グリズリーの森
随分、随分、遅くなりました。
森のそばの小さな小道。
近くにはチョロチョロと小川が流れ、暖かい春を感じさせる風が花の匂いを運んでくる。
その心地いい風が白い髪の間を吹き抜け、猫のように目を細める少年がいた。
服はボロボロ。
マントだったのものは、もはやほぼ原形もなくなり、靴は擦り切れている。
彼の体も似たようなもので、そこら中にかすり傷や軽い切り傷のようなものが見える。
杖をつきよたよたと歩く少年の姿は、悲惨以外の何物でもないのだが、顔は満足げに微笑んでいた。
まるでこの一秒、一瞬の幸せをかみしめるような、心の底から満ち足りた、嬉しそうな笑顔。こちらまで笑顔になってしまうほど、幸せにあふれた表情だった。
—気持ちいいなぁ。春ってこんなに気持ちいいんだなぁ。寝ちゃうかもしれない。
だが、突然幸せな時間に水を差すように、少年のおなかが大きな音を立てた。
グルルルルルキュー。
一瞬で笑顔がげっそりした顔へと変わる。
―腹減った。ここ二日ほとんど何も食べてない。死にそう……。せっかく忘れかけてたのに、思い出しちゃったじゃないか!腹の音のせいで!やばい、やばい。ほんとに腹が減った。
足が早まる。
少年はにおいを頼りに食べ物を探そうとするが、大して鍛えてもいない鼻だ。
強烈なにおいならともかく、この森の匂いから食べ物の匂いなどかぎ分けれるわけがない。
小川の魚をつかまえようとしてみるが、小さく、すばしっこいせいで全く捕まえられない。おまけにちょっと転んで、ぼろぼろの服がさらにびしょびしょになった。
―踏んだり蹴ったりだ。
腹が立ったので、小川の魚めがけてに石を投げといた。当たらなかったが。
少年はしばらくぶすくれた顔で動かないでいたが、らちが明かない。
おもむろに立ち上がると森の中へ、ずんずんと入っていった。
入ってすぐに収穫はあった。
小さな茂みにひとふさだけ何の名前かわからない青い色のベリーがなっていたのだ。
普段なら「毒はないだろうか?」と少しは心配しただろうが、餓死寸前だ。
少年にはベリーがサファイアのように輝いて見えた。
黒い瞳を感動と感慨でウルウルさせながら、ベリーに手を伸ばしたその時。
横からにゅっと大きな太く、毛むくじゃらな手が一瞬でサファイアを奪い去った。
そのまま、ブラックホールのような口の中に消える。
もちろん、少年の口ではない。
一瞬何が起こったかわからなかった彼は、呆然とした顔で自分の口にも手にもベリーがないことを確認すると、怒りのあまり大声で叫んだ。
「だれだあっ!僕のサファイアを食った奴はっ!!!」
そしてブラックホールのような口と毛むくじゃらな手を持つを人物を振り返って唖然とする。
人ではなかった。
「熊……。いや、グリズリー!」
悲鳴をあげる。当たり前だ。とんでもない巨体と腕力を持つ怪物なのだ。グリズリーというのは。本でしか見たことがない。
四つん這いなのに自分より数10センチ大きい。
―落ち着けっ、落ち着け!グリズリーはたしか普段は温厚な生き物のはず、ただ怒らせるとやばいだけで。
ガクガクと震えながらもう一度グリズリーを見上げる。目が合った。そのまま数秒見つめ合う。にやりとグリズリーの口がゆがんだ気がした。
―えっ気のせい?笑った?
次いで奴はペロリと口の周りをおいしそうになめ、また、にやりと笑った。少年の反応を楽しむように。
次の瞬間、恐怖が一気に怒りと殺意へと変わった。
「ああっ!おいしかったか、おいしかったね。僕のベリーはとってもおいしかったよねえ。」
-ゆるさんっ!ぜっったいに許さない。食べ物恨みは怖い。恐怖より食欲だ。決意は固い。絶対にこいつに思い知らせてやる!
