ニトさんにかんする異常な事態
ニトさんがさっき車にはねられた。
今朝の九時過ぎ、その一報を教室で聞くや否や、あたしはすぐさま病院へ向かうことを決意した。
何を隠そう今は春休みだ、早朝から学校を抜け出そうとサボりにはならない。じゃあなんであたしは教室なんかにいるのかというと、今日は部活があったのだ。
おい待て教室と言ったろう、というツッコミにも対処できる。ここはパソコン室。あたしが通う、とある女子高の特別教室だ。
あたしの名前は志波由梨乃。とある女子高の一年生、パソコン部の部員だ。でも、春休みにパソコン部が一体何をやるのだ、という問いには答えられない。というのも、今日の集まりはパソコンなんて全く関係がない、さながら野球場で相撲を取るようなものだったからだ。
「ねえ……ニトさん、大丈夫かなあ……」
悲痛さを込めた声で、細川雪風が言った。彼女もあたしと同じく、教室で事故の知らせを受け、あたしと一緒に病院へ向かっている。大和撫子風でいつもなら笑みが浮かんでいる顔は元気がなく、間延びするような口調も震えが目立っていて、背中まである長いストレートヘアも心なしかしおれて見える。
「大丈夫だよ……うん、大丈夫!」
握り拳を作ってカラ元気を見せたのは、畑山優香。こちらは肩に届かないショートカットで、悩みなどなさそうな明るさを常に発散しているキャラが、程度こそ違えど雪風と同ベクトルである。だがそんな優香といえども、今は心配の二文字がほっぺたから滲み出ていた。
「とにかく、行こう!」
こんなとき、あたしはガチガチになった対応をしがちなので、自分を鼓舞するように言い放って足を速めた。校門を出てタクシーを捕まえ、病院名を告げる。
あたしたち三人は、パソコン部の同級生だ。親友同士だとあたしは思っているし、優香も雪風もそう考えているだろうと確信できる。その程度の仲良しだ。
タクシーが動き出して、じたばたしても始まらない空気になり、ちょっと気が抜ける。誰も助手席に座る気になれなくて、三人して後部座席に掛け、寄り添い合う。それだけのことが、どんなアンビエント系の音楽よりも心を落ち着かせてくれた。
──そうだ、今日の活動内容についてまだ触れていなかった。いや、活動予定と言い換えるべきか。なにせ、ニトさんが事故ってしまっている。中止は確実だ。
パソコン部が普段何をやっているかというと、まあネットでいろいろ調べたり、遊んだりしている。要するに、運動部の連中が見たら鳥肌が立つようなゆるい部活だ。あまりにゆるすぎて、部員もたった五人しかいない。うち三人は、このタクシーの中で心拍数を上げている。
そして、残りの二人のうちの片方が、今朝車にはねられたニトさんだ。
ニトさんの本名は似鳥美奈。高校二年生だ。まだ紹介していない残りのパソコン部員が、同じ二年生にして部長の相川美奈という同名の先輩なので、ニトさんと呼ばれている。かといって相川先輩に綽名はない。こちらはそういうのを欲するタイプの人ではないのだ。
そんなパソコン部では、春休み目前の終業式間際にちょっとした出来事があった。
ニトさんは映画好きである。対して相川先輩はミステリ好き。二人はそれを巡って対立するわけではなかったが、ラーメンとお好み焼きの味を比べるバラエティ番組があるように、時々自分の得意分野の優位性を主張し合うことがあった。まあ、相川先輩がやけに知的なのに対してニトさんは天然なところがあるから、勢力伯仲とは言いづらいけれど。
そんな状況下、相川先輩が、ニトさんの好きな映画を真面目に評論したレポートを書いてきた。それはヒッチコックと聞いてバックパックを背負った料理人を想像してしまうあたしからしてもよくできていて、バカっぽく見えるわりに存外博識な優香も舌を巻いていた。
当然焦ったのはニトさんである。向こうが自分の領分を侵食してきた。まずい、非常にまずい。きっとテンパったのだろう、ニトさんはこう叫んでいた。
「あ、あたしだってミステリ小説かけるもんっ!」
これを聞いた相川先輩の、鴨がネギに加えて豆腐とキノコとウドンと鍋をしょってやってきたと言わんばかりの笑みは措くとして、必然的にニトさんは執筆の義務を負ってしまった。
──言ったからにはやってみせるもん。
ニトさんは強がりながらも宣言し、犯人当てクイズ形式の作品を、設定した締切日までに書き上げてくることを誓ったのである。
もちろん、その締切日とは今日だ。
昨日「絶対明日持っていくから! 今から書くから!」というニトさんの、心もとなさ過ぎて代筆を打診したくなるようなメールがあり、今日あたしたちはハラハラしながら登校してきたわけだが、まさかの事故。ニトさんが車にはねられてしまったのである。周りが見えていなかったのかは知らないが、今は冗談を言う気になれない。雪風に至っては、そろそろ泣き出しそうである。
と、タクシーが病院前に到着した。優香が多少おろおろしながら清算を済ませる傍らで、ただ事ではないと思ったのだろう、運転手さんが優しい声をかけていた。ちなみに相川先輩は登校途中に事故の連絡を受け、その足で病院に向かったらしいので、もう着いているはずだ。あの二人もやはり、親友同士なのである。
三人して小走りになりながら、受付へ急ぐ。あたしたちは誰も身長が高くなくて、第二次性徴度も軒並み低い、アメリカ人の高校生からしたら小学生と見まごうことが間違いないちんちくりんで、上下する肩も響く靴音もどこか緊迫感を欠く。それでも切実な思いでエントランスをくぐると、すぐそこに見知った顔を発見した。優香が小さく叫ぶ。
