったから」
だから、他のに取られちゃうんじゃないかと思って―。
「だから、殺そうとしたの?」
「そう、逃げられないように。同じ霊体なら、他の奴に出し抜かれることもないわ」
―そうなのか?
壱華は考える。妖よりも霊体であった方が霊体には接触しやすいということだろうか。
「それに、死んじゃったらあなたたちにできることはないでしょう?」
―こっちが本丸か。
壱華はそう判断する。
「でも、失敗しちゃった」
「優秀な騎士がいるものだから」
「そうね、あの子を食べるのは難しそう」
ねえ、だから―
「あなたのお顔を頂戴な」
「悪いけど、断るわ」
壱華はばっと幽霊の腕を振り切ると詠唱に入った。札から青白い光が浮かび上がる。
「これで成仏してもらうわ!」
壱華は札を放った。しかしそれは弾かれる。その時の気が、この幽霊のものとは違う気がした。
―これがカラス?
教頭に飼われているというカラス。その実力は未知数。
―武尊!
来て、とそれは声にならなかった。壱華は手をのどに伸ばす。
「うふふ。声が出なければあの変な呪文は唱えられないでしょう?」
―やられた
ぐっと歯をかみしめたとき。
バサリ
固い音がした。壱華は後ろを振り返る。そこには黒髪の少女が翼をしまい足を廊下につけるところだった。少女は壱華と目が合うと笑った。愛らしい顔なのに、その笑い方は年不相応に見えた。
「悪いが、お前には喰われてもらう」
―どうして?
「なんでだという顔をしているな。・・・そうだな―」
少女は考えるようにつと目を伏せる。長いまつげが印象的だった。
「罰だ」
そう、笑った。しかし、目は冷たい光を宿している。
―罰?
「ふふふふ。ご主人様をこんなつまらないことにつき合わせた罰だ。一人くらい消えたって問題あるまい?金色の使い手一人で十分だろう?」
まあ、あの小娘もいつかは殺すがな。少女は笑った。
それはだめだ。千穂を渡すわけにはいかない。どうしようかと考えていると、冷たいものが両頬を包んだ。はっと前に意識を戻す。幽霊の口は裂けたように大きく開き、壱華を飲み込もうとしていた。
―ちょ!まっ!
嫌だ!怖い!助けて!
―啓太―
その時、自然とその名が浮かんだことに壱華は気づかない。
「ぎゃあああああああああああああああああ」
後ろからの悲鳴に幽霊が止まる。壱華は幽霊の体を押しやった。
―触れる
じゃあ、蹴とばしてもいいだろうか。しかしそれ以上に興味をひくものがあった。
「何が」
あったの?
「声が」
出る。壱華は不思議そうに両手で首に触れた。しかしすぐに思い出して視線を悲鳴を上げたカラスに向けた。少女の体に黄金の剣が突き刺さっていた。
「武尊!」
―助かった!壱華は喜色を隠せずに少年の名を呼んだ。
「漆って、呼ばれてたな。なんであいつに協力する」
「くそっ!結界を張って―」
「お前の力のにおいなら覚えた。結界を張った時点でお前が出しゃばってきたことはお見通しだ」
「ち!引くぞ」
「あと少しだったのに」
「油断した!お前もこのままじゃ消されるぞ!」
「それは嫌だわ」
どこかのんきな幽霊を連れてカラスは姿を消した。一瞬の早業に二人は目を瞬かせることしかできなかった。
「教頭のカラスだね」
壱華は問いかける。
「教頭も敵ってこと?」
武尊は首を横に振った。
「親父が選んだ教頭だ。少なくとも敵じゃない」
「じゃあ、どうして」
「使い魔が勝手に動いてるだけでしょう」
うちみたいに、と武尊は苦々しげに顔をしかめる。その顔のまま続けた。
「手伝ってくれるカラスが負傷したんだ、しばらくは大人しくしてるでしょ」
武尊は剣をしまいながら小さくため息をついた。
「それより気になるのは―」
窓から沈む夕日を見つめる武尊の言葉に壱華が続けた。
「どうして千穂がいたずらされたかってこと?」
「そう。留守番組で少しは考えてくれてたらいいけど」
それに、ああと壱華は声をこぼした。
「それはあんまり期待できないかもね」
「まじめなのが樹しかいないからね」
分かると武尊が表情で語る。
「とりあえず戻りましょう」
「分かった」
二人は千穂と兄弟が待っている部屋へと向かって歩き出した。
※
「学校の妖は協力してくれるんでしょ?」
「きちんと守ってあげたらね」
樹は碧とそんな話をしていた。
「じゃあ、やっぱり千穂に水をかけたのっておかしくない?」
「そう?ちょっとしたいたずらじゃないの?」
「せめてもっと人の少ないところでやってほしいものだけどね」
はあ、と樹はため息をついた。そして視線を動かす。その先では千穂と啓太がレーシングゲームで遊んでいた。帰ってきたらあの調子だ。頼りにはならない。
「でも千穂は『頼まれた』って言ってたって言ってたよ。誰かに指示されたってことじゃないの?」
もしかしてカラス?と樹は腕を組む。
「あいつは強いから、そんなまだるっこしいことしないよ」
「じゃあ、誰」
「別の強い妖じゃないの?」
その声は突然割り込んできた。
「あ、おかえり」
樹はダイニングテーブルの椅子に座ったままで振り返る。やっと頼りになる二人が返ってきたと顔の筋肉を緩める。
「どうだった?」
「あの幽霊なかなかよ。一度私を襲うのに失敗してるのに今日も懲りずに私のところに来たわ」
ついでにカラスも。と壱華は付け足す。
「碧。お前はいったいどこまで情報提供者に組み込んだんだ?」
「それは全員だよ。生き残り全部」
「本当に?」
「本当」
「俺にはそう思えない」
「どうして?」
きつい視線に碧は慌てたりなどしない。ただ根拠を求める。
「全員がこの話に乗るとは思えない。全員が乗らないとも思えない。あれだけの数がいるんだ。妖の中で問題が起きてもおかしくない」
「碧の話に乗るかどうかで真っ二つに分かれちゃったってこと?」
「どっち付かずもいると思うよ」
樹の質問に武尊はそう答えた。
「じゃあ、小鬼は反対派に頼まれてやったってこと?」
「そうじゃないかと俺は思ってる。―弱肉強食なんでしょ?」
強い奴に頼まれたら実行するしかないんじゃない?
「―そこは想像にお任せします」
そう言うと、ぴょんと碧は武尊の肩に飛び乗った。
「まあ、いいじゃない。そんなことは。ご飯食べに行こうよ」
「お前、ぬいぐるみだから食べられないじゃん」
「においだけでも満喫したいんです~」
「なんで食堂にぬいぐるみをもっていかないといけないの」
「いいじゃん~。武尊のケチ~」
「ご飯!」
一人と一匹でそんな会話をしていると、突如千穂が叫んだ。
「ご飯行く!」
樹と壱華と武尊はため息をついたが、啓太だけにかっと笑った。
「そうだな!腹減った!」
五人と一匹は食堂に向かった。