「うおおおおおおおおおっ!」
威嚇するように大声を上げたのが間違いだった。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
張り合うように、グリズリーがあげた少年の数倍の大きさの咆哮に、少年は一目散に森の奥へと逃げ込んだ。
「死ぬかと思った…。」
まだ息が苦しい。あまりの恐怖に杖も置いてきてしまった。少年は木の根に身を預けるとしばらく休んだ。空腹なうえにこの疲れ。限界に近い。
-死ぬかもしれないなぁ。あぁ、腹減ったー。
フラフラとまた立ち上がり歩き出す。
「ベリー…、ベリー…。」
-たべたかったなぁ、ベリー。
すると、違う茂みに赤いベリーがなっているのが見えた。
「っ!」
喜びのあまり、疲れも忘れて走り出す。そして手を伸ばしベリーに手が届くかという瀬戸際、毛むくじゃらな太い手が横からにゅっと伸び、ベリーを奪い去った。
「……。」
絶望のあまり、立ち尽くす。わかっていた。誰があの輝くルビーのようなベリーを奪い去ったのかなんてわかっていた。
「こんのっくまやろうー!!!。」
空腹と怒りのあまり理性がぶっ飛んだ状態だった少年はグリズリーにそばにあった石を投げつけた。しかし、グリズリーは鮮やかにそれをキャッチすると、にぃと凶悪な顔で笑う。
「あっはー。」
いまさらながらに理性を取り戻し、乾いた笑い声を立てる。
—あの本全然あてにならん!何が普段は温厚だっ!
次の瞬間奴は全力で石を投げてきた。
「ギャー――。」
そういうやり取りがそれから小一時間、何度もあった。そのたびに少年はグリズリーにおいしそうなベリーを持っていかれるのだ。悔しいので落とし穴を仕掛けたりしてみたがことごとく交わされる。
そして今、
たまりにたまりかねた少年は前に落とした杖を拾い、グリズリーと対峙していた。
—こいつを倒す!じゃないと空腹で死んでしまう!
「おまえを倒して、僕はベリーを食うんだあ!」
自分の意志は固いとばかりにドンっと胸をたたく。
グリズリーはそれを見て面白そうに顔をゆがめると、立ち上がった。
前の二倍はある大きさに、思わずごくりとつばを飲み込む。気づかなかったが腹に大きな古傷があり、それがなおさら恐怖を掻き立てた。
意識して大きく息を吸う。重心を少し後ろに移動させ、腰を落とす。そして杖を剣のように構える。目が合う。
硬直。
ざわざわと木の枝が揺れる。
鳥のさえずり。
交差する視線。
そして少年の頬を静かに伝う汗。
すさまじい緊張感のなか、
「グルキュルルルルー」
場違いな音が響いた。
何を隠そう少年の腹の音である。グリズリーは予想できなかったその音に思わず毒気を抜かれ、目をぱちくりさせた。
その一瞬の隙。
少年はグリズリーに飛び掛かった。
反応が遅れたグリズリーはすぐさま持ち直し、少年めがけて、鉛のような腕を振り下ろすが、遅い。
少年は鮮やかによけ、もう一度振り上げられた、グリズリーの腕めがけて、枝を振り上げた。
華奢な体からは想像もつかない、力強い一撃にグリズリーは少しだけ後ろによろける。
すかさず少年は剣を振り上げた状態から空中で半回転。
「はっ!」
鋭く息を吐き、杖を顔面に叩き込む。そして追い打ちとばかりにもう一発蹴りを入れた。
グラッと倒れるグリズリーの巨体。
ドォンというすさまじい音が、森中に響く。
頭を強く打ち付けたグリズリーは完全に気を失っていた。
「はぁ。」
大きく息を吐いて、少年はへたり込んだ。
「怖かった…」
いくら空腹で怒りが頂点に達していたとはいえ、恐怖は感じるのだ。しかも、相手は自分の3倍はあるクマのような怪物。
—空腹の音がなければぎりぎりだった。
一瞬のスキを作れたおかげで、ダメージを食らわずに済んだ。あれほどのパンチを受けたらたとえ空腹でヘロヘロじゃなくても再起不能。
少年はもう一度大きく息を吐くと、今度はにんまり微笑んだ。
「ふっふー。やった!これでベリーが食べられる。」
さっきまでの緊張感はどこやら、フンフンと鼻歌うたいながら歩く。今にでもスキップしてしまいそうだ。そしてさっそく見つけた。青いベリーがなっている茂み。
杖を投げだし、走り出す。
そして手を伸ばしたその時、足元でずぽっという音がし、地面が消えた。
視界が暗転する。最後に聞こえたのはドスッという音。感じたのは背中に鈍い痛み。
少年は自分がグリズリー用に仕掛けた、落とし穴にまんまとはまってしまったのである。
結局、彼は一粒のベリーも食べられないまま気を失った。
「無念…」