「三上先生っ」
そのいかにも大人の女性っぽい、雪風のスタイルを良くしてそのまま成長させたかのような温和な雰囲気を持つ人は、我らがパソコン部の顧問の三上先生だった。そもそも事故の連絡をくれたのも先生である。ニトさんのクラスの担任でもあるからだ。優香と雪風が、臆面もなく飛びついて行った。先生は赤いセーターを着ているので、なんとなく闘牛のイメージが脳裏をよぎる。
「あの、ニトさん、は」
あたしはつっかえながら尋ねた。病院だから静かにしないと、と思ったのではない。単純にテンパってしまったのだ。優香と雪風がゆるゆるとした感じである反面、あたしはいつも真面目くさったキャラクターでいるが、こういうとき慌ててしまうのが嫌だ。目尻に涙が浮かびそうになる。顔が熱い。
「だ、大丈夫よ」先生はこちらを動揺させまいと気遣っているのがバレバレな口調で答えた。「焦らないで。命に別状はないみたいだから」
その言葉に、先生の胴体に顔を擦り付けていた二人が首をもたげる。そして脱力するように床に崩れ落ちてから、どちらからともなく「よかった~……」と呟いた。
命に別状はない。なんていい響きだろう、涙腺が一気にゆるむ──いかん、ここで泣いては示しがつかない。と思って我慢していると雪風が普通にしゃくり上げ始めた。だからそういうことするなってば、つられるだろ! あたしは極力そちらを見ないようにして、先生と話した。
その結果、次のような情報が得られた。
まず、ニトさんは一般乗用車にはねられたらしいとのこと。トラックのような大型車ではない。場所は、彼女の通学路のとある地点、車道に面したところ。現状から察するに、ニトさんに過失はなく、車が突っ込んできただけのようだ。徹夜明けの飲酒運転かなにかではないか、と見られている。というのも、ニトさんをはねた車はまだ見つかっていない。ひき逃げだ。
ニトさんの容態は、確かに命に別状はなかった。しかし、はね飛ばされた時に頭を打っていて、意識を取り戻すにはまだ少し時間がかかるという。その他、左足の腿の部分を綺麗に骨折していた。軽傷のようで重傷じゃないか。
時計を見ると、午前十時を回ったところ。事故発生からまだ二時間ほどしか経っていない。ならば情報もそれくらいだろう。あたしは大きく息をついて、安堵の意を示した。
「あと、それとね」
と、先生がさらに言葉を継ぐ。何だろう。不思議に思うと、いつの間にか会話に参加していた雪風が「なんですかー?」と尋ねた。声に伸びが戻ってきている。いいことだ。
「ええとね。その、似鳥さん、事故現場に倒れていた時、紙を五枚、手にしていたらしいの。どうやら小説みたいなんだけどね、心当たりあるかしら?」
「あ、あります」
優香が即答した。あたしも分かる。間違いない、例の犯人当て小説だ。やはりニトさんは書き上げていたのか。一分ほどかけて、先生に経緯を説明する。
「……そう、そういうことなのね。実はこれなんだけど」言いながら先生は、ハンドバッグから比較的きれいな紙束を取り出してこちらに寄越した。あたしが受け取って見ると、確かに五枚ある。印刷されていたが、題は「シネマリバイ」と手書きでつけられていた。
「一体なんで、これを手にしたまま倒れていたのかしら?」
確かに。どうしてだろう。読みながら登校していて、車にはねられた、とか?
「まさか……私たちに、解いて、って言ってるんじゃ……」
雪風が肩を抱きながら言った。神林長平の大ファンの親のもとに生まれたことが名前から分かる彼女は、やはり想像力が豊かである。普段なら額を弾くところだが、やめた。
「……うん。そうかも」
なんと、優香まで乗る。「そんな、まさか」あたしが否定すると、「でも、ニトさん、昨日一気にこれを書き上げたんだよね。だったら読んでほしい気持ちも人一倍のはず」なんて返してくるから、ちょっと納得しそうになってしまう。
「それでいいんじゃないか」
不意に背後から新たな、しかしよく知る声がした。振り返ると、そこにいたのは案の定相川先輩だ。外見はどちらかというと優香のような屈託のないタイプだが、言動は反して怜悧である。どうやらニトさんのいる病室から降りて来たらしい。
「似鳥はこのまま快方に向かうらしい。だったらアレだ、お前らここにいても騒ぐだけだろ? 他の人の迷惑になるから、私が呼びに来るまで外にいな。近くに喫茶店があるから、そこでしゃべっていたらいいと思うよ」ここで手渡される二千円。ぬ、抜かりない。
「本当に……ニトさん、大丈夫なんですよね?」
しれっとお金を懐に入れ、優香が尋ねた。
「ああ。間違いない。心配だけかけやがって、意識が戻ったら、どついてやらないとな。その意味も兼ねてさ、お前ら喫茶店で謎解きをやっちまえよ。そうしておいて、犯人を速攻で指摘しちゃえよ。あたしはまだ読んでないけど、きっとすぐ分かっちまうし。お前らミステリ読まないだろ? 先輩命令だ、頑張ってみな」
突き放したような言い方だが、手持ち無沙汰を持て余すであろうあたしたちに気を配っているのがはっきり分かった。声色からも、複雑な思いが察せられる。最悪の事態は回避したが、それでも安心はできないような感情。相川先輩といえども、やはり平静ではないのだ。
「……そうしようよ」
同じことを思ったのか、雪風があたしの肩を叩いた。三上先生も、賛同するように頷く。
「分かり、ました。意識が戻ったら、呼びに来てくださいね」
あたしの言葉に相川先輩はひらりと手を振って応えた。かくしてあたしたちは近くの喫茶店で普通のコーヒーを注文し、ニトさんの力作に目を通し始めたのである。